第20話 阿仁前田駅

 駅舎への階段を上り、鷹巣に帰る矢代蘭を見送ろうと、電車の時間まで待合室のベンチに腰を下ろした。沈黙を挟んで矢代蘭が呟いた。


「…棲んでるよね」


 エルトン・仁が今言おうとした言葉と同じだった。


「…ああ」


 お互いに須又温泉での恐怖を思い出し、悪寒が走っていた。


(回想)

 須又温泉の裏木戸を入った二人は、ボイラー室を抜け、浴場に続くドアの前で暫く中の様子を窺った。エルトン・仁はその戸を慎重に開けた。僅かな月明かりがレトロな豆タイルの浴場を照らしていた。大きく呼吸をしてから浴場の中に足を踏み入れた。タイル貼りのせいか、建物内なのに外より“ひんやり”としていた。靴底にタイルの固さを感じながら、中央のグッズの山を横目に、凍死現場とされる脱衣室に向かった。

 脱衣室との境のガラス戸を開ける音が浴場のタイルに響いて思わず振り返った。その誰も居ない暗い浴場は、地元民に温もりの癒しを提供した場だとは凡そ思えなかった。

 脱衣室では耳障りな音がする。古い柱時計の振り子が黒ずんだ真鍮の光りを放ちながら揺れていた。


「皆さん、競りを開始します!」


 “ハッ” となった。矢代蘭が声のする浴場に振り向こうとするのを、エルトン・仁はグッと抑えた。


「駄目だ…振り向いたら駄目だ」

「・・・!」

「聞こえないふりをするんだ」


 浴場からの声が更に二人に突き刺さるように飛んで来た。


「最初の商品は台本ですよ! この台本は初代戦隊ヒーロー作品の台本、それも第一話です!」


 その言葉に、エルトン・仁は地団駄を踏んだ。エルトン・仁が最も欲しいものだった。


「この台本は一品物といわれていますよ! ここで手に入れなければ二度とお目に掛かれる代物ではありません! 初代戦隊ヒーロー第一話の台本…1000円から始めます!」


 破格の安さのスタートがエルトン・仁の特撮熱を激しく揺さぶった。過去にエルトン・仁は自分のブログに幻の台本の記事を載せたことがあった。手に入るなら自分にできることは何でもしたいと、台本への熱意を語っていた。


「エルトンさん、大丈夫なの?」


 矢代蘭が様子のおかしくなったエルトン・仁に囁いた。


「ああ、大丈夫…」


 エルトン・仁は巧妙な誘惑を振り切って後ろ手にガラス戸をゆっくりと閉めた。


「ここはもうヤバい。やつは我々の想像以上に醜悪になっている。急いで正面玄関から出よう!」

「鍵が掛かってるんじゃ…」

「とにかく行こう!」


 二人は脱衣室を横切って玄関に向かった。ガラス戸の向こうから参加者の競り落とす声が聞こえて来た。


「2000円!」

「3000円!」


 聞き覚えのある声だ。ちば藤としつ子の声である。やつらは死んでも五味久杜の下僕になっている…エルトン・仁は彼らの哀れを特撮に狂っている自分に投映して複雑な怒りが込み上げてきた。


「他にありませんか!」

「4000円!」

「10000万円!」

「他にありませんか! 他にありませんか! 他にありませんか!」


 エルトン・仁の足が止まっていた。声が近付いて来るような・・・


「他にありませんか !?」


 その声は、まるですぐ耳元で囁き、脅迫されているような感覚だった。同時に浴場からの見下したような強い視線が刺さって来る。


「どうしたの?」

「いや、何でもない。早く脱出しよう!」


 二人は正面玄関の戸に手を掛けた。やはり鍵が掛かっている。


「他にありませんよ、逃げ道なんてありませんよ」


 また五味久杜の優しい囁き声が勝ち誇ったようにエルトン・仁の心を抉った。エルトン・仁は必死に正面玄関の戸を開けようとするがビクともしなかった。手はかじかみ、二人は全身徐々に凍り始めて焦った。


「クソッ、全然空かない! 早く脱出しないと…」


 その時、浴場のガラス戸が大きく開く音がした。


「来るわ!」


 矢代蘭の様子がおかしい。彼女は足下から崩れ落ちそうになっていた。


「そうだ! 女湯だ!」


 エルトン・仁は急激な寒さに震える矢代蘭を抱えて女湯側に逃げ込んだ。


「あった! あったぞ!」


 女湯側にもボイラー室に抜けるドアがあった。裏から見た時には物の陰で気が付かなかったが、浴場に続くドアは対象的な造りになっていたようだ。尚も五味の声が追い駆けて来た。


「初代戦隊ヒーロー第一話の台本ですよ! 今手に入れなければ、もう二度と手に入りませんよ!」


 五味久杜の声が激情した時の高音になって飛んで来た。二人は執拗に追い駆けて来る五味久杜の声を振り切って須又温泉の裏手に飛び出し、商店街の灯りを探して全力で走った。やっと通りの中程に居酒屋“おこぜ”の赤提灯が見えて来た。


 恐怖の脱出劇を思い出しながら、二人は阿仁前田駅の待合室の片隅で脱力感に襲われていた。ちば藤としつ子の凍死の詳細を探ることは出来なかったが、とにかく五味久杜の怨霊による犠牲であろうことは確認できた。


「部屋に行って休んでください。私はもう大丈夫だから」

「見送るよ。もうすぐ電車が来る」


 エルトン・仁はふと待合室から見える宿のフロントに目をやった。


「まさか!」

「どうしたの?」


 エルトン・仁は無言で矢代蘭に宿のフロントを見るよう促した。矢代蘭もすぐに察知した。フロントに居るのは間違いなくべラ嬢だ。


「なんであの女が居るの?」

「ヤバいな…同じ宿か…」


 ホームに電車が入って来た。


「私、どうしたらいい?」

「とにかく今日はこの電車で帰るしかないよ。ただ、明日の集合場所は宿の食堂じゃだめだな。後でメールするから!」


 矢代蘭は心配そうに頷き、発車のベルに急かされて鷹巣行きの電車に乗った。矢代蘭を見送ったエルトン・仁は、宿のフロントからべラ嬢が去るまで待合室のベンチに座って待った。去るのを確認し、駅待合室のベンチを立ったが、その歩は進まなかった。もうひとり宿のフロントに立った女がいた。Vickyである。エルトン・仁は混乱した。二人は約束して来たのか、別行動なのか…しかし、いずれにしても二人に合わないように部屋に入らなければならない。エルトン・仁はVickyが去るのを待って、フロントで部屋の鍵を受け取り、何とか二人に会わずに部屋に辿り着くことができた。


 ちば藤の葬儀の足で秋田にやって来た小夜子は、チェックイン後、施設の温泉で烏の行水をして早々に布団にもぐり、深い眠りへの入口に差し掛かっていた。枕元には酒豪らしく地酒の二合瓶が二本空いて転がっていた、チェックイン時に目聡く売店で買った地域限定の地酒“マタギ”である。


 気配が、宿の廊下を徘徊し始めていた。


〈第21話「古老・万蔵」につづく〉

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