第21話 古老・万蔵
「返してください!」
小夜子の深い眠りへの入口に邪魔者が入った。
「返してください、ぼくの“青の剣”を返してください!」
部屋に誰か居る…小夜子の寝入り端が遮られた。警戒しながらそっと起き上がり、辺りを見回した。誰が居るわけもなく、夢でも見たのだろうと思い、再び横になると、長旅の疲れもあってか間もなく深い眠りが戻って来た。
部屋の隅に置いたバッグの中の “青の剣” が鈍く光り出した。小夜子の吐く息が白く霞み、線路沿いの窓には窓霜の華が咲き出した。
「返してください!」
小夜子の足下のほうから声がする。
「ぼくの “青の剣” を返してください」
小夜子はびっくりして目を開けた。見ると、ちば藤が足下に座ってこっちをじっと見ている。
「ぼくの “青の剣” を返してください」
起き上がろうとしても体の自由が利かない。疲れのせいで自分は悪夢を見ていて、これはきっと金縛りなんだと思った。
「べラ嬢さん、お久しぶり。ボクに会いに来たんだね」
そう囁きながら、ちば藤から五味久杜の姿に変わった。小夜子が条件反射で悪寒を催すようになった偽善の微笑みを湛えた顔が足下の布団に潜り込んだ。汚泥のような息を吐き、その触手がゆっくりと足首へ、膝、太腿へと上がって来た。小夜子は過呼吸になりながら満身の力で絶叫した。その声で悪夢から覚めた小夜子は、転げるように布団から飛び出した。
「ウソッ!」
自分の全身を霜のようなものが疎らに覆っていた。ふとバッグに目が行き、急いで中を確認した。“青の剣” はそのままだった。
「これ、絶対ヤバい…」
小夜子は “青の剣” を早く返さなければならないと思った。そのためには立ち入り禁止になっているらしい須又温泉に忍び込んで、誰にも気付かれないように返すのが一番いい…何れにしても、“青の剣” を今夜このまま部屋に置いておく気にはなれなかった。小夜子は一階のフロント脇にあるコインロッカーに “青の剣” を預けた。部屋に戻ってすぐに外出着に着替え、布団に包まって部屋の片隅の壁に凭れた。中々寝付けないまま、時が過ぎて行った。
コインロッカーの中の “青の剣” がまた鈍く光り出した。
「私に返してくれるの?」
コインロッカーの前にVickyが立っていた。その目はまるで彼岸を彷徨っていた。ふと、誰かに呼ばれた態のVickyが、人気のないフロントの前を通り過ぎ、裸足のまま深夜の暗闇に消えて行った。
翌早朝、須又温泉の裏に軽トラが停まった。温泉のボイラーマンだった古老の西根万蔵が数日前から後片付けに通っていた。大量に散乱した廃材を軽トラに積み込み、掃除を始めると、ボイラー室のほうから女の呻き声がした。
裏木戸を開けてボイラー室に入ったが、その呻き声は浴場の中からのようだった。凍死事件が度重なった後なので、万蔵は薄気味悪くなり、聞かなかったことにして去ろうとした。
「やめてッ! やめてーッ!!」
呻き声が悲鳴に変わった。これは尋常じゃないと思い、ボイラー室に駆け戻り、浴場に繋がる戸を開けようと思ったが…再び恐怖を覚えてその手が止まってしまった。万蔵は、そっと戸に耳を当て、中の様子を窺った。
暫く静かだったが、今度は喘ぎ声のようなものが聞こえて来た。その声は、遊び人で名を馳せた万蔵に、若かりし頃を思い出させた。間違いなく女の喜びのうねり声だ。どこかの好き者が興味本位で忍び込んで楽しんでいるのだろうと思い、野暮な関わりは持つまいと、万蔵はそそくさと裏に出た。
「待ってよーッ!」
中から引き止める叫び声がした。一瞬足が止まったが、自分を呼び止めているわけでもなかろうと、再び歩き出した。
「待って! お願い、帰らないで…こっちに来て」
万蔵が猟師の顔になった。今、間違いなく耳元で囁いた…どうも様子がおかしい。魔物が居る。万蔵は猟や野良仕事で出掛ける際に常に腰に携帯している四寸五分のナガサに手を掛けた。“獲物”に気付かれないようにボイラー室に戻り、浴場の戸をゆっくりと開けた。
裸の女が空の湯船に入って山盛りの特撮グッズに埋もれ、恍惚とした表情で眼が泳いでいる…Vickyである。万蔵がその女に覚えのあるわけもないが、地元で見掛ける顔でもないので、恐らく凍死したあのバカ息子の関係であろうと思った。
「おい、ここで何してる。おまえ、どこから来た!」
Vickyは万蔵に微笑みながら、やおら湯船から這い出し、裸体を晒した。
「こっちにおいでよ」
そう言って飽食で緩み切った体を蛞蝓のようにくねらせ、万蔵を誘うように脱衣室に這って行った。万蔵は女が既にこの世のものではないことを察知した。マタギ猟師が、山で捉えた獲物の葬儀とでもいうべき “ケボカイ” の呪文を唱えながら女の後に続いた。
「大物千匹 小物千匹 アト千匹 叩カセ給エヤ
Vickyは脱衣室に入ると、万蔵に尻を突き出し、俄かに聞こえ出した耳障りな古時計の音に合わせてエロ汚く尻を揺らし始めた。
“ケボカイの儀” は、剥いだ熊の毛皮を頭と尻を逆さにして、皮下剝き出しのクマの上に被せ、イタヤの小枝で尻から頭へとさすり、それから四肢を切り落とし、内臓を取り出して解体する。
万蔵は、尻をくねらせて誘い続けるVickyを哀れに思った。彼女をこの惨状に追い詰めた魔物がここに棲み付いて居る…この集落は飛んでもない厄介者を抱え込んでしまったと思った。万蔵はナガサを抜き、Vickyに翳して呪文を唱えた。
「南無サイホウ ジュガクブシ、コウメヨウ、シンジ、コレヨリ後ノ世ニ生レテ ヨイ音ヲ聞ケ」
万蔵の息が白くなり、呪文が終わると、Vickyは栗が弾けたように仰向けに引っ繰り返り、見る見る凍っていった。
「我が子がこのザマでは親御さんが気の毒過ぎる…そうは思わないか、五味久杜! 姿を現せ! ガキの頃から正義のヒーローが好きだったおまえが、なんでこんな悪さをする!」
脱衣室の隅に、泣いている幼い五味久杜が姿を現した。
「みんながボクをいじめる…ボクがお祖父ちゃんに買ってもらった“青の剣”をお父さんが折って捨てた」
「そりゃあ悔しかったろうな」
「悔しいよ、悔しいよ、悔しいよ!」
「だから悪さをするのか?」
「ボクは悪くない!」
「正義のヒーローが好きなんだろ?」
「うん!」
「この女の人を見ろ…正義のヒーローがこんな悪さをするのか?」
「・・・・・」
「おまえは正義のヒーローにはならんのか?」
「・・・・・」
「他人にヒーローを押し付けて、おまえは何もせんのか?」
「・・・・・」
「おまえはただの役立たずの妄想ヤロウか!」
「違う! ボクはお父さんに“青の剣”を折られたんだ! お祖父ちゃんに買ってもらった特撮グッズも全部捨てられた!」
「だから関係ない人にまで悪さをするのか?」
「関係無くない! ボクをバカにした!」
「誰もおまえをバカになんかしていない。ただ、おまえがバカになっただけだ」
「何だと!」
幼い五味久杜が消え、怒りが吹雪と化して万蔵を襲った。
「マタギのオレに吹雪か…だからおまえはバカなんだよ!」
そう言って万蔵は呪文を唱えた。
「南無サイホウ ジュガクブシ、コウメヨウ、シンジ、コレヨリ後ノ世ニ生レテ ヨイ音ヲ聞ケ」
脱衣室の吹雪は治まった。万蔵は番台に置かれた貸出用のバスタオルをVickyの凍死体に広げて掛けてやった。Vickyの硬直した哀れな体位がバスタオルの下でゆっくりと解かれていった。
〈第22話「睨む老婆」につづく〉
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