第16話 下僕の宿命

 人気のないはずの須又温泉の建物内からの物音に二人は焦った。


「…誰か居る」


 そう言ってブルったのはHN・しつ子こと氷室豊子だった。この特撮ファンはかつての女部田の時代も、そしてその後継でサイト管理人に治まった五味久杜にも、イベントの度に体よく扱使われ、2ちゃんねるでの龍三攻撃続投のレス要員としても、その正体がバレるまで叩きまくっていた“献身的”な女だ。


 遡ること女部田の全盛期、龍三の弁護士の被害届で、ついには彼女の勤務する燃料会社にまで捜査が至っていた。上司に事の次第を問われた氷室豊子は勤務先を退職し、遁走した。数年前から、かつてのHN・朧月子をしつ子に変えてネット復帰していた。

 2ちゃんねるで龍三叩きに加担するまでの彼女は、龍三の計らいで自由に劇団の稽古見学を許可されていた。さらに女部田の指示に従って劇団の情報を逐一報告していたが、女部田の指示がエスカレートし、劇団の運営にまで口を出すようになった。その結果彼女は、稽古見学を拒否された経緯がある。


 この日ゴミクズオッタ―通りに一緒に来ていた相棒は、彼女のブログ仲間のちば藤こと千葉藤雄だ。ちば藤は五味久杜のグッズプレセント攻勢で完全なる五味久杜の下僕となっていた男だが、五味久杜の評判が地に堕ちた途端に、その要求をのらりくらりとかわし続けて来た男だ。五味久杜からのプレゼントが貰えなくなったのは残念だが、しつ子同様、自分の周囲から特撮ファンの間で毛嫌いされ始めた面倒臭いやつが一人居なくなってホッとしていた。


「音がしたよね」

「…した」


 二人は須又温泉の入口の磨りガラス戸越しに聞き耳を立てて見た。


「気のせいかな…」

「野良猫とか?」


 ちば藤が恐る恐る玄関の戸を開けようと手を掛けた。


「鍵が掛かってる」

「やっぱり、まずいんじゃない?」

「まずいかな…」

「 “立ち入り禁止” って張り紙あるし…」

「…だよね」


 二人は仕方なく中に入るのは止めにした。


「これからどうしようか」

「取り敢えず…メシにしない?」

「…だね」


 須又温泉を背にして歩き出したちば藤の足が止まった。


「どうしたの?」


 ちば藤はゆっくりと須又温泉の玄関に振り返った。


「…なに?」

「・・・・・」

「なに、なに?」


 ちば藤は、しつ子の顔をまじまじと見た。


「聞こえなかった?」

「何が?」

「…オレの名前を呼んだ」

「誰が?」


 ちば藤の顔が、また玄関に向いた。しつ子も釣られて振り向いたが、須又温泉には特に変わった様子もなかった。


「五味さんが…」

「え !?」

「五味さん、中に居るんじゃないかな?」

「だって、亡くなったのよ」

「そうだよね…なんかヤバいな、オレ」


 ちば藤はそう言って力なく笑ったので、しつ子も愛想笑いを浮かべたが、顔は若干引き攣っていた。二人は背筋に弱い悪寒を走らせながら須又温泉に背を向けたが、歩は止まったままだった。そして同時に顔を見合せ、しつ子が凍り付いた表情で呻いた。


「今、聞こえた!」

「オレも…やっぱり呼んでるよ!」


 二人は須又温泉に向き直り、凝視した。


「でも、亡くなってるのよ」

「それって噂かも知れない」

「情報元は2ちゃんねるだしね…どうする?」

「呼んでるからね」

「でも…どうして出て来て呼び止めないのかしら」

「手が離せないとか…」


 二人は改めて玄関の前に立った。


「私、やっぱり…会いたくない。ここで会ってしまって交流が再開するのは御免だわ」

「分かった。じゃ、君はここに居て待ってて。大丈夫なようだったら中から呼ぶから」

「でも、鍵が掛かってるでしょ?」


 そう言われてちば藤は試しに玄関の戸に手を掛けてみた。


「…開いてる」

「うそ!? さっきまで掛かってたんでしょ?」

「オレの勘違いだったかもしれない」

「そうなの?」

「じゃ、取り敢えず待ってて」


 ちば藤は暗い須又温泉に入って行った。そうした二人の様子を、オッタ―通り商店街の案内立て看板の陰から窺っていたのは、再びやって来たエルトン・仁こと後藤田将太と、矢代蘭こと浜辺野詩子だった。


「あの二人は何をしてるんだ、ウロウロと?」

「立ち入り禁止のはずなのに…」

「ちば藤のクソオタ野郎と、現実逃避オバハンのしつ子さん…」

「彼らも2ちゃんねるの情報が確かか確認に来たのね」

「多分…ここで彼らと搗ち合うのはマズいな」

「こっちの動きは知られたくないわ」

「向こうも会いたかないだろ、はは…仕方がない、日を改めるか…」


 エルトン・仁と矢代蘭は急いでその場を後にした。


「しつ子さん!」


 玄関の前で人目を気にしながら手持無沙汰に待っていたしつ子が、突然のちば藤の声に驚いた。


「誰も居ない…大丈夫みたい」

「帰りましょうよ、立ち入り禁止だし…やはり五味さんが亡くなったっていう情報は確かなのよ」

「帰るけど、中にレアグッズが沢山あるんだよ。それをひと通り見てからでもいいんじゃない?」

「レアグッズ!?」

「どれもこれも結構凄いんだよ!」


 しつ子は特撮グッズに興奮したちば藤に誘われるままに中に入って行った。中は五味久杜が凍死した時のまま、何一つ動かされていなかった。一面レトロな豆タイルの中央の岩風呂風の浴槽には、ちば藤の言ったとおり、かなりのレアな特撮グッズが陳列されたままになっていた。しつ子の特撮熱の血が騒ぎ出し、心はグッズの魅力に引き摺り込まれていった。


「沙月さん!」


 グッズに心奪われて忙しいしつ子に、ちば藤がいきなり抱き付いた。


「何するの!」


 そう叫んだしつ子は、ちば藤に顔を振り向けるなり、見る見る恐怖に凍り付いた。ちば藤が訳の分からない言葉を畳掛けて来た。


 混乱したしつ子は無表情になり、ちば藤にやっと一言呟いた。


「五味さん…」


 五味の顔が、更に女部田に変わった。


「ああ…女部田さん…なのね」


 金縛りのように動けなくなったしつ子は微笑んでいた。


「私…沙月…」


 しつ子は無抵抗のまま浴場から脱衣室に引き摺られて行った。脱衣室の柱時計がカチッ、カチッと耳障りな音を再開した。ちば藤は乱暴にしつ子の衣類を剥いだ。


 しつ子の体から汗だくで起き上がった女部田が五味久杜に変わり、ちば藤の姿に戻り、その汗が凍り付いて再びしつ子の弛み切った体の上に、崩れるように覆い被さって行った。


 翌朝、エルトン・仁は宿泊先のロビーでコーヒーを啜りながら地方新聞を捲っていた。そして三面記事の見出しに目が留まった。


『立ち入り禁止の須又温泉でまた凍死!』


〈第17話「“封じの壺”」につづく〉

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