66話 悪魔と勇者

「ふふふ……あはは……」


 心の底から楽しそうに笑うアスタロトの口からは黒い靄があふれ出す。

 黒い靄はオリヴィスの体に纏わり付いていき、血と混ざり合って赤黒い肉のようなものに変化していく。


「古の優れた血を持つものよ、浅ましい欲に溺れた矮小なものよ、今我らが闇と欲望の眷属として生まれ変わりたまえ」


「我こそは隷属と失望の悪魔セパル」


「我こそは怠惰と毒の悪魔アスタロト」


「我ら大いなる王の指輪に宿るソロモン七十二柱、偉大なる二柱の加護を得た旧き血よ」


 二人の悪魔は、両手を高く掲げて交互に歌のような抑揚をつけて言葉を紡いでいく。

 うめき声をあげるオリヴィスの肩甲骨あたりがミシミシと音を立て、皮を突き破るようにして蝙蝠に似た羽根が一対生え始める。


「欲を解き放て、力を解き放て、我にれいぞ……きゃ」


 セパルが詠唱を止めて頬を押さえた。


愛しい夫バエル! あなたはなんでそう詰めが甘いのです」


 投げられた半分に折れた槍が地面に突き刺さっている。彼女の紫がかった白い肌に一筋の赤い血が流れて、胸元に落ちた。

 アスタロトが、怒って頬を膨らませながら、戦っているバエルとアグレアスの方を睨み付けた。


「すまん……殺さぬよう加減をするのが難航してな……」


 肉の鎖で繋がれていたオリヴィスが咆哮をあげながら背中の羽根を大きく広げた。

 謝ったバエル将軍の横を疾風の様に駆け抜けて、アスタロトがアグレアスの腹を手刀で貫く。

 血を吐いて倒れたアグレアスの下から、黒い触手がが出てきて彼女を地面に縫い付ける。


「貴方が全力を出したら、確かにこの悪魔は挽肉ミンチになっているでしょうけど……折角の楽しみを邪魔されて不愉快です」


 顔半分を再び覆布ヴェールで隠したアスタロトは、肩を落としながら振り返った。

 赤黒い羽根を力強く羽ばたかせたオリヴィスだったものが、肉の鎖を断ち切って空へ飛び上がった。


「血筋の良い素材でしたから、元気な子に育ちましたね。折角ですし、これも食わせておきましょう」


 空で獣のように咆哮しているオリヴィスを、目を細めて見たアスタロトは地面に縫い付けられているアグレアスの翼に手をかけた。


「……っぐぅ。貴様……」


「ふふ……、同族の悲鳴もたまには良いものですね」


 彼女は力任せに、アグレアスの背中に生えていた一対の黒い翼をもぎ取った。

 そして、まるで獣に餌付けでもするかのように、アスタロトは空中にいるオリヴィスに向かってそれを放り投げる。


「うおおぉぉぉ……みなぎる……オレ様の……力」


 空中で体を反らせながら、アグレアスの翼を喰らったオリヴィスの背中には、新たに黒い翼が二対生えてきていた。

 眉の上に赤く細い角を生やした悪魔オリヴィスの白目部分は漆黒に染まっていく。

 

「ななな……なにをしているのだぁ?」「アスタロト……あなた……妾たちを裏切って……?」


 漆黒の眼球に浮かぶ紅い瞳で睨まれたセパルとタンペットが、お互いに抱き合うようにしながらアスタロトを見た。

 しかし、彼女は愉快そうに目を細めてから、ゆっくりと首を横に振る。


わたくしたちが御せる程度の悪魔にしようとしていたけれど、隷属化に失敗してしまったのなら、強い方が結界の材料としては便利でしょう?」


 アスタロトがそう言い終わるが早いか、唸り声を上げたオリヴィスがタンペットとセパルに向かって急降下していく。

 鋭い牙を剥きながら勢いよく突進してくるオリヴィスの目の前に、タンペットは即座に障壁を張った。

 薄ガラスの割れるような音がして、障壁は軽々と破られる。

 もうだめだと二人が目を閉じた時、犬が殴られたような悲鳴が聞こえて目を開く。

 そこには、空色のマントがあった。

 二人の前に割り込んだルリジオが、オリヴィスを殴りつけて地面に墜としたのだ。


「大丈夫だったかい?」


 セパルとタンペットの方を振り向いたルリジオの、短く整えられている金色の髪がサラサラと揺れる。

 頷いた二人を見て、ルリジオは薄く整った唇の両端を持ち上げて美しく笑った。


「流石、義母おかあ様ですね。とても良い案だ。漆黒の谷間が美しい悪魔も無事に生け捕りにしてくれたことですし、後は僕たちが頑張ります。夫婦水入らずで悪魔に堕ちた勇者の末裔がどうなるのかを楽しんでいただきたいと思います」


 すぐに体勢を立て直し、空へ逃げたオリヴィスを無視して、ルリジオはアスタロトの方を見てそう言った。


「では、お言葉に甘えましょう。後は夫の上司アビスモ様義理の息子ルリジオにお任せします。それでいいわね、あ・な・た」


 愛する夫の胸元に頭をそっと預けたアスタロトは、潤んだ瞳で夫の真ん中の顔を見つめながら囁く。

 バエル将軍は、太く節くれ立った人差し指で鼻の横をかくと、気まずそうにアビスモへ視線を送る。黙ったまま首を縦に振る自らの上司を見て、ホッとしたように胸をなで下ろしたバエル将軍は、妻の横に腰を下ろすとあぐらをかいて大剣を大地に突き刺した。


「さあて、勇者の末裔の在り方が変わっちまったな……どうする?」


「クソ……ヒトがヒトを悪魔に堕とすなんて……外道が」


 ルリジオが輝く剣を鞘から抜きながら、オリヴィスと向かい合うのを横目で見ながら、アビスモは地面に縫い付けられているアグレアスの方へ歩み寄る。

 自分を睨み付けてくる女悪魔の頭に手を翳しながら、アビスモは彼女の言葉を鼻で笑う。


「俺は元々数百年、悪魔を率いてこの世界に居座っていた外道なんだよ。残念だったな」


「そんな気配はなかったのに……クソ」


「侵入者には、この世界を舐め腐って好き放題された方が都合がいいからな。身内の悪魔共には気配を消せと伝えてたんだよ」


 ワンドの先端についた宝石から、黒い靄がじわじわと染み出てくるのを見て、アグレアスは表情を引きつらせた。

 赤黒い火花が目の前で散ったかと思うと、彼女の額に生えている角から光が失われはじめる。


「さて、契約を上書きする時間だ」


 唇の片側をつり上げて、邪悪に笑うアビスモはアグレアスの両角を短刀で切り落として高笑いをする。

 紫水晶アメシスト色をした彼女の瞳から光が消え失せたかと思うと、アグレアスは力なくその場に倒れて、動かなくなった。

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