26話 魔を導くもの
「さて……始めるか」
大きく開かれた窓からは月の光が差し込んでいる。
ちょうど差し込んできた光の真ん中に立っているお陰か、アビスモも青白いくらいの真っ白な肌は一層美しく見える。
その横には、深緑の衣に身を包んだ月色の髪の女性が佇んでいる。
「何をするんだ?」
「ちょっとな」
城の自室にタンペットを呼び寄せたアビスモは、タンペットの質問に答えずに徐ろに自分の体から黒い靄のようなものを出し始めた。それはアビスモの足元からじわじわと広がっていき部屋中の床を覆っていく。
いくらエルフと言えども魔王の使う魔法にはわからないことがかなり多いらしい。タンペットは、アビスモの所作の一つ一つを見るために注意深くその切れ長の目を凝らして観察をしていた。
アビスモは、紫色の宝玉の付いた黒い杖ワンドを取り出すと、それを目の前で左右にゆっくり振ってみせる。
真っ黒なオーラは、杖ワンドに反応するかのように動き出すと部屋に備え付けてあった暖炉へと勢いよく飛び込んでいった。
暖炉から空気中に出たそれらは空へ散って目に見えなくなっていく。
「これで下準備はおしまいだ。あとは……そうだな。強敵と戦う可能性があるのなら俺も備えが欲しい」
ストレッチをするかのように肩を回したあと、アビスモはマントを靡かせながら振り向いて、タンペットのことを見つめた。
「なぁタンペット。お前が女にしか興味が無いことは十分承知だ。でも聞いてくれ。俺はお前のことを友人以上に好いている」
「な……」
唐突の告白に目を白黒させているタンペットの目の前に近付いたアビスモは、そのまま彼女目の前に片膝立ちで跪く。そして、彼女の右手を取って自分の額にあてる。
「……どうということはない。俺が世界に存在する理由を上書きしてくれ。俺がこの世界に居続けるために、俺を破壊者の役割から解き放って欲しい。俺は世界の異物……異世界よりの転生者アビスモ。役割を与えられねばこの世にいることは赦されない世界のシステム。お前が望み、俺に新たな役割をくれるのなら、俺はお前の剣となり、盾となり、杖になろう」
アビスモはそう言いながらタンペットの顔を見上げた。
あまりにも真剣な眼差しに、タンペットもどうやらアビスモが言っていることは冗談ではないらしいと気が付き、真面目な顔になって彼のことを見つめ返す。
「契約と言っても妾は貴方に純血も人生も魂も捧げることは出来ないが」
魔道士にとって契約とは自分の魔力や体・魂と引き換えに相手からなんらかの利益を得ることだ。
それは、悪魔とアビスモの間に成り立っている契約と同じようなものだった。
アビスモは微笑みながら立ち上がると、タンペットの月の光を集めて紡いだような美しい髪の毛に手を通しながら彼女の瞳を見つめる。
「お前の幸せな人生が俺を使役する対価だ」
「……まさか少年の姿をした魔王にそんな告白をされるとはな。いいのか?妾は貴方を友人以上に思うことはないというのに」
タンペットは、自分に破格の契約を持ちかけてきたアビスモに眉尻を下げながら笑った。
それは、困ったようにも見えるし、喜んでいるようにも見える。
薄々気がついていた好意を、まさかこんな形で伝えられるとは思っていなかったタンペットは、アビスモの翡翠のように美しい緑の瞳を見つめた。
「それでも構わん。一目惚れだ。お前の力になれる上に、お前の幸せが守れるのならそれでいい」
「そんなに想ってもらえるなんて妾は幸せだな。では……契約を執り行おう」
タンペットはそういうと、腰から下げていた長い杖をとりだした。
その杖は銀色の光を静かに放ち、柄頭には薄い刃のようなものが放射線状に接合した球状の部分の頂上に緑色に輝く小さな魔石が埋め込まれている。
タンペットは、その杖を両手で持ち胸の前に抱えるように持つと目を閉じて精神を集中する。
「凶風の魔導士の黒き騎士として、世界を守る者として……転生者アビスモの現界を妾はここに望む……」
そうタンペットが囁くように呟くと、どこからともなく現れた深緑の光の輪がアビスモのことを頭の先から足先までゆっくりと通過していく。
アビスモの足元にまで到達した光がじんわりと床に広がり、波紋のような模様を浮かべながら消えると、アビスモはほっとしたようにため息を付いた。
「これで俺は魔王廃業だ」
「こんなことで本当に大丈夫なのか?なにも変わってないように思えるが」
一連の出来事を眺めていたタンペットは首を傾げながらそう尋ねる。
契約は何度か行ったことがあるのでそれらしい言葉を唱えることは出来たとは言え、はじめての形態の契約で、しかも交渉相手は世界のシステムとやらだ。
自分が触れたことのない概念との契約に関しては、流石のエルフと言えど無知だった。
「あの光の輪が俺の体を切り裂かなかったってことは、世界のシステム的には大丈夫ってことっぽい。流石にダメだったらカッコ悪すぎるからドキドキした」
「その転生の仕組み……興味深いな。今度教えてくれないか?」
「落ち着いたらな。さて、あとは……もう一仕事こなさないと」
胸をなでおろしているアビスモの顔を覗き込むような形で話しかけてくるタンペットに対して、アビスモは少し頬を赤らめる。
それを誤魔化すように、わざとらしく目をそらして少し大げさに体を動した彼は、胸元から橙色の魔石を取り出す。
この魔石は魔力を込めれば自分の声を遠くまで聞こえるようにする効果があるらしく、一般人は見ることも叶わないものだ。
タンペットやルリジオなど、武勲を称えられた物には王が下賜している場合も多い。
魔力が込められた証に、橙色の光を内側から発し始めたその魔石に対してアビスモは話しかける。
「現世から去りたいやつは今すぐに来い。今ならなんのペナルティも無く俺の支配下から解き放ってやる」
そう言い終わるが早いか、おびただしい数の悪魔たちがあっという間に部屋を満たす。
部屋に入り切らない悪魔たちは部屋の外の壁やバルコニーに張り付いている。
「いいのか?」
「悪魔はヒトの恐怖と憎しみを食べて現界しているってのは言ったよな?現界するのに必要なだけで、やつらが動いて戦うためには魔力が必要だ。俺が数多の悪魔たちと契約をしていたのは、俺の魔力を分散させていざというときアイツラを犠牲にして俺の魔力を回復するためだ」
ふうと一息吐いて、アビスモは言葉を続けた。
「あと単純に俺が膨大な魔力を操っていても軍勢で来られたら対処しきれない場合があるから軍があったほうが便利だったってのもある。けどもう必要がないからな」
そういうと、アビスモは次々と部屋にいる悪魔たちの額に触れていった。
アビスモに額を触れられた悪魔は、恍惚の表情を浮かべながら赤紫の靄のようなものを放ち、空間に溶けていくように消えていく。
放たれた赤紫の靄は小さな球状になってアビスモの足元へと転がった。
最初は小型の悪魔、次はヒト型の悪魔、そして将軍クラスの巨大な悪魔たちまでもがかつての魔王アビスモに額を触られて溶けていく。
悪魔たちが赤紫の靄を放つと、その靄はアビスモの足元に転がる同色の珠へ吸い込まれていき、靄の大きさと同じ分、珠は大きくなっていった。
部屋中の悪魔たちがいなり、赤紫の毒々しい珠はアビスモの背丈を遥かに超える大きさになっている。
一息つこうとアビスモが椅子に手をかけたちょうどその時、やけに重い足音が聞こえた。
ゆっくりと扉を開いて現れたのは3つ頭の巨大な大男……バエル将軍だった。
バエル将軍は部屋に入ってくるとズシズシと真っ直ぐにアビスモの前向かい、彼の目前で片膝立ちで跪いて頭を下げる。
「アビスモ様……魔王としてのお役目、ご立派でした。吾輩も、アビスモ様の配下としての役目を終わろうと思います」
微笑んで頷いたアビスモが、跪くバエルの額に手を当てようとすると、バエルは徐ろに立ち上がった。
ヒトの成人よりはるかに大きな彼が立ち上がると額に手が届かなくなり、彼を現世から解き放とうとしたアビスモと、それを見ていたタンペットは驚いた顔でバエルを見上げる。
「今後は、良き友人、良き同胞として共にルリジオ殿・タンペット殿と戦場を駆けようではありませんか」
ニヤリと笑うと、バエルはそういった。
カエルの頭も猫の頭も珍しく機嫌がいいようで3つの頭は揃ってガハハと笑い声を上げた。
アビスモがバエルに拳を突き出すと、バエルもそっとアビスモに拳を突き出し返した。二人は拳同士を突き合わせる。
「下級悪魔たち以外はほとんど帰したことだし、浮いた魔力を戻すか」
「やはり、この珠は魔力の塊だったか……。こうして外部に魔力を貯めておけるのは便利だな」
アビスモが徐ろに触れた毒々しい赤紫色の巨大な球体の周りをタンペットは興味深そうに見ている。
魔力を不意に触ると魔法を使うことに長けたヒトやエルフは魔法を放ったり魔素を吸収する機関にダメージを受けやすいということは本能的に備わっているものらしく、タンペットはその球体に直接触れようとはしない。
「
その言葉を聞いて目を輝かせるタンペットに「本当に魔法のことと小さな胸の少女のことになるとお前は元気になるな」とアビスモは苦笑いをしながら、球体に触れている手に少し力を込めた。
球体は、アビスモの手の辺りから徐々にひび割れると、水の漏れている革の水筒のようにゆっくりと萎んでいく。
球体のヒビから僅かに染み出していた赤紫の靄は、元々の持ち主であるアビスモの体に纏わりつくように漂い、アビスモの体は靄に包まれて見えなくなる。
球体が最初のように小さな小さな小石程度の大きさになると、靄の中からスラリとした青白い手が伸びてきて、それを拾った。
「っと……本当に数百年ぶりだなこの姿は」
靄が靄の中から出てきた人影に靄が徐々に吸われていく最中、すっかり薄くなった靄の中から小石のようになった赤紫の珠を口に放り入れながら姿を現したのは少年ではなく、スラリと背の高い青年の姿だった。
声と外見からそれはアビスモだとわかるものの、タンペットは自分よりも背の高く、いくばくかたくましくなってしまったその姿を見て目を丸くしている。
「どうした?惚れてくれたか?」
「……女装をさせる前に……美少年が消えてしまった」
心の底から残念そうな声を出してうなだれるタンペットに、すっかり背の高くなったアビスモは申し訳なさそうに頭をかいて俯いた。
「……わかった。一区切り着いたらまた元の姿に戻るから」
「……本当か?わかった。アビスモを信じて妾はとっておきの衣装を用意しておこう」
笑顔を取り戻したタンペットをほっとしたように見たアビスモは伸びをしながら窓の外に視線を向ける。
「さて……残るはルリジオの説得か」
「そんな顔をするのもわかるが……まぁあいつはあいつで悪いやつでもない。
話も聞いてくれるだろうさ。……たぶん。モハーナとの話を聞いた感じ、割とおっぱいだけじゃなくて妻たちのことは考えてるみたいだし」
アビスモは遠い目をしているタンペットとバエルを引き連れてバルコニーへと出ると、いつものように六本足の黒馬に引かれる馬車を呼び出した。
バエル将軍は黒馬の一匹にまたがり、タンペットとアビスモが馬車の中へと乗り込むとバエル将軍の掛け声と共に黒馬は星のきらめく夜空へと駆け出していく。
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