17話 胸の傷跡

 リャピは、体を乾燥から守るために細かい泡で包みながら館の薄暗い廊下を必死に下半身を引きずりながら進む。

 まだベリトの足止めは機能しているのか、それとも侵入がバレたと退却してしまったのかはわからないが、館の中は静まり返っている。


 必死の思いで地下から地上へ向かう階段へと辿り着いたリャピは、思い切り息を吸い込むと、上の階へ向かって大きな声で叫び声を上げた。

 その声は壁を揺らし、広間に飾ってある花瓶が割れてしまうほどの大きな声だった。

 何事かと思った妻たちが扉を開いた音が幾つも開く。更に、音に釣られてきたのか普段は姿を見せない妖精が集まってきた。

 妖精達がまき散らす光る鱗粉、そして、集まってきた妻たちの目に自分の醜い姿が晒されている……そう自覚したリャピは緊張で体を石のように固くした。しかし、彼女は自分を守るために身を盾にしたアソオスのことを思い出して心を奮い立たせた。

 妖精に向かって「アソオスが大変なの……助けて……」とだけ伝えたリャピは、下半身を引きずって水中から身体を出した。


「どうしたんだい?」


 地下から出るための小さな扉まで這い上がったリャピに声をかけたのは、紛れもなくルリジオだった。彼は、目を皿のように丸くして決して部屋から出ないはずのリャピを見つめている。


 彼が差し出した手を掴んだリャピは、中庭へ続く通路を指して口をパクパクと開閉させた。

 乾燥のため声が出ないことに焦るリャピだったが、意図を汲んだのかルリジオは泡で少しヌメリ気を帯びている彼女を抱き上げると走り出す。

 中庭に二人が辿り着いたときには、そこには誰の姿もなかった。


 ほっとしたような、残念なような気持ちのリャピは、ルリジオによって池の中に下ろされると、喉を潤すために水をガブガブと口にした。


 少しだけ落ち着いたリャピは、まず自分の部屋にアソオスが倒れていることを思い出し、「息を止めてください」というなりルリジオの腕を掴んで水に引き摺り込んだ。そして、そのまま短い水路の中を通って彼を自室まで連れて行く。


 リャピの部屋まで辿り着いたルリジオは、妖精が群がっているアソオスを目にして僅かに眉を顰めた。

 水に足を取られながらも、倒れているアソオスへ駆け寄っていく。


 アソオスは動かない。いつもなら、ルリジオがいればすぐに笑顔を浮かべるはずだが、それすら出来ないほどに彼女は衰弱していた。

 そして、ルリジオはアソオスの胸の傷を確認した。それから、慌てて自分の後を追って泳いできたリャピの肩を少し強めに掴む。


「リャピ……アソオスをこんな風にした犯人を……見たんだよね」


 口調こそ優しいものの、ルリジオの表情も口調も今まで見たこともないくらい恐ろしい。リャピは思わず小さな悲鳴を上げて後退りし、小さく頷いた。


「アソオスさんは……その人のことを……ベリトと呼んでいました」


 リャピは、怯えながらもルリジオに自分が見たことをすべて伝える。それを聞くなりルリジオは、数秒目を閉じた後、自分の顔を平手で軽くパシパシと叩いた。


「怖がらせてすまなかったね。僕もあまりのことに動揺してしまったんだ。リャピ……改めてアソオスの危機を救ってくれてありがとう。本当に君のおかげで僕は大切な人を失わずに済んだ……」


 リャピはいつもどおりの笑顔に戻ったルリジオに安心すると、彼が差し出した手に頭を擦り付ける。そして、彼の胸に顔を埋めて頷いた。

 ルリジオは絹の君シルキーにアソオスを自室へ運ばせて、リャピの部屋から人払いをした。

 まだベリトに立ち向かった時の恐怖に震えるリャピを抱きしめたまま湿った石畳の部屋で、彼女の鱗に覆われた肌を撫でる。そして、しっとりとした水気を保つ豊満な胸に顔を埋めて眠りについた。


 翌朝、リャピが目を覚ますとルリジオはいつも通りの柔らかな笑顔を向けてくれた。彼女の頭を撫でて「心配はいらないから」とだけ言い残して、部屋を出ていく彼の姿をリャピは見送った。


※※※


「ルリジオ様……さすがに単身で魔王アビスモの元へ乗り込むのは無茶です……」


「いいから今用意できる最も強い防具と武器を僕に渡せ」


 玄関の前でブラウニーとルリジオが言い争いをしている。その大きな声と物騒な会話に引き寄せられて、好奇心の強い妻たちの何人かが物陰からその様子を見物していた。

 アソオスの怪我や、館への侵入者の話はあっという間に広まり、スクォンクはしばらく液体になったまま戻ろうとしない上に、臆病な妖精の妻やヒトの妻は安全のために自室へと引きこもっていた。


「ルリジオ様?武器よりも私達を連れて行くのが良いのではなくて?地に住まう下位神とはいえわたくし達は一応神の名を冠しているんですのよ」


「下手なヒトの子の作る武器よりも、妾たちのほうがよっぽど役に立ちますよぉ?」


「ダメだ。君たちにまでなにかあったら僕はなにをするかわからない」


 ピロポスとガウリ、そしてモハーナはルリジオの怒りを孕んだ言葉にしょんぼりとすると、渋々といった様子で引き下がった。

 そのままの勢いでブラウニーとルリジオが言い争いを再開させると、その裏で三人は更になにか話し合ったのか、次こそはと言いたげな様子でルリジオの外套の裾をチョンチョンと引っ張った。


「だから……連れて行く気は……」


「ルリジオ様が私達を傷つけたくないのなら……妾達の眷属の軍をお貸ししますわ」


「眷属ではなくて部下でも配下でもいいのならオークや巨人族の妻たちも協力できると思うんだ」


「わたくしたち、家族ですもの……家族を傷つけられて黙っているとか……夫をむざむざ危険な目に合わせたくないという気持ちは……わかってほしいのです」

 

 じっと自分を見つめる三人の妻に根負けしたのか、ルリジオが溜息を吐きながら少し表情を和らげる。

 すると、隠れて様子を伺っていたヘンティルも嬉しそうに飛び出してきた。


銀狼キュノケファロスたちも数は少ないが力を貸そう!北の森以外の生き残りの一族もきっと協力してくれる」


 そう言われて、ルリジオは呆れたように笑う。その表情に怒りはないようだった。


「……。そうだね。この前も相談もせずに僕一人犠牲になればいいと勝手なことをして君たちには心配も苦労もかけた。君たちを護るためにも、僕たちの家を護るためにも力を貸しておくれ」


 ルリジオが、頭を左右に振って額に手を当てる。

 力を貸す許可の出た妻たちは黄色い声を上げながら喜んだ。そして各々、自分の羽を数本抜いて炎を纏う小鳥にしたり、鱗を剥がして金色の光の矢にしたり、懐に隠していた木の葉を息で吹き飛ばして白い小鳥にするなど得意な方法で使者を故郷に送り出すのだった。


「毛むくじゃらくんも、主人の蛮勇を引き止める素晴らしい働きだった。ありがとう」


 ルリジオのその言葉に、ブラウニーは嬉しそうに体を揺すると、何も言わずに家の仕事へと戻っていく。

 それを見て安心したのか、遠くの方で手を止めて行く末を見守っていた絹の君シルキーも仕事の手を動かし始めた。


 ルリジオは、その場にいる妻たち一人ひとりにお礼を言い終わると、アソオスの部屋へと向かう。

 漆黒に塗られた扉に金の彫刻がしてある荘厳な雰囲気のする重々しい扉を開くと、薔薇の花びらを撒き散らせた寝具の上にアソオスが横たわっている。

 ルリジオは、ベッドの横に腰を下ろすと、おもむろに腰に携えている剣を取り出した。

 そして、剣を持っていない方の腕をアソオスの胸の上に翳す。腕に剣を滑らせると、切り口からは鮮血がしたたり落ちていく。

 血は、アソオスの胸元にボタボタと落ち、服や肌にシミを作る前に彼女の体内に吸収されていく。


 無意識に手を伸ばしたアソオスに傷のある腕を任せると、彼女は傷口を自分の胸に押し当てた。

 アソオスの傷口には、まるで怪物の口のようにびっしりと鋭い牙がならび、艶かしく蠢いている。

 その牙たちがルリジオの腕に次々と食い込むと、さすがのルリジオも顔をしかめて小さなうめき声を上げた。しかし、決して腕を引き剥がすことはせず、されるがまま腕を牙の並ぶ胸元の好きなようにさせているようだ。


 しばらくして、引っ張られる感覚が消えるとルリジオはやっとのことでアソオスの胸元から腕を引き抜いた。

 ズタズタになっているはずの腕は、温かな橙色の光りに包まれるとまるでもともと傷なんてなかったかのようにキレイに元に戻る。


「ルリジオ……」


「暁の悪魔……美しい僕の妻……目覚めてくれてよかった」


 目を開いたアソオスを抱き起こしながらルリジオは彼女の暁色の髪の毛に顔を埋める。

 アソオスは、そんなルリジオを抱きしめ返しながら小さな声で謝罪をした。


「謝る必要なんてない。君は僕を……僕たちを助けるためにかつての同胞を見逃さなかった。だから僕も契約の通り、命ある限り君の命と尊厳を護る……それだけのことさ」


「ルリジオ……そんなにわたしのことを……」


「それに……よりにもよって僕の大切な妻の胸を切りつけたってことが僕は何よりも許せないんだ。アソオスのこの麗しいはちきれんばかりのこの胸がもう二度と拝めなくなりかねなかったと思うと怒りを抑えられない……そりゃ、確かに傷口から牙が生えて僕の腕を貪るように噛みまくって血を思い切り吸い出すなんて魅力的な姿も見ることができたんだけど、それと僕の大切な妻の胸を傷つけたことは別だ。あの柔らかい感触を味わいながら腕を穴だらけにされるのは体験したくないわけではないけど……生きていてこその妻なんだそれにスクォンクも液体から戻らないおかげであの素敵なしっとりとした胸もしばらくお預けなんだぞ……なんてことをしてくれたんだベリト……。本当に君が教えてくれたときになんとかしておけばよかった。謝るのは僕の方だよ……」


 アソオスは、自分の醜い一面を見られていたことを一瞬だけ後悔しそうになった。しかし、ルリジオがそんなことは微塵も気に留めていないことに気が付いて、呆れたようなほっとしたような顔で笑う。

 彼女は、更に言葉を続けようとしたルリジオを強引に引き寄せて、その豊満な胸に顔をうずめるように抱きしめた。


「とにかく……わたしからもお父様に知らせておくから……無茶はしないでね」


 アソオスの言葉にルリジオは頷くと、まだ薄っすらと残るアソオスの胸の傷跡を指で撫でて目を閉じた。

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