16話 欠けた鰭を持つ者

 天井からわずかに差し込んだ月明かりが水面に反射してキラキラと光る。

 ズズズ……と重い音を立てて石で作られた扉の音を聞きつけたのか、部屋の主は水中から水面にあがってくると、上半身を水面から出して暗い部屋の中を見回した。


「リャピ、調子はどうだい?」


 そう言って水面に語りかけるルリジオの片手には、銀色の鱗を輝かせたまるで刃物のようにも見える魚が数匹、葉に包まれて持たれている。

 ゆっくりと水面がゆらめき、ルリジオの足元までやってきた人影は、浅くなっているところへ手を付くと、そのまま上半身を水面の上に再び露出させる。

 月明かりだけが差し込む部屋で、ルリジオの前に現れたリャピと呼ばれた女性は、鰭を持つ者ペグ・パウラーと呼ばれている妖精の一種だった。

 藻のような暗い緑の髪の毛から雫を滴り落とす彼女は、緑がかった銀色の鱗に覆われた手を伸ばし、水かきのついた指をルリジオの持つ魚へ絡みつかせる。

 ルリジオは、リャピの白目のない湖の底のように暗く蒼い瞳を見つめて微笑むと、包んでいた葉を剥がし、魚を彼女へ手渡した。


 彼女が他の鰭を持つ者ペグ・パウラーと違っているのは、館での通り名の通り鰭が片方欠損しているところにある。

 彼女は、自分の鰭のことを気にして、他の妻たちの目の前に姿を表すことを頑なに拒否していた。


「ねぇ……なんの役にも立たない醜いワタシのことなんて……もう手放してしまってもいいのよ」


 一匹の魚を口に持っていくのを躊躇いながら、リャピは今にも消えてしまいそうな声でささやく。

 ルリジオは、そんなリャピの湿った肌に手を触れると、しっかりと彼女の暗い淵のような目を見つめて寂しそうに微笑みを浮かべる。


「君がこうして姿を表してくれて、鱗に覆われているにも関わらず豊かで、それでいて独特のヒタっと肌に吸い付いてくる質感……それにこうして月の光に照らされてきらきらと細やかに光るその胸を好きなときに見られる……それだけでいいんだ」


「……でも、ワタシは憂鬱の君スクォンクのように勇気を出せなかった……。大切な貴方が大変な目に遭っていたのに」


「皆出来ることは違うし、得意なことも違う。僕がそれで誰かに対応を変えることはないし、誰かを不要だと切り捨てるなんて真似は絶対にしない」


 リャピは不幸な生き物だった。

 生まれつき鰭の弱い彼女は仲間たちからずっと罵られ誹られてきた。


 ある日、ルリジオが一人山で狩りをしている時に彼女と出会うことになる。

 湖のほとりで夫婦が悲鳴をあげているので立ち寄ったルリジオは、子供が攫われたという話を聞いた。

 水面に浮かぶ白くきめ細かい泡を見て、ルリジオはすぐに鰭を持つ者ペグ・パウラーの仕業に違いないと気がついた。

 あっという間に鰭を持つ者ペグ・パウラーの寝床を探り当て、食べられようとしていた子供を見つけ出す。


鰭を持つ者ペグ・パウラーよ。君たちが子供をさらうのは性質上仕方ない。でも、そのヒトの子は返してもらうよ」


 剣を、体の一番大きい鰭を持つ者ペグ・パウラーの喉元に突きつけながら微笑むルリジオに、体の一番大きい鰭を持つ者ペグ・パウラーは怯えながらこういった。


「子供は返す!だから命だけは助けてくれ!そうだ!もうこの近辺で子供を攫わないという誓いの印に、我らの愛娘をそなたへ捧げよう。煮るなり焼くなり試し切りに使うなり好きに使うがいい」


「好きに使うがいいなんて突き出す相手が愛娘のはずはないだろう……」


 突然体に投げられたヒト型のものに面食らったルリジオが体勢を崩してた一瞬の間に、鰭を持つ者ペグ・パウラーたちは物凄い速さで湖の中心まで緑色の髪と鱗を光らせて泳いで逃げていく。

 ルリジオは、逃げていく鰭を持つ者ペグ・パウラーたちに文句を言いながら、思わず抱きとめてしまったなにかへ視線を向ける。そこには、怯えた目をして尖った上下の歯をカチカチと恐怖で震わせながら体を強張らせている片鰭の鰭を持つ者ペグ・パウラーがいた。


「殺すのなら……どうか……どうか一瞬で殺してださい……」


 そう懇願するリャピは、笑顔で首を横に振るルリジオに絶望して涙を流すが、その後、剣を収めながら自分を力強く抱きしめてきた彼の行動に肝を抜かれたのか「きゃあ」と小さな悲鳴をあげた。


「殺したりなんてしないさ。好きにしていいと言われたし、そうだな……君を僕の妻の一人にしたいんだけど、この申し出は受けてくれるのかい?」


 殺されないならそれでいいと、その場は混乱しながらも二つ返事で、ルリジオからの求婚を受けたリャピは、そのまま彼の館へと連れてこられ、今に至るのだった。

 片鰭しかない自分の為に、館の地下に水を引き、いつでも外に出られる水路と、冷たい水と苔と藻に満たされた暗い部屋を作ってくれた。そこまでしてくれたルリジオの行動がまるで理解できないリャピは時々不安になって、彼が顔を見せるたびに「自分なんて役に立てない……」と嘆くのだった。

 

 真夜中、リャピは珍しく部屋の外へ出て中庭の池の下でひっそりと外気浴を楽しんでいた。

 物音が聞こえたので、彼女が慌てて水路の中に身を隠すと、人気のないはずの中庭になにやら蠢くものが見える。

 それは、月の出ていない漆黒の夜の闇よりも更に深い闇が蠢いているようだった。

 こっそりとその闇を見ていると、それは真紅の鎧を身にまとった下半身が馬の禍々しい姿のなにかに変わった。


「……ベリト」


「……そうか。同族の気配を辿って遥々来てみれば……。吾の計画を邪魔したのは貴様かアソオス」


 ベリトと呼ばれた悪魔は、どこからともなく現れたアソオスを忌々しげに睨むと、手に握りしめた血のように赤い槍を、アソオスの真っ白な喉元に突きつける。

 水路の中で気配を殺して見ているリャピは、その様子を顔を真っ青にして見つめている。


 リャピは、アソオスの顔を知らないが、その胸の立派さでルリジオの妻の一人だということまではわかったが、その妻が、自宅であるこの館で見知らぬ禍々しい生き物に殺されそうだということの意味はわからない。

 悪魔同士だけに通じる独特なコミュニケーション方法だというわけでないというのは、アソオスの緊張した面持ちを見ればさすがのリャピにも理解が出来た。


「バカな女だ。あのバエルの娘ともあろうものが、たかがヒトの子のために力を抑えて共に暮らしているだなんて……な」


 アソオスは何も言わず、ベリトを睨みつけているようだ。

 リャピは、あまりの気迫と恐怖に動くことが出来ずにただその様子を見守るしか出来ずにいる。


「まぁ……その御蔭でこうして貴様の喉元に安々と槍を突き立てられるのだがな」


 ググ……とベリトが少し力を入れると、槍の切っ先がアソオスの喉へ少し食い込んだらしく、リャピの鋭い嗅覚は少し血の香りを感じた。


「それで……今日はか弱い乙女をいじめにでも来たのかしら?」


「力が抑えられていても減らず口までは抑えられないようだな」


  挑発するような口調のアソオスの喉元ではなく、胸元を手に持っていた槍で切りつけたベリトは、うめき声を上げたアソオスを片手で薙ぎ払うとそのまま前へと進もうとする。

 リャピは、声を必死で抑えながらアソオスの方へ目を凝らした。どうやら命はあるようで手を傷跡に当ててうつ伏せになっているようだ。


 そこでリャピは、アソオスが自分の方を見ていることに気がついた。

 見ていただけの自分を責めているのだろうか……と心臓をキュッとさせながら、口をパクパクと動かすアソオスの顔を見つめる。


―にげて


 アソオスの口はそう言っているように見えた。

 リャピが自分気がついたことがわかると、アソオスは微笑んで頷く。そして、よろめきながら立ち上がると館に入っていこうとするベリトの背中へと紫色の炎の球を打ち出した。


「せっかく手加減をしてやったんだ。大人しく倒れていればいいものを……」


 そう言って振り向いたベリトは、鎧に隠れて顔はみえないものの激しく怒っているようだった。

 槍の柄の部分でアソオスを薙ぎ倒すと、倒れた彼女に向けて刃の切っ先を振り下ろした。

 しかし、アソオスにその刃が届くことはなかった。槍の先端は白いふわふわとした泡に包まれて殺傷能力を削がれているようだ。


 何事だと言わんばかりに、槍を引き抜き、切っ先に付いた泡を振り払うように振り回したベリトは、目の前からアソオスが消えていることに気がつくと舌打ちをしてあたりを見回す。

 水面のほうが動いた気がして、中庭の池の中を覗き込もうとベリトが足を池の淵に乗せたとき、ぐにゃりと嫌な感触がして彼は足元を確認する。

 そして、それが罠だということに気がつくと忌々しげに自分の足にまとわりついている白い泡へ槍を突き立てるのだった。


 リャピは、水路に引きずり込んだアソオスを急いで自室へと運んでいく。

 彼女の胸につけられた傷は深いようで、血は止まりそうもないままリャピの部屋の水を赤く染めていく。

 リャピはアソオスを水のない場所まで連れて行くと水路を自分の出す泡で固めて、もしベリトが水路の存在に気がついても少しでも足止めが出来るようにと備えた。


「あなた……はじめましてよね?確か片鰭の君ペグ・パウラーのリャピさん……だったかしら」


「……あの……ごめんなさい……わたし……」


「とても美しい銀色の鱗ね……」


 アソオスは真っ青をしながらも、そう言ってリャピに微笑みかけて、手の甲でリャピの鱗をそっと撫でる。


「血が……」


「ああ……ベリト……なんとかしないと……」


 思い出したかのようにそう言って立ち上がろうとするアソオスを必死で止めたリャピの体には、アソオスから流れ出た血がべったりと付着する。

 このままでは、さすがの悪魔でも死んでしまうのではないか……とリャピは焦る。

 リャピは、青い唇を噛み締めてなにか考える顔をした後、勢いよく水から床へと体を上げた。

 朦朧としているアソオスの体を泡で床に固定すると、リャピは魚のような下半身を引きずって自分では開けたことのないドアの方へと向かっていく。


「ちょっと……リャピさん……待って……あなただけじゃ……」


 力なく叫ぶアソオスに、リャピは無理をして微笑むと、体全体を使って重々しい扉を開けて部屋の外へと下半身を引きずりながら出ていった。

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