8話 平原の貴族

 悪魔であるアソオスがルリジオの妻になったという噂は、三日もしないうちに広まったらしく、王都や近くの村々ではちょっとした騒ぎになっていた。


「アソオスもこうして他の妻たちと同じように、極力こちらの世界には干渉も加害もせずにおとなしくしているというのに……一体何を不安がっているのだろうね」


「ルリジオ……ヒトの子はお前とは違って未知の者や強大な力を持つものを恐れる……。きっと暁の髪の君ことアソオス殿は、バエル将軍の娘だ。ルリジオ様が悪魔に洗脳されただとか、魔王の軍門に下ったのではないかと心配する者も多いのだろう」


 ここ数日、噂の真相を確かめるための近隣の村の領主や、王都の貴族からの使者を名乗る者が館に殺到していた。

 そのおかげでルリジオは館ではなく、岩山の麓にある応接用の館で過ごすことが増えていたのだった。来訪者が一時期増えることがあるとはいえ、流石に連日何人もの使いの者が来ることに辟易としているルリジオを、銀狼夫人キュノケファロスことヘンティルは窘めた。

 彼女は編みこんだたてがみを揺らすと、一息ついたルリジオの肩に額を軽くこすり付けるようにして彼を労う。


「困ったものだね。応対に手いっぱいで君たちと満足に触れ合うこともできないなんて……」


 ルリジオは、珍しく微笑みではなく、困ったような悲しんだ顔をヘンティルへ向けて、甘えるような声を出した。そして、毛皮に覆われたヘンティルの4つある乳房の真ん中あたりに顔を埋める。

 普段は微笑みを浮かべて弱音など吐くことも滅多にない彼のそんな姿に母性本能のようなものをくすぐられたヘンティルは、彼の頭を、ふさふさとした銀色の毛並みが美しい手で優しく撫でるのだった。


「ああ……この太陽と森の香り、ふわふわとしながらも力強さを感じさせる毛並みの感触……そしてその下にある柔らかで羽毛を詰めた絹の袋のような豊かな4つの胸……君が今ここにいてくれなければ僕の心は折れてしまうところだった」


 ルリジオは、ヘンティルの谷間に顔を埋めたまま深呼吸をして、頰を左右にふる。ふさふさとした銀色の毛皮と4つの胸の膨らみを両頬で味わったあと、やっと顔をあげたルリジオは、机の上に置いてあるカップを持ち上げ、少し温くなった紅茶を喉に流しこむように飲んだ。

 それから、軽いため息を吐きながら、机の上をみる。

 美しい木目の広がる艶々とした机の上に広げられているのは、動物の皮を薄く鞣したもので作られた巻物だ。

 ルリジオは巻物にびっしりと書かれている文字を眺めて、何度目かわからないため息をついたのだった。


「あのふとっちょの遣いと話していた火竜討伐の件か?」


 ヘンティルは、ルリジオの横から巻物を覗き込んで首をかしげる。文字が読めないヘンティルにとってはミミズがのた打ち回ったようなものが並んでいるようにしか見えないが、ルリジオにとっては良くない代物であるというのとは理解できた。


「この前の夕食会の日に出会った個体だと思うんだけど……ね。どうにか命を奪わずに領主を納得させられないかと思ってさ」


 ルリジオが難しい顔をしながら腕組みをして、座り心地のあまり良さそうではない革張りの椅子の背もたれに体重を預けるようによりかかった。ヘンティルは、長らく微笑みを浮かべない彼が大変だということがわかり、彼を後ろからそっと抱きしめた。

 小さな声で「ありがとう。とても暖かいし助かるよ」と笑ったルリジオは、ヘンティルの手を優しく振りほどくと、椅子から立ち上がって振り返った。

 そして、そのまま驚いた顔をしているヘンティルのことをそっと抱きしめて、お姫様抱っこをして持ち上げたのだった。

 ルリジオは、ヘンティルを抱き上げたまま、隣の部屋まで運んでいくと、寝具の上にヘンティルを優しく下ろす。


「君が、僕を気遣って館からわざわざ来てくれたことが本当に嬉しいんだ」


 ルリジオがニッコリと笑うと、真っ白な歯が、形の良い唇からチラリと見える。

 湖の水面のような美しい蒼をしたルリジオの瞳に見つめられたヘンティルは、そのあまりの美しさに息を飲んで固まっていると、彼はヘンティルのふかふかとした胸元の毛皮に顔を埋めるようにして彼女に覆いかぶさる。


「る、ルリジオ!?来賓の館でそんな……いや、わたしは別にだめというわけでもないが……」


 ヘンティルは、慌てた声でそういいながらルリジオの肩をそっと掴む。しかし、その手は彼を押し返すわけでもなく、そっと添える程度のもので抵抗の意思は見えない。

 胸を高鳴らせたヘンティルが、自分の毛皮に顔を埋めたルリジオの顔を確かめようとしたとき、スースーと規則的な息遣いが耳に入ってきた。


 「なんだ。期待してしまったじゃないか」


 彼が寝てしまっていることに気がつくと、安心と残念さが入り混じった声でヘンティルは呟く。そして、ルリジオを自分の隣におろし、彼のサラサラとした金色の髪にそっと触れた。

 彼女は自分の爪で彼のことを傷つけないように注意しながらそっとルリジオの頭を撫でた。

 ぐっすりと寝てしまった自分の主人の毛布代わりになりながら、ヘンティルは心の中でそっと彼の心労をねぎらうと、自分も大きな欠伸をして眠りについた。




※※※※




「御主人!先日討伐しそこねた火竜は、どうやら貴族の娘をさらってしまったようです」


「ああ。今、僕にもしらせがきたよ」


 太陽が昇り始めたころ、ブラウニーとルリジオの緊迫した声でヘンティルは目を覚ました。

 窓際に立っているルリジオの腕には、鋭い目をした鷹が止まっている。

 どうやら鷹の足に括り付けられていたらしい小さな巻物に、ブラウニーが言っていることと同じ内容が書いてあったのだろうとヘンティルは寝ぼけ眼ながら理解した。


「攫われた娘は巨乳とのことだ。今すぐ助けに行こう。留守を頼むよヘンティル」


「わ、私も戦士の端くれだ。たまには共にお前と……」


 立ち上がろうとしたヘンティルの肩にそっと触れて立つのを止めたルリジオは、柔らかく微笑む。


「そうだな……じゃあ、今度一緒に狩りにでも出かけよう。君のために必ず予定を作るよ」


 自分の少し灰色がかった銀の鬣と、黒く塗れた鼻先を撫でるルリジオの顔を見て、ヘンティルは何も言えずに頷いて寝具に腰を下ろす。


「うう……。そんな顔をされたらワガママが言えないじゃないか」


「気分を害してしまったかい?」


「大丈夫だ。狩りの約束、ちゃんと守ってくれよ」


 ヘンティルに、にこりと微笑み返し、彼女の頭を撫でたルリジオは、机の上に置いてある巻物にさっとペンを走らせた。

 そして、クルクルと器用に巻物を小さな木の筒に入れると、巻物を入れた筒を鷹の脚に括り付ける。


「じゃあ、これを君の主人まで届けておくれ」


 ルリジオに話しかけられた鷹は、返事代わりにピョロロロと大きな声で一鳴きしたかと思うと、開け放たれている窓から飛び立っていく。

 鷹から抜けた羽根が太陽に照らされる中で舞いあがる。逆光の中で、ふわふわとした羽根に囲まれるルリジオの姿は幻想的なまでに美しく、種族や美的感覚が多少違うとはいえヘンティルも思わず見とれてしまうほどだった。

 食い下がろうという気力もどこかへ行ってしまったヘンティルは、ブラウニーを肩に乗せ颯爽と部屋を出ていくルリジオをぼうっとしたまま手を振って見送るのだった。


※※※


「巨乳じゃなかったのに助けたのか?」


 館にはヘンティルが驚いて出した大きめの声が響く。

 所々焼け焦げたり、鋭い爪で引き裂かれたような壮絶な戦いがあったのだろうと予想が出来るような恰好で帰ったルリジオをいち早く出迎えたヘンティルは、夫に抱えられている少女の体をしげしげと見つめながら開口一番にそう言ったのだった。


「人助けをするのに……胸の大きさは関係ないさ」


 ルリジオに抱きかかえられている少女は上等な絹のドレスの上に分厚い深いマントを羽織っている。どこか良いところの生まれなのだろうということは人間の社会にあまり聡くないヘンティルですら察することが出来た。

 栗毛色の髪に、銀の翡翠をあしらった髪飾りを付けた年端もいかないような年齢の少女は、ルリジオによって床へ下ろされた。


「名前は、ポルピというらしい。ミッドソール川付近の領主の娘だそうだ」


 しかし、ヘンティルを怖がっているのか、ポルピと呼ばれた少女はルリジオの後ろへと隠れてしまう。


「そうか。ヒトの子からすれば獣人は恐ろしいものだな……すまない」


 ヘンティルは黒く濡れた鼻横を指先で掻きながら気まずそうな顔を浮かべ、そういえば自分のような狼人をヒトは怖がるのだということを思い出した。


「大丈夫だよ。彼女は僕の妻だから君を傷つけたり、取って喰うことはしないから」


 キュウンと鼻を小さく鳴らすヘンティルの銀色の鬣を優しく撫でたルリジオは、トタトタと出迎えに来たブラウニーに剣とボロボロなった白銀の鎧を渡しながら、怯えるポルピに優しい笑顔を向ける。


「改めて……ただいま僕の愛しい我が妻よ。心配してくれていたようでうれしいよ」


 そう言って所在なげな様子で立っているヘンティルを両腕で抱きしめると、その美しい顔を彼女のふわふわとした胸元に埋め、思い切り息を吸い込む。


「ああ……この艶々とした毛並み……そして二対の双丘の大きな盛り上がりに顔を埋められるこの贅沢な気持ち……そしてこの柔らかさ……今日も無事にこの家に帰ってこられてよかった。ヘンティル出迎えありがとう」


 ルリジオはそう言って顔を上げると満面の笑みでヘンティルを見つめた。

 さっきまで少し自分が異種族であるということを実感して胸の痛みを感じていたヘンティルだったが、彼の屈託のない笑顔を前にすると「そうだこの人は巨乳なら種族の差くらい気にしない人だった」と安心してしまうのだった。


「ドラゴンに攫われて、助けが来たと思ったら、宥められたドラゴンに連れられてこんな辺鄙なところに連れてこられるし……わたくしはどうしたらいいんですの?」


 ブラウニーに案内され一足先にテーブルに座っていたポルピは、顔を青くしながらも貴族特有の気丈さなのか、整った彫刻や絵画に描かれる少女のようなすまし顔を作っている。

 そんな少女の問いかけにヘンティルは思わず眉間に皺を寄せると、ルリジオの方を鋭い目で睨み付けた。


「……火竜を……倒すはずだったろう?」


「巣に異物を持ち込まれて気が立っていた竜を倒すなんて可哀相じゃないか。ね?ポルピさん」


 笑顔を崩さないままそう言って自分へ視線を向けるルリジオにポルピの顔は強張る。

 カップを持っていた手は震え、やっとのことでカップをテーブルに戻した。

 俯いた少女の歯がカタカタと鳴っているのが静寂に響く。


「別に僕は騙されて怒っているとかじゃないんだ。君の事や、君のお父様のことを害するつもりもない」


「君は……故意にあの火竜の巣へ運ばれたんだろう?そうだな……君のお父さんが誰かに頼まれたとかじゃないかな?

 それに……多分妻になれとでも言われていたりするのかな?」


「なんで……なんでわかったんですの……」


「火竜に攫われたにしては随分服がきれいだからね。多分大砲か何かで火竜をおどかしてから君を巣に入れたんだろうなって思ったのさ。竜も巣の近くにはいても火薬の臭いがいやなのか中には入っていないようだったし……」


「そんな……」


「あと残念ながら……君に事を妻にすることは出来ない」


「巨乳じゃないからですか?」


「…………えっと、それだけじゃなくて……君も此処で暮らすのは苦痛だろう?」


「でも……でも……わたくしに行き場所なんて……ここにいられなければ……」


「大丈夫。僕の信頼できる人の屋敷で面倒を見てもらうといい。

 君の父上に僕が手紙も書く。その相手ならきっと君の父上も納得するはずだ」


 ルリジオはそういうと、胸元から橙色に輝く四面体の欠片を取り出す。

 背中に透明な羽根の生えたアブくらいの小さな妖精たちが集まってくると、その欠片は眩く光り始めた。

 ヘンティルは、不思議そうな顔をしているポルピの隣に、彼女が怖がらないように身をかがめて近付くと小さな声で「遠くの人と会話が出来る不思議な石なんだ」となるべく優しい声でささやいた。

 ポルピは眩く輝く欠片と、それを口元に当てて微笑むルリジオを食い入るように見つめている。


「そうなんだ。僕の動向を探るために火竜の巣へ実の娘を送るような父親だ。きっと家に戻っても彼女の居場所はないんだろう……そう。

 そうだな……栗毛色の長い髪は絹のように細く、肌は陶器のようになめらかで、肌は月の色のように白い。ヒトだ。大丈夫。僕は顔の造形の美醜には疎いし興味もないんだけど君の家にいる娘たちと近い見た目だと思う。大丈夫今回はオークと間違えていないとも」


 相手の声は聞こえないものの、何を話しているのかなんとなく察したポルピは不安げな表情を浮かべながら膝の上にちょこんと乗せた手を握りしめている。


「もちろんだ。だから君に連絡をした。頼むよ」


 話が終わったルリジオは、橙色の光が消えた欠片を胸元にしまいながら不安そうな顔のままのポルピの隣へと腰かけた。

 不安がっているのがさすがにわかるのかヘンティルは、少女を更に怖がらせたりしないようにを気を遣いながら二人の様子を立ったまま見守っている。


「雷鳥を飛ばしてすぐ来るらしい。大丈夫。君の尊厳も貞操も無理矢理奪うような相手ではない」

 

「はい……」


 顔を真っ青にしながらも、自分に出来ることはなにもないとわかっているのかポルピは今にも泣きだしそうな顔をしながらそう言って体を強張らせるばかりだった。


 気を利かせたブラウニーの注いだ、おかわりのお茶が冷めきらないうちに、ドアが勢いよく開いた。

 そして、部屋の中へと深緑の立派なマントと三角帽子を身に纏った銀色の髪でとんがり耳の女性がブーツをカツカツと鳴らしながら急ぎ足でこちらへと向かって来る。

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