電子レンジからパン!と破裂音が聞こえるのと同時にしまった!と思った。

弁当についているマヨネーズの袋を外さずに一緒に温めてしまったのだ。

次の人の商品のスキャンをしていた手を止めてレンジを開けると、思った通り飛び散ったマヨネーズが庫内に散乱していた。弁当にもかかっている。「すみません! 取り替えますので少々お待ちください!」おれは言って同じ商品を取りにいき、もうひとつのレンジで温めようとしたら沖さんが「マヨネーズ!」と叫ぶように言った。危うく同じ失敗をしてしまうところだった。弁当からマヨネーズの小袋を外していたら、さっきスキャンの途中でそのままにしてしまっていた客のフォローに沖さんが入ってくれた。


「珍しいね、美濃くんもあんな失敗するんだ」

帰り道沖さんが言った。

「ちょっと考え事してたんすよ」

沖さんは水商売をしていた時の客からストーカーの被害に遭っていた時期があり、いつもバイトの上がり時間が一緒で帰り道も同じなので家まで送るようになった。

もうストーカーのおじさんを見かけることはなくなったけど、だからってわざわざ別々に帰るのも変な気がして、なんとなくずるずると半年ほど一緒に帰っている。

「なに? 恋の悩み?」

沖さんが冷やかすように言う。

おれは今日蓮太朗から相談されたことを話すか迷う。

沖さんはおれより年上だし人生経験も豊富だろう。たまに下ネタも言うし何でもオープンに話すタイプの人だから話しても大丈夫だろうと思った。それに、何か解決方法を教えてくれるかもしれない。

「友達の彼女が妊娠したらしくて」

「えー」

沖さんが抑揚のない声で答える。

「ヤバいんすよ」

「それ美濃くんの話?」

「は?……いや友達の」

「ふーん」

沖さんが疑いの目を向ける。

「本当に友達の! おれじゃないって」

おれ童貞だし、と言いそうになってやめる。

「高校生でしょ?」

「はい」

「二人とも?」

「はい」

「生でヤったの?」

いやぁー、と返事に困りながらやっぱり沖さんに話すんじゃなかったかなと後悔する。

「バカだね」

「そうっすね」

「ちゃんとつけなきゃ」

「あー、はい」

「ほんとにそれ友達?」

「だから友達だって……」

「なんにも出来ないよ」

おれが押している自転車を挟んで向こう側を歩く沖さんが言う。

「他人に出来ることなんてなんにもないんだから」

冷たい顔で沖さんが言って、そうっすよねと小さくおれが答えるとそれからしばらく沈黙が続いた。

沖さんが一人で住むボロいアパートが見える。

じゃ、と別れの挨拶をしようと思っていたら突然、自転車越しにいた沖さんが反対側に回っておれのすぐそばにいた。

「これ」

手のひらに乗るほどの小さな赤い包み。

「義理じゃないからね」

ニヤっと笑って沖さんはアパートの錆びた階段を登り、途中でふり返り手を振っていた。

赤い包みを持った手を上げてそれに答え、自転車にまたがって包みをポケットに入れ漕ぎ出す。

妹と弟には見せたくない。家に着く手前で自転車にまたがったまま包みを開ける。どう考えても義理サイズのチョコが出てきた。

からかわれているんだと思う。義理じゃないわけないじゃん。

包装を乱暴に剥いてアーモンドが入った安物のチョコをおれは頬張った。

おれだったらどうするだろう。彼女が妊娠してしまったら。

とりあえず親に言って、一緒に育ててもらうとか。

案外母親は喜んで、妹や弟とまとめて一緒に育ててくれそう。

蓮太朗の家は金持ちだから、親が何とかするだろう。産んで育てる以外の方法で。いつ行っても誰もいない、がらんとした新築の大きな蓮太朗の家を思い出す。

家に帰ると小学生の弟が、兄ちゃんチョコもらった? と嬉しそうにきいてくる。それを中学生の妹も後ろで聞き耳を立てていた。おれが答えるより先に「ぼく二個」と弟がチョコを見せてきた。

「やめなよ、兄ちゃんもらってないみたいだし」

妹が言う。

「うるせーな、もらったわ」

おれが言うと弟が母親に報告しに行く。

とにかくおれの家は騒がしくて、父も母もよく喋る。妹は可愛いけどずる賢くて弟はほんとバカで、狭いし金はないけどやっぱり家に帰るとホッとする。

弟と風呂に入り頭を洗ってやると、「兄ちゃん何個もらったの?」としつこく聞いてくるので「ひとつだよ」と正直に答える。

「じゃぼくの勝ちだ」

ぎゅうっと目をつむったまま弟が言って、おれは弟の髪の泡をシャワーで流してあげながら「数じゃないんだよ、質だよ質」と答える。

「なにそれ」

「どうでもいいやつに沢山もらうより、大切な人に一個もらうほうが勝ちってこと」

「ふぅん」

弟が不満そうに口をとがらせる。

「でもまぁ今回はお前の勝ちだ」

おれが言うと弟は嬉しそうにガッツポーズした。


次の日のバイトの帰り道、沖さんがまた白い小さな包みをくれた。とても軽い箱だった。

「昨日もらいましたけど、義理チョコ」

「だから義理じゃないって。これはただのプレゼント。いつも財布に入れといてね」

沖さんはそう言うと振り返りもせずにアパートの階段を登った。

自転車で少し走ってから、さっきの箱が気になったので途中で自転車を止めて包装紙を破いた。出てきたのはコンドームだった。

デリカシーのなさにちょっとムカついたけどすぐに意味がわかった。

昨日友達の彼女が妊娠した話をしたからだろう。ちゃんとつけなきゃって言ってた。蓮太朗に渡せということかな、と思ったけどもらうことにする。

いつ使うことになるかわからないそれを、ひとつ取り出して財布に入れた。

しばらく蓮太朗の様子を見ていたけど、斉木と一緒にいるところを見かけなくなった。

学年末テストの最終日、下校する蓮太朗を見つけて追いかけた。

「斉木どうなった?」

蓮太朗はうんざりした顔で「知らね」と答える。

「なんだよそれ、話してないの?」

「避けられてんだよ」

「え、それで放置?」

なんとかするよと蓮太朗は言って、だるそうに手を振るのでおれはついていくのをやめた。

「他人に出来ることなんてなんにもないんだから」という沖さんの言葉を思い出した。

バイトに行くとそれを察したかのように沖さんが「友達どうなった?」と訊いてきた。

「あーなんか解決したみたいっす」

おれが嘘を答えるとそれ以上深くは訊いてこなかった。

帰り道いつものように沖さんを送る。

「テスト終わった?」

「はい」

「こないだの舞台撮ったやつ、見にこない?」

沖さんは劇団に所属していて、先週舞台があったらしい。観に来てと誘われたけどテスト前だからと断った。また断るのも悪い気がするので「いいんすか」と答える。

沖さんは大学に行くため地元を出て一人暮らしを始めたけど、劇団に入ってのめり込んでしまい大学を辞めた。それで仕送りを打ち切られ金がなく水商売とコンビニを掛け持ちでバイトして、そのコンビニでおれと一緒になった。ストーカーの件で水商売は辞めて、稽古の無い日の昼間は年寄りにひたすら電話を掛けるという怪しいバイトをしているらしい。とにかくそこまでしてでも続けたい舞台を、一度は観る価値があるかもしれない。全く興味はないけれど「観たいっす」と付け足す。

「片付けるからちょっと待ってて」と言って沖さんが家に入ったあと、錆びた階段の下で母親にLINEする。帰りが遅くなることについて何か言われる訳じゃないけど、弟が一緒に風呂に入るために待っているかもしれない。

母からは気が抜けるくらい適当な返事がくる。

「いいよ」と薄く開けた扉から手招きされて、初めて沖さんの家にあがった。

狭いワンルームにベッドと小さなテーブルとテレビ。

テレビで観るのかと思っていたら沖さんがノートパソコンを持ってきてテーブルに置き、DVDを挿入する。

「どうぞ」と促されて上着とブレザーを脱ぎ、地べたにあぐらをかいてベッドの縁にもたれる。

「狭くてごめんね」

テーブルに置いたノートパソコンの画面に、画質の荒い映像が流れる。

いつもスエットみたいなだらしない格好の沖さんが、肌の露出が多い薄くて短いワンピースで登場する。

みんな大袈裟に身ぶり手振りで台詞を言うけど話の内容が全然理解できない。怒ったかと思えば笑い、泣き叫ぶ人もいれば歌い出す人もいて、観ていて恥ずかしくなる。

こんなに感情を露にする沖さんを見たことがないし、最後の場面で泣き崩れ長い台詞を話す沖さんはなんだか別人みたいで直視できなかった。

映像が不自然にプチンと切れ、部屋がシーンとなる。

「どうだった?」

静かに沖さんに尋ねられて、なんて答えるのが良いのかおれは迷って「なんか……ちょっと、恥ずかしかった」と素直に言う。

数秒沈黙があって「なんで?」とさらに沖さんは問う。

「あー、いや、なんてゆうか、沖さんじゃない人みたいで……圧倒されて」

おれの答えに腹をたてた沖さんに叩かれるのかと一瞬思った。

気がつくと目の前に沖さんの顔があり、おれの肩を捕むのと同時に沖さんが唇を重ねてきた。避けられない早さだった。

「は?……え、なに?」

おれがパニクって言うと「もう一回していい?」と上目遣いに沖さんは言った。したい、と思った。おれの返事を待たずに沖さんはゆっくりと顔を近づけてくる。おれは沖さんと反対の角度に首をかしげてそれを受け入れる。

柔らかい唇は甘いぶどうの味がして、さっき沖さんが何かを口に含んでいたか思い出そうとしたけどすぐにどうでもよくなった。

歯の隙間から沖さんが舌を押し込んできて、おれの舌にからめてくる。唇を合わせるだけのキスしかしたことがないおれはひるむ。沖さんとは別の生き物のように熱い舌が動く。舌と舌で会話するようにじゃれ合う。溺れそうになって息継ぎする。頭が真っ白になったとき、濡れた唇を触れ合ったまま「あれ、持ってる? こないだあげたの」と沖さんがささやいて、それがコンドームのことを言っているのだと理解するまでに数回瞬きをする。

「ある」

おれは言ってスラックスの後ろポケットに入れていた財布からコンドームを取り出しテーブルに置く。

「使う?」と沖さんが訊く。

「どうしよ」おれは言う。

おれの首筋に手を回し沖さんがまた唇を重ねてくる。おれは沖さんの腰に手を回し、服の中に手を入れる。

おそるおそる胸に触れ、その柔らかさに心奪われる。沖さんの呼吸が荒くなりおれはたまらず沖さんの服をたくしあげる。

色気の全くない地味な服装の沖さんの下着は真っ赤で、ギャップが妙にいやらしかった。おれが触ったせいでずり上がったブラジャーの下から胸がはみ出していた。ホックを外し、解放した乳房を両手で包み、ピンと立つ二つの小さな突起のうちの片方を口に含むと沖さんが小さく声をあげる。

スラックスの生地の上から固くなったおれの下腹部の形を沖さんが確かめるように細い指でなぞる。ベルトに手をかけて外そうとして、バックルがカチャリと音をたてる。

「ちょっと待って」

口を離して顔を上げおれは言う。二人とも息が上がっている。見つめ合って笑ってしまう。

「だめ?」

「ううん、そうじゃなくて」

何度も脳内でシミュレーションしてきた。手順も知っているし多分なんとかなるだろう。でも、どんなに慣れた風を装っても初めてだということがバレるだろう。

おれは自分でベルトを外しスラックスを脱ぐ。心細い顔で待っている沖さんの脇に腕を回して抱き上げる。ベッドに優しく押し倒し、シャツを脱ぎながら、でもいいや、と思う。

初めてだとバレたとしても、それを笑われたとしても、沖さんならいいや。

シーツに広がる少し傷んだ髪。覆い被さるおれの体で翳る白い肌。

腕を伸ばしておれの髪を指で漉き、愛おしそうに頬笑む沖さんに、おれは自分からキスをする。






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