マシュマロ
楓 双葉
1
何を見ているんだろうと思った。
探すように一生懸命見ている、視線の先には何があるのだろう。
不安そうだったり嬉しそうだったり切なそうだったり、色んな表情で何かを見ている有沢萌を、ぼくは無意識に目で追うようになった。
有沢が見ている何かが気になっていたはずなのに、いつの間にか有沢そのものが気になっていた。
有沢が見ているものは花でも木でも空でもなかった。いつも同じ一人の男子をずっと見ていた。
それがわかってぼくは、より一層有沢への興味が増した。この感情が何なのかはぼくにはわからなかった。ただただ有沢を知りたいという気持ちだけが膨らんでいった。
同じクラスだから話しかけるのは簡単なはずだった。
他の女子には気軽に声をかけられるのに有沢にはそれが出来なかった。有沢には友達が少なく、授業以外はいつも外を見ているか本を読んでいる。
「何読んでるの?」と訊く練習を心の中で何度もした。それなのに訊ける機会に恵まれた時ぼくは、「何それ」と言ってしまった。有沢はムッとした顔で「小説だけど」といってパタンと閉じた。
有沢はプンと横を向いてしまう。艶々とした黒髪が光る。
「何の小説?」
有沢は答えず、顔を横に向けたままだった。
もうすぐ休憩時間が終わるからみんなが教室に戻ってきて、ああもう答えてもらえないんだろうなと諦めて有沢の席を離れようとしたとき「みずうみ」と有沢が言った。
「え」
ぼくが聞き返すと今度はきちんと目を合わせて「川端康成」と答えた。
返す言葉が見つからなくてぼくは有沢をじっと見つめてしまって、どいて、と有沢の隣の席の奴に言われてハッとして我にかえり自分の席に戻った。
次の休み時間に田中に誘われて北校舎の最上階に行った。ほとんど人が来ないからいつもとても静かで、駒を置く音がよく聞こえるからと田中が気に入っている場所。
田中に一から将棋を教えてもらい、なんとか指せるようになったけど田中に勝つことは永遠にないような気がする。
駒を並べながら田中に「みずうみって知ってる?川端康成の」と訊いてみる。
「ああ、変態のおっさんの話だろ」田中はぼくが置いた駒の角度を直しながら言う。
「マジ」
「いや、読んだことないけど、あらすじだけ見てそんな風に思った気がする。それよりさー、お前あれ読んでくれた?」
変態のおっさんの話という感想が心に引っ掛かったまま田中に借りた『3月のライオン』という漫画を思い出す。
「ごめんまだ」
「早く読めよー。続き持ってきてやるからさー。絶対もっと将棋を好きになるからー」
ごめんごめん、と答えながらぼくは川端康成の『みずうみ』を読もうと心に決める。
バレンタインデーの日も田中と北校舎の最上階に行こうとした。
先に階段を上がっていた田中が将棋盤を持ったまま「斉木がいる」と言って止まった。
「降りよう」と田中が言うので一つ下の階の踊り場でぼくたちは腰を下ろす。
「なんで斉木がこんなとこに」ぼくは言った。
「宇井と待ち合わせなんじゃね、チョコ渡すとか」
「あー」
斉木絵莉香と宇井蓮太朗は校内でも有名な美男美女で、二人は付き合っている。堂々と渡せば良いのに。なんでわざわざこんなところで、と少し不満に思う。
田中に、ぼくたちには無縁だなと言おうと思っていたら斉木が降りてきた。
田中もぼくも斉木と目を合わせないようわざとらしく将棋盤に駒を並べる。
「もう時間なくない?」
「そうだな。ま、でも並べながら話そうぜ」
田中が言って「話すって何を」とぼくが笑っていたら「斉木さん!」と声が聞こえた。
有沢だ。声だけですぐにわかった。
「あたし、宇井くんに、チョコレート渡すから」
有沢が言って、斉木が何か答えた。
田中が目を見開いて、手すりの陰から斉木達のいる下階を覗く。
「やめろよ」
ぼくは押し殺した声で言い、田中を止めるため立ち上がって腕を引っ張る。
「斉木さんには言っておこうと思って」
有沢が言って、田中が「ヤベェ! 修羅場じゃん!」とかすれた声で嬉しそうに言う。
誰かが階段を降りていく足音が聞こえて、もう二人ともいなくなったと思ったのか、押さえていた口もとから笑いが込み上げた田中は吹き出す。
「何してんの!」
有沢の声が聞こえてぼくは慌てて田中の口を手のひらで押さえた。
有沢の強い気持ちを目の当たりにして、ぼくは興奮していた。なんでそんなに好きになれるんだろう。田中が将棋をバカみたいに好きなように、有沢は宇井蓮太朗のことをとても好きなのだ。
どうやって好きだという気持ちに気付くのだろう。好きだという気持ちが砂時計みたいに少しずつたまって、いっぱいに満たされたて知るのか、あるいは稲妻に打たれるみたいに電撃的なのか、それとも花が咲くみたいにおだやかにゆっくりと悟るのか。
ぼくもあんな風に何かを、強く好きだと思ってみたい。
とても良いからと他人に自信を持って薦められるほど、もうすでに誰かのものなのに諦めずに奪いに行けるほど、何かを強く好きになりたい。
帰り道の本屋でぼくは、川端康成の『みずうみ』を買った。
その日のうちに読み終わった。あまり面白くなかった。
でも面白くなかったことはそれほどショックではなかった。変態のおっさんの話といえばそれまでだけど、それだけでは説明しきれない何かが書かれているような気もした。そして何よりぼくは、『みずうみ』を読むことで有沢を少し知れた気がして満足だった。
スマホを見るとグループLINEに「悲報! 有沢が蓮太朗にチョコレート受け取ってもらえず!」というメッセージが流れていた。「うけるwww」「ダサw」「撃沈!」と数人が煽って盛り上がっていたので、それ以上読まずに閉じた。
それでぼくは有沢のことを考えた。有沢がいつも宇井蓮太朗を見ていたのは多分ぼくが一番知っている。宇井の彼女にも宣言して、一大決心をしてチョコレートを渡しに行ったに違いない。それなのに受け取ってもらえなかった。有沢は泣いたのか。傷ついていないだろうか。心配になった。気になって、ずっと有沢のことを考えていた。胸のあたりが痛くなった。もしも有沢が傷ついていたとしたら、ぼくに出来ることはあるだろうか。ぼくが、有沢のために出来ること。
次の日、まるでチョコレートを受け取ってもらえなかったのが自分のことだったかのように暗い気持ちで学校に行った。
でも有沢はいつも通りだった。
むしろいつもより上機嫌な気がした。
本を読んでいる有沢に「『みずうみ』読んでるの?」と訊いた。
有沢は「あれはもう読み終わった」と清々しく笑って答えた。
「じゃあそれは何読んでるの?」ぼくは訊いた。
有沢は顔を上げ、真っ直ぐぼくを見る。昨日一晩中有沢のことを考えていたことが見透かされたようでドキッとする。
「小説好きなの?」
有沢が言う。
好きなの? と問われてぼくは、ああ、そうか、それだ、と気付く。
「ううん、有沢が何読んでるか知りたいだけ」
ずっと感じていた例えようのない気持ちに、有沢が名前をつけた。
「読み終わったら貸してあげよっか」
有沢が手に持っている小説を顔に近づけて言う。
「うん、貸して」
ぼくは無意識に答える。
「いいよ、待っててね」
有沢が笑う。そうだ、ぼくは。
好きなんだ。
有沢のことが。
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