第7話 蝙のみ行く
魔王が目を醒ましたと同時に小さく悲鳴を上げたのは、逆さまになったヴィラの顔がそこにあったから。彼女が子供のように手を上げて「おはようございます」と挨拶したので、とりあえず魔王も「おはよう」と返してみる。
「魔王様、お目覚めのところ悪いんですが。魔王城に戻ってきてくれませんか? あの宰相に従うのはうんざりです。最近生え変わりの時期だからか知りませんけど毛がぽろぽろ落ちてますし」
「我儘言うな、もう良い大人なんだから」
窘めてすぐにやってくる頭痛。こいつ、どうせ手続きなど何もない不法侵入でここまで来たのだろう。王国の人間に見つかってとやかく言われる前に返さなければ、とさながら捨て猫を抱える少女。
「久々に顔が見れて良かったろ。ほらさっさと帰れ」
ヴィラは天井で直立不動のまま動こうとしない。多少イラつき始めた頃に、シルクのカーテンの向こうで日差しが強くなるのを感じて合点がいったように頭を抱えた。
「日が暮れるまで帰れないってことか」
「直射日光は流石にきついんです。出発する時間、考えるべきでした。わざとじゃないですよ?」
「ヴィラ、お前は外務大臣だろ。こっちに来る機会なんていくらでもあるんだから、その時に顔を見せてくれれば良いじゃないか」
ヴィラの懐から秘書長官が顔を出して、くるりと魔王が座り込むベッドに落ちた。翼を畳み平伏しながら、その目で魔王の頭からつま先まで見渡す。
「魔王様、それについては私が」
「おお、相変わらず色白だな」
「ありがとう存じます。いえ、実はつい先日も、我らはこの城へ来たのです。その際魔王様にお会いできるよう取り計らっていただく算段だったのですが、断られまして」
「ち、お前らも難儀するなあ。こちらでも散々、魔王国の人間と会うのは控えるように言われている。ましてやヴィラとジャックは右腕と左腕のようなもの。警戒されて当然だな」
抑えようとはしているが、魔王の怒りが徐々に沸いていることを口元からちろちろとはみ出る熱気が伝えていた。
「囚われの罪人のような気分だ。かつてより幸せだろうと、環境が変われば人は昔を懐かしく思うらしい」
ヴィラと秘書長官は顔を見合わせる。今の魔王ならば、確かに故郷への想い故に離婚を視野に入れることもあるだろう。ヴィラは天井からベッドの脇へ降り立って、魔王に跪く。当分、こうすることなど無かったと思っていただけに、部屋全体がノスタルジックに染まる。
「魔王様、私たちはいつでも待っておりますので、魔王国へ帰ろうと思うのならばいつでも申してください。魔王国最速の私が責任をもって護衛いたします」
「気持ちはありがたいが、次の春もこの城で迎えるだろう。まだこちらで学ぶことが山ほどあるからな。それに、ほら、夫のこともあるし」
再び、ヴィラと秘書長官は顔を見合わせた。魔王が夫、つまり勇者のことを口にした瞬間の表情が、夫婦間の亀裂のようなものを全く感じない温かいものだったから。
「魔王様、つかぬ事をお伺いしますが、夫婦生活はその、どうですか?」
秘書長官の言葉に、魔王は少々頬を紅潮させて笑った。魔王国の棟梁として君臨していた時には見せたことのない表情。
「まあ、幸せと言えば幸せ、って感じ? これまで彼氏とかいたことないし、そういうの考えたこともなかったから。あとやっぱ、その、好きだし?」
魔王は春一色の顔を思わず枕にうずめた。記憶の断片にいるどの彼女よりも華憐だ。呆けている場合じゃない。こうなるとヴィラたち、主に秘書長官は、自分たちの推測と現実の矛盾の真相を突き止めなければならない。外交僧が嘘を吐いているようには見えなかったが、仮に彼女が演劇に対して天才的な技量を持ち合わせているとすれば、その虚偽に必ずこちらが不利になる何かが手をこまねいているはずだ。
と、こんなことを考えているのは秘書長官だけである。ヴィラは呑気に「あら素敵」と手を叩いて魔王の膝に手のひらと顎を乗せた。
「なんだ。心配してたんですよ、この前来たときに魔王様がご離婚なさろうとしているなんて聞いたものですから。いやあ、あの小娘適当言ってたんですね、外交官としてあるまじき行為ですね」
その途端、魔王の心の中で別々の位置にあったものが繋がった。突如、春の息吹に紛れて季節外れの北風が吹いたようになる。
「そう、フィーア外交官が言ったのか?」
「フィーア、名前は知りませんが、慣れない帽子落っことして慌ててた人です」
「姫様、その人です。名前ぐらい覚えてください、外務大臣なんだから」
「あなたが覚えてるんだから良いじゃないですか」
突如、ドアがノックされたので、ヴィラと秘書長官は会話を止めて反射的に天井に張りついた。魔王は緊張を抑えた声で「入って良いぞ」と枕やシーツの位置を直す。使用人が三人ほどでやってきた。何より幸いなのは、腕の立つ戦士などではなかったこと。それが来ればすぐにヴィラの存在に気づいて、あわや国際問題。
「御着替えをお持ちいたしました」
「ああ、もう、その辺に置いといてくれれば良いから。あと自分でやるから」
「そうはいきません。姫様の朝のお着換えは家中の者がやることになっております」
「じゃあお願い。ただし早くね、用事あるから」
「畏まりました」
使用人たちは、天井に不法侵入した魔王国の外務大臣が息を潜めているとも知らず、慣れた手つきで嫁入りした魔王を人形にそうするように手早く着替えさせた。いつの間にやら、姫らしいピンクのドレスに袖を通している。頭上からだと花が一輪咲いたように見える。しかし魔王には似合わない、というより受け入れ難い。ヴィラは隣で笑いをこらえているが、この笑いは喜楽からくるものではないようだ。
魔王は一応、王国の姫ということになるが、着替えを終わらせた使用人らは驚くほどあっさりと部屋を後にして彼女を一人きりにした。これ幸いと天井の二人が再びカーペットに降り立つ。
「どうだ、嫌なドレスだろ」
「はい」
「はい、て。本当、スカートが長すぎてこけそうになるんだよ。でもどうだ、まるでおとぎ話のプリンセスみたいだろ」
くるりとした魔王の周囲に、スカートがふんわりと持ち上がった。
「ところでヴィラ。ここにいるのは構わんが、愚痴を言うためにやってきたのか? お前の言葉はごちゃごちゃしていて真意が見えん」
「えっと、なんでしたっけ。そうそう、黄泉さんと魔子さんの様子を探れと」
「プロ―ズェンとリヴァリン、あいつらも王国に来てるのか?」
「ですです。なんですが、どこにいるのか分からないので諦めました」
「諦めちゃったか。ちゃんと探したんだろうな」
「分からいのに探せるわけないじゃないですか」
「うん? ううん、まあ、そうか、そうかな」
魔王はベッドに胡坐をかいた。腕を組んで眉間にしわまで作り、プリンセスとはほど遠い恰好。しかしこちらの方がしっくりとはまる。。
「ちっきしょ、可笑しなことになってるみたいだな」
「“可笑しい”って最初“お菓子い”だと思ってたんですよ、私」
「ジャックやヘンリーあたりが妙なことを考えなければ良いが。それにしても何故、プロ―ズェンとリヴァリンは王国に」
「ホネツグさんも思い出してあげてくださいね?」
「考えていても仕方ない。あいつらのことだ、ろくでもないことをしでかしたか、やらかそうとしているに違いない。今すぐ夫のところへ行くぞ」
「その前に朝ご飯どうします?」
「お前な、真面目な話をしてるんだよ私は。座れ」
ヴィラの目がぬるりと笑って、魔王の瞳を捉える。小さな口から「くふ」と声を漏れて、からかうような顔をした。
「プリンセス、楽しかったですか?」
「ああもう、うるさいなあ。いいから支度をしろ、懐刀だろ」
「ゲスコンビはどうしましょう」
「ほっとけ、あの二人が大それたことなんてするわけないだろ」
部屋を出ようとした魔王は、ふと立ち止まった。
「あいつらのことゲスっていうの、ちょっとツボだからやめてくれ」
妙なところでダムが決壊したらしく、魔王はその場にうずくまってしばらく笑いをこらえていた。
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