二幕:黒後家蜘蛛

 揺れる蒸気機関車の中、一人の青年が静かに、けれど威圧的に怒っていた。


「煙い。まだ煙草を吸ってさえいないのに、ここは煙すぎる。ヘンリー、失礼を承知で言うが、本当にこんなところに君のお師匠様とやらはいらっしゃるのかね?」

「はい、ジェイムズ様。……お水はよろしかったですか?」

「大丈夫だ。まだ、喫煙していない」


 ジェイムズと呼ばれた青年は、列車の窓越しにイギリスの風景を見つめる。その冷たい様な眼差しで、しかし脳では何かを計算するかの様に、観察していた。

 ヘンリーと呼ばれた青年もまた、自分の隣に座った別の少年に視線を向ける。


「おや、トーマス様。こんなところでも暗号解読ですか。素晴らしい熱心ぶりです」


 ヘンリーの穏やかな声に、トーマスと呼ばれたかけた少年は、しかめっ面ながらも口早々と言葉を繰り出す。


「ヘンリー、君も暗号の良さに気付いたかい? いやー、やっぱ暗号はいいよね。実にいい。パズル的要素を持ちながら、手紙としても機能しつつ、種類が豊富で実に脳を活性化させるよ」


 トーマスは何度も眼鏡をくいっ持ち上げ、そのままペラペラと話を続ける。


「ふふふふふ、イマニュエルの友人のアイザック・アシモフともまた暗号について語り合いたいものだ。ほら、彼はロボット三原則を作り出しただろ? ということは、ということはだ! 彼はロボットにも独自の暗号を使用しているかもしれない! うぅうううぅううう……ぜひ、ぜひぜひぜひッ! 解読したいものだぁああ!」

「トーマス・トランブル、落ち着け」


 ジェイムズは向かい側にいるトーマスの頭を軽く叩く。すると、トーマスはむくれた顔になり、小刻みに体を震わせた。


「なんだいなんだい! この低俗小説愛好家の体貧弱なくせして無理に煙草を吸う喫煙家め! そんなんだから、君の奥方がヒステリックになるってもんさ」

「妻の話はやめてくれ。頭痛がする……」


 ジェイムズは思わず妻の顔を脳裏に浮かべ、余計に顔を顰める。どうやら、彼は自分の妻の事が苦手の様だ。いや、一人の女性として愛して結婚はしている。だが、どうも難儀な性格であり、家にいると彼の胃は痛むばかり。

 外出をすると「他の女に会っていないでしょうね?」と疑われ、数時間に及ぶ小言をつらつらと述べられる。お陰で彼は、妻のいない間だけ休まる様になってしまった。


「あぁ、くそ。煙草が吸いたい……。ニューヨークに帰って煙草が吸いたい」

「ジェームズ様、申し訳ありません。もうすぐ目的地に着きますのでどうか」

「分かってる。大丈夫だ、冷静になる。本当に何から何まですまないな、ヘンリー」


 ため息を零しつつ、苦痛の表情を浮かべるジェームズにヘンリーは咄嗟にガムを差し出す。


「ヘンリー、これは?」

「チューイングガムでございます。喫煙家の間で、禁煙をする時によく噛まれると以前お客様から教えてもらいました。さ、どうぞジェームズ様」


 ジェームズはヘンリーに差し出されたガムを一つだけ貰い、口の中に放り込む。子供向けの甘いものではなく、爽やかなミントの味に彼は癒された。

 一方のトーマスは手持ちの暗号を解読し終えて暇なのか、妙にそわそわし始めている。彼の様子に気付いたヘンリーは穏やかに、けれどしっかり窘める様に告げた。


「トーマス様、ロンドンは逃げないので落ち着いてください」

「暇だよ、暇、ひまひま、暇。本当に、君のお師匠様……?」


 トーマスの言葉にヘンリーは簡潔に、けれど明確で的確に答える。


「はい、もちろんでございます。私めが崇拝する大いなるお方、モリアーティ教授はこのロンドンにいらっしゃいます」

「うーん、まぁヘンリーは僕ら黒後家蜘蛛ブラック・ウィドワーズで今世紀最大の正直者とさえ言われてるからね。疑って悪かったよ」

「いえ、大丈夫です。何より私自身が一番教授に会いたいのですから」


 ヘンリーは嬉しそうに、けれど丁寧に一冊の本を握りしめる。その本には小惑星の力学というタイトルが書かれていた。

 


 

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