閑話 生きている

 ロンドンの裏路地にて、彼女もとい咎咬鮮華(トガガミ・センゲ)は生きていた。

 生きて――白い服と何やら格闘していた。


「ねぇ、この袖さぁ……千切れないんだけど?」

「千切らないでください。センゲ様」


 彼女の傍で窘める青年、黒い髪に褐色の肌金色の眼と黒猫を思わせる彼はセンゲの両手を優しくつかむ。


「私が折角センゲ様に似合いそうな服をって選んだんです」

「うん、袖がめっちゃ邪魔だけどね?」

「そのひらひらした袖が似合うから選んだのです」

「だからってなんでボクの力で破けないのさ。腹立つから脱いでいい?」

「だ・め・で・す。それじゃあ痴女じゃないですか」


 言い争いながらも、青年は心配そうに彼女を見つめる。それもその筈、彼女は本来であればイかれた科学者の女アリステラによって殺され、トバリの腕の中で帰らぬ人となるはずだった。

 しかし、奇跡か偶然か。或いは唯の運命の歯車による論理ロジックエラーかはたまた――錬金術師パラケルススの最期の反逆か。

 赫の命晶エクシールの一欠が彼女の心臓を蘇生させた。それはトバリ達が去って数分の事、彼女は息を吹き返す。

 最初は何が起きたのか理解ができなかった。確かに自分は死んだ、心臓が止まった感覚も、体温が徐々に下がるあの寒気も、死に落ちるあの恐怖さえも。全てこの身が感じ取ったものだというのに。


「死にぞこなったかな……」

「勝手に死なれては困ります。センゲ様」


 唯の独り言だと思っていた言葉に返事が返ってくる。彼女の傍には一人の青年、シェス・メトリーが冷静な顔で佇んでいた。


「……シェス?」

「お久しぶりでございます、センゲ様。五年と六カ月十二時間ぶりかと」

「大きくなったねぇ。こーんなに小さかったのに」


 センゲかケラケラと笑いながら右手で高さを示すが、大体一メートルあるかないか。彼女の様子を見て、シェスは困った様な悲しむような表情で静かに彼女を抱きかかえる。

 

「なんでここに来たのさ」


 彼女の問いにシェスは答えない。五年以上彼が離れていたのも、元とは言えば勝手に居なくなったセンゲを彼が世界中探して追いかけていたからだ。だからこそ、此処に自分が来た理由なんて一つしかない。それに、彼女もその事は大よそ理解しているはずだ。だからこそ言わない言わなくてもいい


「貴女が生きてて良かった」

「シェスは相変わらず変わり者だね。ボクが生きてて良いなんて」

「誰かの殺人鬼キラーは誰かの救世主メシアでございます」


 シェスの答えに彼女はため息を零す。本来のセンゲならば高笑いがてら切り捨てていただろう。だが、今の彼女はやけに落ち着いていた。燃え尽きたとも言っていい。

 それもその筈、つい先ほどのトバリとの戦いで彼女の中で決着はついたのだ。今更誰かに斬りかかる動機も、理由も激情も消え失せた。

 この事はシェスも理解している。ただ、納得はしていない。かつて、死にかけた少年兵であった自分を気まぐれで助けてくれた彼女が。自分とは違う男の腕で眠りかけたのだ。自分とは違う男に殺されて、それを良しとしたのだ。

 母の様に、姉の様に、そして一人の女性として恋慕の情を抱いていた彼女が。

 故に、彼女に救われた者として、彼女と共に過ごした者として、何よりも彼女を未だ愛し続けている一人の男として――許せない。


「私は今でもあなたを愛し、慕い申しておりますよ」

「それ聞いたの何度目だろうねぇ」


 くつくつと笑う彼女を横目に、シェスは彼女を抱きかかえたままその場から急いで離れる。その様子はまるで彼女を攫うように、彼女が死んだという事実を消してしまう様に。走って、風を浴びて、淡々と冷静に何処かへと目指して。


「何処に行くの?」

「貴女を安全に治療できるところへ」

「分かった、ラブホテルだ」


 センゲが冷やかしで言った言葉を聞いた瞬間、シェスは静かな雄の顔で彼女の顔をジロリと見つめて一言。


「別に、此処で貴女を抱いても良いですが?」


 想定外の一言に流石のセンゲも顔を赤くする。まさか、数年前まで自分の後をひよこの様についてきたあの少年が。さらりとこんな返しをするだなんて。

 何より、彼は意地っ張りでど直球である。やると言ったらやる。昔からそうだった。今まで殺戮に明け暮れていた女性は、一瞬で少女の様に慌てながら咄嗟に言葉を返す。


「そ、そういうのは……無しで」

「チッ。既成事実が成立しないじゃないですか」

「今舌打ちした? ねぇ今舌打ちしたよね? というかソレ同意してたらボク危険だったんじゃないの!?」


 慌てる彼女の顔をやや意地悪気に見つめながら、シェスは穏やかな口調でさらりと返す。


「まぁいいです。そのうち抱いて処女貰うついでにゴールインです」

「それって所謂出来ちゃった婚ってやつじゃないの?」

「貴女は私の嫁です。妻です。女です。これは揺るがぬ確定事項です。寄る男は全員死ねば良いんです。というか殺す」


 彼は確かにセンゲを愛している。しかしその愛は重いというよりも、他方面に向けての攻撃的という過激なものだった。無論、彼を気まぐれで拾った彼女は彼がこのように変化するものだと思いすらしなかった。いや、正しくはそんなことに興味も無いんで考えてなかった……というのに近いだろう。


 おかげで、彼の治療は妙にねちっこかったり、食事の面倒も一々甲斐甲斐しく見てきたり、傷が沁みるからなどという建前で浴場にすら一緒に入ろうとしてきた。

 良く言えば積極的、悪く言うなら押しが強すぎる。今のところ、夜這いなどはされてはいないセンゲだが、一言間違えれば襲ってくる可能性は非常に高い。


 時間は戻って現在。渋々白いロリータ調の服を着るセンゲ。無論、ひらひらで邪魔な袖を破ろうとしたのだが……何故か破けない。シェス曰く、特殊な加工がしてあるとのこと。それでも何度か破ろうとしたが、流石のシェスも堪忍袋の緒が切れたのだろう。


「次破こうとしたら、抱きますんで」

「えっ……」


 センゲは蘇生した、しかしその反動のせいか戦闘能力の一切を失っている。つまり、現状の彼女は一般女性と何ら変わりはしない。もちろん、この事はシェスにとっても腹立たしい事でもある。

 故に二人――否、シェスは日々彼女の戦闘能力が戻る方法を探し続けている。だが、彼とて男だ。チャンスがあれば何時だって襲う。狼だもの。

 とはいえど、現状彼女の同意が無ければ襲う気は一切ない。故に、こういうお灸を据えるとき程度の脅し文句として使うだけである。

 一方、センゲの方は身を守る力が無いという事もあってか、以前に比べてやや大人しくなっている。とはいえど、流石に性格までは変わりはしないが。

 センゲは少しむくれて、袖を破ろうとする行為を止めた。


 彼らと出会うまで、あと数日。

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