第31話 激震の魔女

「アウローラは何をやっている。まさか情にほだされたのではないだろうな」


 テオは竜の羽根で羽ばたきながら、苦々しげに言った。

 ライールは、テオの胸に光るものを見て、我が目を疑った。

 鱗で半分覆われたテオの胸の中央に、戴冠石が埋め込まれている。赤い輝きは、今まさにその力が発揮されていることを示している。


「なぜ貴方が――それを使えるのです!」

「ああ、まだいたのか、ライール。とっくに逃げ出しているものと思っていたが。何、簡単なこと。我が魔術は幻像。戴冠石に幻像を感じさせ、私をアウローラだと錯覚させているのだ」

「馬鹿な、人の目を誤魔化せても、魔術自体を幻惑するなんて――」

「出来るのだよ、ライール。人は外界をどのように認識している? 知っての通り、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五感、そして第六感たる直観的意識。そして我々魔術師であれば、魔力を感覚する。所詮人が世界を認識している諸源などそんなものだ。そして魔術工芸品アルティファクトゥムも、人間が作ったものである以上、人間が感じる以上の事象で人間を判別することは出来ない」

「そんな――」


 それでは、アウローラを奪還しただけでは儀式魔術は止まらない。テオを打倒し、戴冠石をえぐり取るという、更に難易度の高いことを実行しなければならない。


「まぁ見ていたまえ。君達にとっても住みよい世界となるだろう」

「テオ、貴方はなぜ――わざわざロンドンでこんな事をするのです。誰もいない無人の荒野で儀式を行えば良いものを」

「儀式のためには大量の魔力が必要だった。世俗の者達はともかく、昏睡している魔術師達は、汚染でそうなっているだけではない。妖精達に魔力を吸われた事の方が原因としては大きい。そして魔術師から魔力を集めるなら、二千の魔術師がひしめくこのロンドン以外では有り得ない。魔力を運んでいる間に、妖精達が汚染で死んだら元も子もないのでな」

「実力者から被害にあったのは、より多くの魔力を効率的に集めるためだったのですか」

「流石ライール、飲み込みが早い。……ふむ? どうやら本格的にアウローラは寝返ったようだな。残念ではあるが、問題はない」


 テオが爬虫類じみた叫び声をあげたかと思うと、穴の奥から竜の群れがやってきて、テオの周りに布陣した。まるでアウローラが指揮を執ったかのように。


「妖精の指揮を取っていたのは――アウローラではなかったのですか」

「勿論そうだとも。私に彼女のような超常の才覚ギフトはないし、そんな魔術も使えない。だが彼等は別だ。彼等だけは」


 テオは懐かしそうな目で竜の群れを見る。


「彼等と私は同郷でね。少しなら言葉が通じる。そもそも私には協力的だし、今は幻像で、魔術師達が彼等に敵意をむき出しにしているように見せている。指揮など不要だ。放っておけば魔術師は全滅する」


 状況は最悪であった。テオ自身が竜と同等の力を持っているばかりか、その竜が大挙して彼に味方している。戴冠石も、テオの意のままに操れる。


「エドガー先生、ライール先輩!」


 エルニカの叫び声が頭上からライールの耳に届く。エルニカは穴の更に上空まで登り、サンダルの力を解除して、落下する勢いに任せて突っ込んできた。その勢いのまま、エドガーとライールの体を抱きかかえるようにしてその場を離れる。アウローラがその後ろに続く。


「エルニカ……この儀式魔術、もう止められないかもしれませんよ……」

「大丈夫です、先輩。アウローラが戻ってきたんですから」





 四人が転げ落ちるようにロンドン塔に到着すると、すぐにアウローラが妖精達に指示を出して大人しくさせた。魔術師達は儀式魔術の妨害に成功したと早合点して、すぐに期待を裏切られた。状況をライールから説明されて、青ざめる。


「逃げた方がいいんじゃねぇか。何もみすみす全員で心中するこたねぇ、セントポール大聖堂の連中をうまいこと言いくるめて、全員一斉にロンドンを脱出しようぜ」


 恐ろしく切り替えの早いヘルバルトの発言に、それは無理だとエインが冷静に返す。


英国イングランドは今、スペインと開戦するかどうかというきな臭い時期だ。王宮からしてみれば、まさか首都を空にして逃げ出すなんて選択肢は選べないだろ。スペインのスパイも大分入り込んでいるからな。そんな大きな弱みを見せれば、噂の無敵艦隊が襲いかかってきて、テムズ川まで攻め込まれて、ロンドンはどの道滅ぼされる」

「じゃあ世俗を放っておいて、我々だけでも」


 真理派魔術師の一人が言うが、エインはそれも否定した。


「学長が研究成果を残して逃げることを許すわけがないだろう。神秘の独占という魔術師連合ウニオマグスの戒律に反する。逃散しようものなら、連合から派遣された戒律派に地獄の底まで追い回されるぜ。それに、最大の庇護者の王宮を見捨てて逃げて、今後まともな研究が継続できるかよ。そうなった時、俺達実利学派エクスセクティオはともかく、あんたら隠秘学派オカルトゥスはどうやって生計を立てるんだ?」

「じゃあどうしろというのだ、本当にここで全員心中する気か!」

「私に策がある」


 ざわつく魔術師達が、アウローラの声で一気に静まりかえる。

 汚染が進んだ化け物じみた姿に、怯む者もいた。


「テオに荷担しておいて、今更と思われるかも知れないが……。この事態は止められる。皆、お願いだ。私の指示通りに動いてくれぬか」


 魔女に対して嫌悪感の強い隠秘学派オカルトゥス魔術師達が、怒鳴り声をあげてアウローラを非難しはじめる。今更どの口がとか、こうなったのもお前がと罵詈雑言が浴びせかけられる。


「うるさいねぇ、ちょっと静かにしてくれないか!」


 カマラの紫電が迸る。その轟音に驚いて、魔術師達は口を噤んだ。


「喚き立てて事件が解決するって奴がいるなら続けな! アウローラ以外に名案があるって言う奴がいるなら代わりな! さもなきゃ全員天に召されてお仕舞いさ! ……いないのかい」


 真理派の誰も口を開かないのを見て、カマラは、はん、と鼻を鳴らして腕を組んだ。


実利学派エクスセクティオは協力するぜ。取引先世俗の客がいなくなっちまったら、研究が成りたたねぇ。外交派だって貴族出身者がほとんどだ、王室を裏切って尻尾は巻けねぇ」


 実利学派エクスセクティオを代表して、ヘルバルトが言った。工芸派の全員がそれに賛同するのを見て、隠秘学派オカルトゥスも渋々従うことに決めた。


「では皆、よろしく頼む。大丈夫だ、諦めなければ活路はある」


 アウローラの顔には、余裕の笑みと自信に満ちあふれた瞳が戻っていた。




 

 夜が来て、明けた。十月三十一日。儀式の完成する刻限まで、あと十数時間。

 空は薄紫色の朝焼けで、日はほんの少し頭を出したところである。

 テオは上空で一人、ほくそ笑む。

 最早妖精郷の落下による境界域の誕生を止められる者は誰もいない。故郷を失ったテオに、ついに故郷が生まれるのである。テオの心はざわざわと落ち着かなかった。草木も枯れる季節だったが、春に花が咲くのを心待ちにするような気分だった。

 ふと、地上が騒がしいような気がして、視線を落とす。セントポール大聖堂では三日越しの祭りが最高潮であり、老若男女を問わず大騒ぎだった。世俗の世界としてのロンドンの最後の日となるのだから、存分に楽しめばよいと、彼は微笑ましく見守った。

 しかし騒がしいのはそこだけではない。ロンドン塔の方角からも、地鳴りのような音が聞こえてくる。

 空を飛んでこちらに向かってくる軍勢がいる。

 アウローラ率いる、妖精の大軍勢である。

 空を飛ぶ妖精達の羽撃はばたきの音が轟いているのだ。中には霹靂の魔女、カマラの姿もあり、彼女が呼び出した聖獣も、アウローラの指揮下にあるようだった。


「やあ、アウローラ。エルニカに説得されたようだな。だが良いのか、このままではコルネリアは確実に死ぬのだぞ」

「テオ、私は婆様を死なせぬために、こちら側に戻ってきたのだ」


 テオには、彼女の言わんとする所が分からなかった。エルニカがどんな手管で彼女を籠絡したのかも。しかし、アウローラの目の輝きを見て、彼女の意志はもう覆らないのだと悟った。


「言っても仕方ないだろうが、念のため言っておこう。選定の戴冠石リア・ファルを返して、儀式を止めるのだ」

「軍勢を従えてそれを言うのは交渉ではなく脅しだよ。とは言え、ただの妖精が、竜に勝てると思っているのかね?」

「普通ならば無理だろう」


 アウローラはあっさりと認めた。そして、


「だがここにはヴァルプルギスの魔女が二人もいる」

「なるほど。だが心優しいヴァルプルギスの魔女が、妖精達を殺し合わせると言うのか? それは君たちの主義に反するのではないかね」


 赤い髪を風になびかせて、襤褸ぼろの衣服をはためかせたアウローラは、腕組みをしてふんぞり返った。フィーの真似である。


「我が名は『憧憬の魔女見習い』改め『激震の魔女』アウローラ・ナーディア・ヴァルプルガ! 我が率いるは誰も殺さぬ無敵の軍勢! 我らの理想は未だ憧憬にすぎぬが、我が軍勢は憧憬に力を与え、大地を激震させる進軍を以て道を切り拓くものぞ!」


 堂々としたアウローラの口上。昨日までとは表情が全く違う。

 これはどうあっても引き下がらないと感じたテオは、周囲に百を超える竜の群れを布陣した。

 呼応するように、アウローラは甲冑に包まれた左腕を真っ直ぐ上にのばし、


「者共、かかれ!」


 火蓋を切って落とすように、振り下ろした。

 あちこちで妖精と竜とが激突する。

 当初、テオは竜達が妖精達を圧倒すると考えていたが、そうはならなかった。

 竜達はまるで酔っぱらったかのようにふらふら飛び回り、狙いが定まらない様子である。そうするうちに妖精達に取り囲まれ、カマラの創造魔術による、魔力によって綯われた縄に捕縛されていく。

 怪訝に思いよく観察すると、カマラの呼び出した聖獣のうち、半人半馬の者と半人半鳥の者が、異国情緒あふれる歌を歌い、琴鼓を奏でている。それを聞いていると、何やら心地よい気分になり、意識が朦朧としていくのを感じた。


「天上の調べってやつさね。人が死ぬ直前、極楽浄土からその不安を和らげるために現れる楽隊が奏でる音楽さ。これで夢見心地にならない生き物なんかいないよ」


 テオはすぐさま幻像魔術イマギナムで竜達の耳に別の音を発生させる。


「おのれ、ケンタウロスかと思ったが、パーンの類だったか。だが術者を叩けば――!」


 ふらふら頼りなげに飛ぶ竜達をかき分け、テオがカマラに襲いかかる――が、妖精の軍勢が目の前に現れ、それを阻む。アウローラが妖精を率いて、カマラとの間に割って入ったのだ。


「そなたの相手は私だ、テオ」

「おのれ、羽虫風情が!」

「如何に竜が強いと言っても、骨抜きにしてしまえば恐くはない。この状況で指揮統制されているならば、羽虫と言えど獣を狩るぞ」


 テオは即座に後退し、アウローラから距離をとる。

 すると、視界の端に妙なものが見えた。

 柄に極めて長い布を括り付けたナイフのようなものが、地上から上空に向かって昇ってくる。

 一つではない。十、百、それ以上――

 布は空の穴を囲むようにぐるりと張り巡らされ、はじめは円筒形を為していたその形が次第に変形し――上下がすぼまり紡錘形になり、さらに中ほどが何ヶ所か折れ曲がり、最終的には正八面体になった。

 正八面体を描く縦に延びた糸の動きが止まると、立体の最も下の位置にある頂点の辺りから、今度は横方向に複雑な動きをするナイフが現れた。


「なんだこれは――布を織っている――?」

「エルニカの魔術だ」


 テオを追い立てながら、アウローラはにやりと笑った。


「所詮私たちは時間稼ぎに過ぎぬ。そなたはとんでもない男の後見人だったのだぞ、気付かなかったのか?」





 地上ではエルニカが、彼の生涯で一番規模の大きい魔術を行っているところだった。

 シルヴィーが急速に育てた麻の茎を、工芸派魔術師達が、エイン特製の薬品に漬け込み、繊維だけにする。これをまたエイン特製の染液に漬け込むと、色鮮やかな麻糸に早変わりする。


「こんなに便利な薬品があるなら、麻糸を作って売ればかなりの収益になりそうですね」


 シルヴィーが驚いた顔でそう呟くと、エインは首を振って手のひらを上に向けた。


「と思うだろ。ところが植物の組織が痛み易くてな、一週間でボロボロになる。染料も、発色は良いが数日で色褪せる。全く役に立たない薬品だと思っていたが、捨てずに取っておいてよかったよ。君こそこんなに植物を早く成長させられるなら、豪農にでもなれるんじゃないか」

「いえ、これをやると土地が一気に痩せてしまうので……休耕しなければいけません」


 真珠の家の子ども達はせっせと織物をほどいて糸に戻し、それを染めあがったばかりの即席の糸に編み込む。糸は簡単に寄り合わせ、何ヶ所か横糸を通して、極めて簡単な布――横糸が少ないのですぐにばらける――を作っている。それをエルニカのナイフの柄に括りつけ、エルニカが操作して空に跳ばす。

 その数は千を下らない。

 エルニカはその布を使って、コルネリアの残した祭器――人の作りし神の庭ティルナノーグ発動のための織物を、拡大して再現しているところだった。

 当然、これほど大規模な魔術を、エルニカの独力では行えない。以前図像派がヘルメス院の地下道に描いた、テオを探すための知覚魔法陣を組み替え、風の知覚魔術のための魔法陣に変えている。占術派が十数人がかりで魔法陣を起動させ、エルニカがそれを踏み台に拡散する意識ディフュージョンを使うことで、ロンドン上空の様子をまさしく手に取るように知覚しているのだ。



 アウローラの作戦はこうである。

 戴冠石が空けることが出来る世界の穴は、最大で同時に七つだという。現在、竜の妖精郷――テオの故郷――は、七番目の穴の向こうにある。もしエルニカが人の作りし神の庭ティルナノーグで穴の周囲を人造妖精郷で囲んでしまえば、世俗へ影響を及ぼすために、テオは人造妖精郷に穴を空ける必要がある。そうなると、まず一番奥の妖精郷へ続く穴を閉じなければならない。これによって、ひとまず竜を無尽蔵に呼び出される事はなくなる。

 しかし、儀式魔術による境界域の発生を完全に止めるためには、七つの穴を全て塞ぐ必要がある。そこでエルニカの出番である。コルネリアの祭器ファクティキウスを同時に複数複製し、戴冠石の力が及ばないように、八つの妖精郷を同時に、複層的に発生させる。これでテオは世俗の世界に手出しは出来なくなり、これを維持して日付が変われば、少なくとも向こう一年は儀式魔術を発動させることが出来なくなる。

 だが魔術には効果範囲というものがあるため、人の作りし神の庭ティルナノーグの効果を確実に発揮させるためには、なるべく穴の近くで発動させなければならない。それはテオ側も同じ事で、戴冠石を体に埋め込んでいる以上、儀式の続行には穴から遠く離れる事はできない。つまり、テオを穴から引き離すことはできないし、こちらの作戦は間違いなくテオの妨害に遭う。

 それならば、いっそテオを穴ごと覆う袋のようなものを作ればよいと、アウローラは考えた。当然その袋の中ではテオが妨害を行うだろうが、アウローラとカマラがその妨害を防ぐために、袋の中に入って大立ち回りをする。そのためには、船の帆を何枚もつなぎ合わせたような、巨大な面積が必要だ――

 そう言う訳で、エルニカは一世一代の大魔術マグナマギカを敢行する羽目になった。

 とは言え、コルネリアの祭器ファクティキウスは極めて複雑かつ精緻であり、それを支えるにはコルネリアの工房で作られた色糸が必要だった。そしてどう考えても、それだけの量の色糸を今から作るのは、子ども達が総出になっても不可能である。そこで考えを煮詰まらせていると、今までどこに隠れていたのか学長が現れ、助言をした。


「魔術において重要なのは類感、つまり見立てだ。火属性の魔術であれば、赤い祭器ファクティキウスを使うという事になる。コルネリアの祭器ファクティキウスが複雑なのは、その見立てに必要な情報が多いからだ。そこで色だけでなく、染液の原料までもが重要になってくる。しかしその大きさの布を、全て特別な色糸で作る必要はない。色糸は特定の図形を描いていればよいだけで、その間に隙間があってはならないという事はない。なら――水増しすればよい」


 そこでシルヴィーとエインの出番となったわけである。

 最初は、落日の家サンセットの子ども達は遠く(例えばアイルランド)に逃がし、魔術師だけでこの作戦を決行するはずだったが、工房の色糸の在庫だけではいかにも足りないことがわかり、既に製品として仕上がった布をほどくか、場合によってはロンドン中に出回った品物を回収(平たく言えば盗み)しなければならないという事になった。

 糸をほどく場合、勿論作った本人達が作業するのが最も早いし、何より工房の多様な糸の色合いの違いを瞬時に見抜ける者は、魔術師達の中にはいなかった。

 エルニカは子ども達を巻き込みたくはなかった。しかし、子ども達の力を借りねば、コルネリアの祭器ファクティキウスが人々を苦しめることになる――それも何とか避けたかった。 

 エルニカは、かなり悩んだ。多分、人生の中で、一番悩んだ。

 目的のために人を犠牲にしようなどという考えは、もう彼の中にはなかった。 

 しかし、悩んでいる間に、エドガーがさっさと子ども達に事情を打ち明けてしまった。


「決断するのは君だけの権利ではないよ」


 と、エドガーは言った。

 子ども達は自分たちから進んで手伝いを申し出た。危険すぎるという事を説明したが、エリオ曰わく、


「だって、これってぶっちゃけ、アウローラ姉様が、婆様いなくなって寂しすぎてヤバい事やらかしちゃったってヤツだろ。ここでロンドンがカイメツしたら、もうしわけなくなって、またどっかいっちまうよ。俺だってジブンのシッパイで落日の家サンセットがケイエイハタンしたら夜逃げしちまいそうだもん。俺、姉様のためならがんばるよ」


 他の子ども達も同じ意見だった。コルネリアの祭器ファクティキウスが悪用されるのも、アウローラがこれ以上傷付くのも、彼等は断固拒否した。

 エルニカは随分頑張って止めたが、最終的には、彼等もコルネリアの魂を受け継いでいるのだなと思い直し、手伝ってもらうことにした。

 エルニカは、これっきりもう二度と使わないという条件で、錠前破りの技を子ども達に教えた。大聖堂の前夜祭で、ほとんど人気のないロンドンの家々に忍び込み、落日の家サンセットの製品をかき集めてくる。


「まさか本物の魔法使いブラックアーティスト錠前破りブラックアートの手ほどきなんかすることになるとはね……」


 エルニカは、このときばかりは裏街道を歩いてきた自分の人生に感謝した。

 こう言うわけで、子ども達は必死に布を解いて糸に戻しているのである。

 皆の働きで、拡大した祭器ファクティキウスを八枚作るには十分な糸と布が集まりそうだった。後はエルニカ次第である。


「こんな不格好な魔術は見た事がない。大魔術マグナマギカとは呼べない小魔術の、継ぎ接ぎパッチワークだ」


 と学長は呆れていたが、


「これも一つの儀式魔術と言えるのではないですか」


 とライールは微笑んだ。


(パッチワークか。僕にはお似合いだな)


 染織と工芸の腕を磨いてきたエルニカには、学長の小言は小気味よくさえあった。

 エルニカの集中力は、かつてないほど高まっている。だが、負担も極めて大きかった。

 いかに百人力ハンドレット・ハンドと呼ばれるほど同時に精巧な作業が出来るとは言っても、織機八台分と同等以上の働きを、人間が魔術で再現しているのだ。規模が大きい分、更に難しいし、何よりコルネリアの残した図案の精巧さが尋常ではなかった。

 膨大な魔力が要るわけでも、高度な魔術の知識が必要なわけでもない。だが、生来の手先の器用さと、工芸に関しては誰にも引けを取らない彼の感性センスと、コルネリアから授かった奥義の知識を持つエルニカにしかできない技だった。

 ――心臓が早鐘を打つ。

 手足の指先が痺れて感覚がない。

 代わりに、自分の皮膚が空を覆い尽くしたような感覚が怖気をもたらす。

 体を動かしているわけでもないのに、息が切れる。

 晩秋だというのに、流れる汗は滝のよう。

 視界が曇ってきて、ならばいっそと目は閉じた。

 自分を心配する子ども達の声も、遙か彼方からのもののように聞こえる。

 ただひたすら、師の技をなぞった。

 ただ感覚し、それを再現する。

 ああ、ここの折り返しは随分悩んだろうな。

 この色遣いは流石に婆さんの年季のなせる技だ。

 これはエリオが集めた染料。

 これはアリアが紡いだ糸。

 これはチェルシーが染めた糸――。

 次第にエルニカは、自分自身が織機や織物になったように感じていた。

 ほとんど意識はない。

 ただただ、身に染み着いた技だけが彼を動かす。

 コルネリアに刻まれた技だけが。 

 そして――エルニカは、自分の身を切られたような痛みを感じた。

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