第26話 妖精の取り換え仔《2》
二人は、ロンドン中の
市内の様子が元に戻るにつれ、安心し始めたのか、しばらくすると外を出歩く市民も増えていった。しかしそれが、逆効果となった。昏倒する市民は増えたのである。
しかし――その妖精郷の数が思いの外少ないと、ライールは言った。
「いや、十分多いじゃないですか。確認しただけでも八つですよ。前回は本物の妖精郷なんかほとんどありませんでしたし。現に被害がすごい」
「確かに、過去に類を見ないほどですが――世俗に迷い込んだ妖精の数を考えると、もっと妖精郷が出現していないとおかしい。妖精にとってもこちらの空気が毒であるなら、長く世俗には留まれない。すぐに妖精郷に帰るか、数日で世俗の空気に汚染されて死んでしまうはずです」
つまり、妖精郷に帰ったり死んでしまったりしてもこれほど実害を与えられるほど妖精の数が多いなら、妖精郷自体の数がもっと多いはずだとライールは言う。
「
ライールの言う通り、妖精郷は後から後から見つかった。まさしく夢想郷は真の妖精郷を隠すように、妖精郷のすぐ近くで発生するように仕掛けられていた。確かに、夢想郷が消え去れば、同じ場所をしつこく調査するような魔術師はいなかった。隠された妖精郷はあまりにも多く、最早手に負えないと、二人はこの結果をヘルメス院に報告した。
学院側では事態を重く受け止め、大規模な調査団を編成して妖精郷に送り込んだ。
まず、原因の究明よりも妖精郷との出入り口を閉じることが求められた。しかし、コルネリアのように異界創造魔術に通じていれば別として、異界探索の心得のある魔術師は少ない。異界の発生を食い止められる魔術師となると皆無であり、調査団は足踏みをしている状態だった。
そればかりか、調査に赴いた者のほとんどが汚染の症状で体調を崩し、よくて昏睡状態、悪いと
世俗では
一方でエルニカは、この状況をどうにかするためには対処療法でなく、犯人を見つけるべきだと一貫して考えていた。
テオは――工房を留守にしていた。エルニカは、テオの工房の徒弟に、彼の近況を聞いてみた。
「最近は妖精郷の調査といって、工房を空けることが多いですね。ここ数ヶ月はほとんど帰ってきていませんよ」
「ふうん、そうかい。実は幻像魔術についてテオドール師に聞きたいことがあるんだ。恥ずかしながら、僕はテオドール師に教えを受けていながら、幻像魔術については全く知らなくてね。適性がないから教えてもらっていないんだろうけれど……君が分かる範囲で教えてくれないかい」
「先生は徒弟の誰にも幻像魔術の手解きをしないんです。これは邪道だ、君達は正道を学ぶべきだと」
「邪道?」
「これは単に、世界を欺くだけで、真に世界を変えているわけではない――と」
「世界を――欺く。そう言えば以前そんな事を聞いたな」
「だからか、工房に誰も、そう、徒弟である我々ですら入れようとしませんしね」
「え? ここが工房じゃないのかい?」
「いいえ、工房はここに至る地下通路のどこかに、幻像魔術で隠蔽してあるようです」
「へぇ……まぁ、魔術師の奥義に触れることは刃傷沙汰になりかねないと言うしね。ありがとう、あとは自分で探してみるよ」
エルニカは――テオを怪しんだ。
エルニカにならともかく、徒弟にまで自分の技術をひた隠しにするとはどういう事か。
一つ怪しくなると他も怪しく見えるのが人情である。
明らかに説得力のない弁護でエルニカやアウローラをかばったのは何故だろう。エルニカが光る苔の妖精郷で救援を要請したとき、コルネリアとアウローラを伴って来たのは都合がよすぎなかったか。コルネリアの
エルニカは、これまでのテオの行動全てを疑わしく感じ始めた。
そこで――エルニカはテオの工房に忍び込むことに決めた。
かつて
エルニカは、魔術には魔術師の生き様が現れるとコルネリアが言っていた事を思い出し、自嘲する。彼の魔術は実に犯罪向きだった。地下通路に巧妙に隠された工房を探り当て、錠前を破り、工房に忍び入る。
テオの本来の工房は、徒弟が出入りしている仮のものとはかなり印象が異なり、雑然としていた。走り書きや書きかけの研究書簡、様々な実物資料があたりに散乱している。一応足の踏み場はあり、テオが普段どこを中心に研究しているかは、逆によく分かった。数少ない、物がよけられているところに違いなかった。
そして――エルニカはあっさりとテオが犯人だという証拠を見つけてしまった。工房自体を隠蔽しているからか、工房の中はかなり無防備で、何も隠してなどいなかったのだ。
エルニカが見つけたのはあの正八面体の立体物である。素材は水晶のような鉱物や、木のような植物、生き物の骨のような質感のものなど様々であったが、いずれもこの世ならざるものの加工品であった。
テオが何かとエルニカの世話を焼いてくれた事については、元々下心が全くないとは思っていないので、エルニカはそれほど驚かなかった。むしろ彼が犯人だと明らかになれば、コルネリアやアウローラの嫌疑が晴れると喜んだ。
(これで証拠を戒律派の所に持ち込めば、後は戒律派がうまくやるさ。そういえば報奨金の話はまだ生きてるのかな? 証拠を掴んだのは僕なんだから、幾らかお零れに――)
他に証拠になるものがないか調べていたエルニカは、辺りが焦げくさい事に気付いた。振り返ると、木製の棚が燃えている。慌てて火を消そうとするが、水気はどこにもない。
『エルニカ、残念だ――気付いてしまったのが君だとは』
「テオ! どこにいるんです!」
声はすれども、姿はどこにも見えない。
『よく調べたようだが、
テオは、
『私の仕掛けを大分壊してくれたようだが、もう遅い。事は既に成し遂げられる寸前だ。戒律派に訴え出ようにも、彼等も相当数汚染されて昏睡状態にあるのではないかな』
火の手はどんどん回り、工房中が炎に包まれていく。
『もっとも、君もここで燃えて消える。私を阻むものは何もなくなる』
「テオ、何のためにこんな事をしたんだ、これじゃあ貴方の汚染だってもっと酷くなる!」
『それがそうでもない』
姿は見えないが、テオが笑っているのが分かった、
『君は
「そんなの――
『適度に汚染されれば、境界域に適応できる』
それはつまり、ロンドン近郊の全ての人間が妖精郷の空気に汚染されるということだ。
「うまくいかなかったら――
『既に実験済みだ。小規模に発生させた境界域に、私とアウローラは既に適応できている。妖精郷との通路を開き続ければそれが可能なのだ』
「アウローラだって?」
『ここまで辿りついておきながら、そこに気付かなかったのかね? 私とて、戴冠石の力がなければ、これほど大規模な儀式魔術は行使出来なかっただろう』
「そんな馬鹿な、彼女がこんな企みに荷担するわけがない」
『ところが荷担しているのだ。何せ彼女は私の妖精の
「何だって?」
『彼女が
「嘘をつくなよ、あんたとアウローラは親子ほども年が離れて――」
そこまで言って、エルニカははたと気付いた。アウローラは確か、あれで五十年は生きているのではなかったか?
『そうだ。彼女は幼くしてコルネリアに出会い、早期に治療が出来た。だからまだ人間の世界の空気の方に適応が強い』
「――あんただけで妖精郷に帰ればいいだろう、アウローラやロンドンの人々を巻き込む理由がどこにあるって言うんだい?」
『勿論、私とて故郷に帰りたい。それこそが私の悲願なのだから。だが私は――汚染がだいぶ進んでしまうまで自分の故郷を見つけられなかった。妖精派の魔術師を頼って向こうへ戻った頃には、こちらに汚染されすぎて、向こうの空気も合わなくなっていた。帰りたくても――帰る場所は既にないのだ』
「それで僕に
『アウローラもいずれ私のようになる。そうなった時、我々の帰る故郷はどこにもない。ないならば――作るしかないだろう』
そんな世界はない、ないなら作る――それはコルネリアもいつか言っていた事だったが、テオのやろうとしている事は全く性質が違っていた。
「なるほど、読めたよ。あんたはきっと、アウローラにこう言ったんだ。境界域でなら、アヴァロンヘ引っ込んだ婆さんも一緒に生きられるはずだ――って」
『察しがいいな、概ねその通りだ。計画が漏れる危険を考えれば、出来れば独力で成し遂げたかったが、私には精々周期的に開いた妖精郷への通路を固定し、『閉じないようにする』ことしか出来なかった。それも長くは維持できない。通路は開いたら閉じるのが摂理らしい。だからこそコルネリアの異界創造魔術には期待していたのだが、あれも永続は出来ない。となれば、通路をこじ開け、こじ開け続けるしかない。それには戴冠石がどうしても必要だったのだ。ところで――大分長く話し込んでいるはずなのだが――気付かなかった――君は何故まだ生きている?』
火の手が回る木造の部屋の中、炎に焼かれても人は死ぬが、煙を吸い込んでも死ぬ。エルニカがこんなに長くテオと話を続けられるはずはなかった。
「あんたの方こそ、僕がどんな魔術に秀でているか、深く理解していなかったようだね。もっとも、これをあんたに見せたことはなかったっけ」
エルニカは火の手が上がった時、既に
学院で空気がなければ火が燃えないことを学んでいた彼は、テオとの会話の間、部屋の中、特に火の近くの空気をその場に留め、代わりに新鮮な空気は全て自身の周りに集めていた。更に、可燃性のものを火から遠ざけるように移動させている。
「僕は焼け死なないし、証拠も燃えない。追い詰められたのはあんたの方だったね、テオ。幻像で視覚と声を飛ばしているというなら、逆にこれ以上この炎を魔術で操作するのは難しいだろう?」
エルニカは正八面体とテオの研究書簡のいくつかを手も触れずに持ち上げると、勢いをつけて工房のドアに体当たりした。そのまま、ヘルメス院の地下通路を駆け去る。
(アウローラがテオの手に落ちているのか……まずいな)
ジョン・ディーの私設図書館を通って外に飛び出したエルニカは、火事だと叫んで人を集める。延焼に巻き込まれてはたまらない。鎮火にあたる者が集まったのを確認して、エドガーの工房へ駆け出した。ライールにこのことを知らせるためだ。
そして、ロンドンの様子が一変しているのに驚いた。
いや、目の前の、夕暮れ時のロンドンの町並み自体は、
変わっているのは――妖精の数だ。
確かにこれまでも、町を歩けば妖精を見かけない日はないような状況ではあった。
だが、エルニカの目の前にある状況は、それどころではなかった。
羽を有する小型の妖精――鳥のような者もいれば、巨大な昆虫のような者もいる。
渡り鳥の群れが一斉に地上に降りてくるような――
いや、小麦畑にイナゴの群れが襲ってくるような、そんな光景だった。
妖精達の一部は人間に襲いかかっている。
呆然とするエルニカは、腰に伝わる衝撃ではっと我に返った。フィーが内側からガンガンと籠を蹴りつけている。
「何とかしろって? いや、こんなの……僕の手には負えないだろ……」
フィーがそれに抗議するように、ギチギチと顎から音を鳴らす。身振り手振りで何かを伝えようとしているようだ。
「四角い……模様? が……? ああ、そうか!」
エルニカは懐から護符を取り出すと、それを掲げて妖精に襲われている人物の中の一人へ駆け寄った。護符の効果は中々の者で、妖精達は蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
昏倒している人物を抱き起こして、エルニカは驚いた。
それは魔術師だった。何度か取引があったが、例の噂のせいで発注を取りやめた、図像派の魔術師だった。
彼だけではない。妖精に襲われている者達をよく見ると――。
「魔術師を――狙っている?」
エルニカは同様に魔術師達から妖精を追い払って回るがすぐに手持ちの護符が尽きてしまった。
「フィー、やっぱり僕だけじゃ無理だ!」
エルニカは妖精派の誰かに助けを求めようと駆け出した。
走りながら、何年も上着のポケットに入れたままにしてある、鳥男の羽のことを思い出す。
『あにき』
ジョーと鳥男の顔が脳裏に浮かぶ。
「仕方ないだろ……今は仕方ないだろ!」
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