第20話 最期の憧憬《後》

 数日後の早朝、まだ日も明けきらぬ内に、コルネリアはアウローラに背負われて、真珠の家の西にある丘の上に連れられてきた。いつかエルニカが真珠の家の子ども達と一緒に模擬戦を行った場所である。カイが運んできたクッションの上に寝かされるコルネリア。

 エルニカは自室にしまってあった織物を持ってきていた。丘の上に、織物を広げる。

 その他、妖精派の面々は、それぞれ今日のために幾つか道具を持ち寄っている。テオは様々な色の鉱石を用意していた。


「この鉱石は、研究用に魔力を蓄えていたものだ。今まで私がコルネリアから受けた恩義に比べれば些細な物だが、これで大抵の魔術工芸品アルティファクトゥムは発動できる」

「先生、それ飴玉じゃないんで口に入れちゃ駄目ですよ。先生はそこの草をむしっていて下さい。薬草学的に非常に重要な意味がありますから。あ、エルニカさん、この先生の杖も使って下さい! なんでも魔力が蓄えてあって、いざという時にはすぐ魔術が使えるようになってるそうで。いざという状況が起こり得ない今の先生には、無用の長物と言うわけです」


 ライールはリュートを携えていたが、すぐに使うものではなさそうだった。


「すまないね。石と杖は織物の上に置いておくれ。さて、エルニカ。はじめようかねぇ。こう言うとアウローラはまた怒るだろうが、これがあたしがあんたに教えてやれる最後のことだよ」


 エルニカはこの数日、織物の使い方を教わっていた。魔術工芸品アルティファクトゥムは魔術師の技量は関係なく扱えるが、人の作りし神の庭ティルナノーグは魔術の構成が複雑で、予備知識なしという訳にはいかなかった。


「あんたにこれをあげよう……いや、預ける、ということにしておこうかね」


 コルネリアは、エルニカに毛糸の指輪を手渡した。真珠の家の子ども達が初めて染めた糸を編んで作った、安っぽい虹色の指輪。


「これが術式の鍵だ。あたしゃ、高度な魔術を封じた魔術工芸品アルティファクトゥムは悪用されないよう、対になる鍵を作ることにしているんだ。これがなければ敷物の魔術は発動しないし、誤って暴走しても、こいつを使えば発動を止められる。だからなくさないようにねぇ……まぁ、それ以上に」


 コルネリアはどこか遠くにあるものを見つめるような目で、指輪を見つめた。


「この中には思い出がたくさん詰まってるんだ。あたしが墓場に持って行くより、あんたに預かっておいてほしい」

「墓場だなんて……弱気なことを言うなよ」

「汚染がなくても、衰えていることには違いないんだ。ちょいと早い形見分けだと思いな。さぁ、それをはめるんだよ」


 エルニカは指輪を左手の中指にはめ、コルネリアの教えを思い出しながら、敷物に手をかざした。 


「其は来し方にあり、来し方には既になく。其は行く末にあり、行く末には未だなく。其は今ここに、我が手によって紡がれる」


『――ここまでの呪文は、指輪の発動に関するものだよ』


 指輪の周りに光の粒が現れる。虹色の毛糸を通して術者の魔力を織物に伝えると同時に、織物に込められた、高度で難解な魔術をいくつかのまとまりに分類し、操作しやすくする。


「時の流れをたていとに、人との和をよこいとに、我が意志をに通し」


『――この三節は指輪と織物を繋ぐものさ』


 光の粒が、砂のように鉱石と杖に降り注ぐ。石と杖が光を放ち、光は織物の繊維に染み渡る。


『――ここからが難しい。』


 この後は、たった三節で敷物自体の魔術を展開しなければならない。指輪に仕込まれた知覚魔術の式が、織物の構成をエルニカに伝えてくる。複雑精緻で、極めて情報量の多い魔法円。


「我が願いで織り上げて、」


 どの文様にどんな意味があり、どの繊維にどの順で魔力を通せばいいか、瞬時に判断しなければならない。拡散する意識ディフュージョンで様々な工芸の技を盗み、見えざる手アポート/デポートで再現してきたエルニカでも、正確にこなすのは至難の業だった。コルネリアの織物の、あまりの技量の高さに舌を巻く。


(織り目を読み間違える……!)


 集中しようとすればするほど、意識が乱れる。折角展開させてきた術式がほころび、散り散りになる。呪文は残りあと二節だが、次の句をどうしても唱えられない。


(くそ……)


 その時、リュートの弦を弾く音が聞こえてきた。エルニカが顔を上げると、いつの間にか、ライールが目の前に座り込んでリュートを弾いている。どこか懐かしく、優しい響き。


「外交派の音響魔術の真似事です。術者の集中力を高めたり、世界そのものに魔術の効果を『響き渡らせる』ことで、効果範囲、持続時間、行使対象、精度などを底上げする事が出来ます」


 ライールはエルニカが唱えた呪文を翻案し、歌詞に変え、リズムと旋律をつけて歌い上げた。


『それは古い古い約束、誰も彼も忘れ果てた』


 エルニカは自分に魔力が流れ込むのを感じた。


『それはいつか結ばれる約定、されど未だ結ばれず』


 気持ちが落ち着き、集中力が研ぎ澄まされ、頭の中が徐々に整理され始める。


『けれど決してなくならぬ、それはまさに今生まれる』


 霧が晴れたように、織り目を明確に感じ取ることが出来る。ライールのウィンクに、苦しげな笑みを返すエルニカ。ようやく次の句が継げた。


「我が憧れで染め上げる、」


 読みとらなければいけないのは折り目や文様だけではない。糸を染めている染料の種類や、染め方、色そのものにすら術式の意味が込められている。コルネリアの元で染織を学んでいなければ理解できないものばかりだった。


(これは杉の葉の緑、これはカモミールの黄色……)


 ここに来て、エルニカは初めて敷物の魔術の全体像を把握した。巨大な術式全体は、幾つかの中規模な魔術の組み合わせで出来ている。更に中規模の術式は、複数の小規模な術式の複合である。一足飛びに結果はでない、それこそ、糸を染め、布を織るような地道な術式。エルニカは、魔術の奥義には術者の生き様が現れるとコルネリアが言っていたのを思い出した。

 一歩一歩を踏みしめて歩くような、一瞬一瞬を感じながら呼吸するような――

 なるほどこれはコルネリアの生き様に違いない。


「織りあがりしは――人の作りし神の庭ティルナノーグ!」


 エルニカの足元から光が広がる。

 地平線まで広がった光は空を覆い始め、数秒の後には完全に一つの世界を作り上げた。


(婆さんの作った世界と違う――のは、僕が未熟だからか)


 空は黄金の落日ではなく、今にも日が沈みそうな夕暮れだった。

 日は赤く揺らめきながら沈み、空は薄紫色から濃紺に変わりつつある。

 地を覆う絨毯のような花々からは花弁が舞い散り、花期の終わりを示している。


「おお、これが――憧憬の魔女の異界創造術――」


 テオは感嘆の声を上げた。カイやライール、エドガーすらもその光景に見入っている。確かにこれも美しい光景ではあったが、エルニカは全てが終焉に向かっていくようなその景色を、汚染に侵されたコルネリアに重ね合わせてしまい、あまり好きにはなれなかった。


「この懐かしい空気……なるほど、これは確かにアイルランド神話系の妖精郷に近い。人に害もない」


 ライールは舞い散る花びらを一つ摘まんで、しげしげと観察して言う。ライールが視線で合図を送ると、アウローラは真剣な眼差しで頷いた。いつも浮かべている余裕の笑みはない。

 その時、ガラスが割れるような高い音がして、夕暮れの空に亀裂が入った。


「アウローラ、早くしてくれ! 僕じゃあこの世界を長く保っていられない!」

「分かっている!」


 アウローラは首飾りを外して、赤い石の部分を右手に持ち、自分の前方へ突き出した。さながら道を指し示す指導者のようである。


「――道は今や消え果てつ、」


 エルニカは初めて聞く、アウローラによる選定の戴冠石リア・ファルの発動詠唱。


「――昔日に帰るみちもなし」


 人の作りし神の庭ティルナノーグの呪文に比べると、やや悲しげな文言。


「――いつか道が拓くとて、待てる間に我は散る」


 そこに、昔のコルネリアの思いが感じ取れた。


「――故に我は路を付けん。救い手を探すその道を」


 乱れた世の救い手を求めるあまりの、焦りすら見える。それがエルニカにはどうにも、今のアウローラの姿を表しているようにも思えた。


「路を選べよ、戴冠石!」


 アウローラの右手から赤い光が迸る。光は次第に収束し、一条の光となる。光は、しかし空間の一ケ所で途切れている。まるで穴があって、吸い込まれているようだ。実際、そこには小さな穴があった。穴は徐々に広がり、人が通れるほどの大きさになる。以前エルニカが見たときには、それは人間の世界に続いていたが、今回穴から見えているのは、鬱蒼とした森である。


「ここではない……木々のざわめきがここは違うと言っている」


 アウローラは呟くと、再び呪文の詠唱を繰り返した。彼女はその超常の才覚を使って、妖精郷そのものから情報を得て、コルネリアを送り出すのに最適な場所を探そうとしている。

 アウローラは今度はやや右にずれた空間に赤い光を差し向けた。


「重ねて唱える!」


 再度の詠唱。

 次の空間にも穴が開き、更に異なる景色がのぞく。次に見えたのは一面の草原である。


「違う、風の囁きがここは違うと言っている……」


 アウローラは何度も何度も繰り返す。あたりが出るまでクジを引き続ける子どものように。


「違う、違う、ここも違う!」


「アウローラ、お待ち、何度も使ってはあんたの身が持たないよ……!」


 魔術工芸品アルティファクトゥムである以上、どこかから魔力を供給しなければならない。そしてエルニカと違って、魔力を貯蔵した品物を使っていない以上、その供給源はアウローラ自身のはずである。コルネリアの声も耳に入っていないのか、彼女はひたすら空間に穴を空け続ける。焦りからか、目に涙が浮かんでいる。息も荒くなり、顔色も青くなってきた。

 エルニカの維持する仮初めの世界も、地平線から亀裂が増え、崩れ始めている。これは失敗かと思ったその時、リュートの音が止まったのに気づいたエルニカは、顔を上げた。

 エドガーがライールの肩に手を置き、演奏を止めていた。先ほどカイに集めさせられていた野草の葉を口に当て、草笛を吹いている。そのままアウローラの方に歩み寄る。


「慌てるでない、若き魔女よ。焦りは目も頭も曇らせる。少しこの草笛に耳を傾けるといい」

「そんな悠長な――」


 エドガーはアウローラに構わず草笛を吹いた。今まさに術式を維持するので精一杯のエルニカでさえ、その音色を聞くと穏やかな気持ちになった。どこか懐かしい旋律。コルネリアが染織の最中に歌う鼻歌と似ている。


「若い頃はよくコルネリアと歌ったものでのう、彼女が即興で作る歌の旋律を、今でも覚えている」


 次第にアウローラの顔からも焦りの色が消え、呼吸も整ってきた。


「落ち着いたかね」

「ああ――うん」

「それは重畳。この爺に一つ考えがあるのだが、聞いてはくれないだろうか」


 アウローラは一瞬の間を空けてこくりと頷いた。


「結構。その石は元々、アヴァロンへの道を付けるために作られたはずじゃ。そうじゃろう? つまり、黄金の林檎の島へ至る方法については、その石が一番詳しいのではなかろうか」


 エドガーの意図する所は、誰にも分からないようだった。コルネリアですら怪訝な顔をしている。一人カイだけが、老爺の意図を汲み取った。


「ああ、アウローラさんの超常の才覚ギフトで石と対話すればいいんですね」

「これは婆様が作ったものだ、婆様が出来ないことをこの石が知っているなんて事があるのか」

「全ての被造物は、生まれた瞬間に創造主の手を離れて、それ独自の価値と文脈を持つと、わしは思うておる。そうでなければ人間は神の掌の上で踊る人形じゃ。その石は君とともに幾多の異界を渡り歩いてきたのじゃろう? 何か良い考えを持っているやもしれんぞ。どうかな、聞いてみる価値はあると思うがのう」


 アウローラは少し考え、石に語りかけ始めた。人の声とは思えない音がアウローラの喉から聞こえてくる。まるで石を転がしているような音だった。

 どうも会話は成立しているらしく、アウローラは相づちを打ったりしているが、戴冠石側の声はエルニカには聞こえなかった。エドガーはアウローラの気持ちを落ち着かせるためか、その会話の間中、ずっと草笛を吹いていた。


「そうか――分かった。そんな事、思いつきもしなかった」


 アウローラは再び戴冠石を前に掲げ、呪文を唱える。赤い光が空間に穴を空けた。現れたのは、最初に繋がった森の妖精郷だった。彼女は更に、繋がった妖精郷の空間に光を放ち続ける。


「路を拓けよ、戴冠石!」


 すると、妖精郷の方にも更に穴があく。これで穴が二重にあいたことになる。新たに繋がった妖精郷は、極彩色の林の中に、幾つもの小川が流れる場所だった。


「更に拓け!」


 アウローラはその行為を繰り返した。空間に穴をあけて繋がった妖精郷で、更に穴をあけ、その先でもまた穴をあける。まるで空間と空間を繋げるトンネルのようなものが出来る。極彩色の林のその先には、色味のない岩山の間を流れる大河が。更に大河の先には、黄昏の日に照らされる、黄金の砂浜が現れた。砂浜の向こうには、日を照り返す大海原が広がっている。


「ここ――だ」

「これが――アヴァロンなのか」


 テオが目を見開く。その声は震えている。確かに、感動を禁じ得ない美しさがそこにはある。


「まだだ、ここは出立の場所でしかないんだ。石がそう言ってる。ほら、迎えが来た」


 海の向こうから、一艘の舟がこちらに向かっているのが見える。舟は木製で、側面には複雑な模様が彫られている。手漕ぎの舟は小さく、詰めても十人は乗れまい。そこに既に五人の人物が乗っていた。全員が白い布を頭から被り、顔は隠され、口元しか見えない。体には大きな白い布を巻いて衣服の代わりとしており、体つきからも年齢や性別は伺えなかった。


「あれは――妖精ではない。精霊ですね。それも異界の管理者である大精霊――異教の神々に近い。これはなかなかの大物のお出迎えですよ」


 ライールが声を震わせる。緊張した面もちで、冷や汗を流している。


「皆さん、彼らの機嫌を損ねないように気を付けて下さい。と言っても、異界の精霊の考えることが、人の身に計れるかは分かりませんが」


 舟が浜に着くと、五人の大精霊は砂浜に降り立ち、ぐるりとあたりを見渡した。


「送り出すのはそこな老婆か」


 男とも女とも、子どもとも老人とも判断が付かない独特の声音で問う。声が大きいわけでもないのに、あたりによく響いた。


「疾く乗るがよい。出立する」

「私も乗せてくれ! この石がないと婆様は帰れなくなってしまうし、この石の声を聞けるのはこの中で私だけなのだ!」


 ライールがアウローラを止めようとするが、大精霊達は手を前に突きだしライールを制した。


「ならぬ。これより先は生者の世にはあらじ。死者か、死に向かう者のみ立ち入れる彼岸なり」

「そんな――それではこの先はあの世なのか、婆様はそっちへ行ったら死んでしまうのか」

「娘よ、形を持った命はいつかみな滅ぶ」

「なれど、この海の果てはあの世にはあらじ。そこに至る狭間、魂を休める地なり。休んだ後で如何にするかは、この老婆が決めるであろう」

「魂を――休める?」

「然り。緩慢な時の中で、ゆるりと魂の澱を清める。そなたらにとっては無限の時間がある。現世に戻るつもりでも冥府へ赴くものもあろうし、その逆もあろう。決めかねて留まったままの者もある」


 アウローラの顔に幽かに希望の光が射したようだった。


「では――婆様が結論を出すまでは、そこにいられるのか? 死んでしまうことはない?」

「少なくとも冥府へ逝くことはあるまい」

「婆様!」


 アウローラはきびすを返してコルネリアの元へ駆け寄った。ライールはそんなアウローラをはらはらした表情で見つめている。大精霊に粗相をしてしまわないか心配なのだろう。


「婆様、これで大丈夫だ! 向こうは時間がほとんど止まった妖精郷だ!」


 コルネリアは複雑な表情をしていたが、それでも嬉しそうにアウローラの頭に手を置き、撫でた。


「まさか本当にやってのけちまうなんてねぇ。あたしが何百年と辿り着けなかったものを」

「いいや、戴冠石を作ったのは婆様なんだから、やっぱりすごいのは婆様だ」


 アウローラはコルネリアを背負うと、舟まで運んだ。大精霊はすぐさま出立しようとするが、コルネリアが懇願して少しの時間を貰った。全員がコルネリアに呼び集められる。エルニカは神の庭を維持するためにその場に残らなければと思っていたが、そのくらいの時間は大丈夫だと招かれた。


「エドガー、ライール、テオ、カイ。よくこんな婆のために尽力してくれたねぇ。感謝の言葉もない。ライール、テオ、尽力ついでに頼まれてくれるかい」


 コルネリアの言葉に、二人は無言で頷いた。


「ライール、真珠の家のことを頼むと、他の魔女に伝えてほしい。多分子ども達だけじゃあ難しいこともあるだろうから、時間があれば時々覗きに行っておくれでないかい」

「お安いご用です」

「テオ、他の魔女が来てくれるとは言え、あたしがいなくなることでエルニカのヘルメス院での立場は微妙なものになるだろう。どうか後ろ盾として支えてやっておくれ」

「承知した」

「エドガー、しぶとく長生きしておくれよ。汚染を治療するのに、一番近いところにいるのは、あたしゃあんただと思ってるんだ。ただしカイにあまり迷惑をかけないようにねぇ」

「生きることは幸いじゃ。辛いことは全部、わしの前から去った者達が持って行ってしまった。この世にしがみついて生き恥をさらすことに何のはばかりがあろうか」

「先生、今さりげなく僕の世話を当てにしましたよね。コルネリアさんの言葉の最後のほう聞いてましたか?」


 四人への挨拶が済むと、アウローラは堪らなくなったようで、コルネリアを思い切り抱きしめた。


「婆様、私が絶対に婆様を治す方法を見つけてみせる、だからそれまで待っていてくれ……もう一度会う前に、し、死んでは……」


 アウローラは最後まで言えずに、ぼろぼろと涙を流す。コルネリアはそんな彼女を抱き返した。


「あんたが一番頑張ったんだねぇ。ありがとうよ、アウローラ。ありがとう」


 しゃくりあげるアウローラの背中を優しく撫でるコルネリア。その手に力はなかったが、しっかりとアウローラの背を包んでいた。五十年生きているとは言え、本人の体感では見た目通りの少女としての人生しか歩んでいない。アウローラに普段の余裕がないのも無理はない。


「分かったよ、アウローラ。約定を結ぼう。魔女の約定は違えられることのないものだ。刻の終わりのその時まで、あんたの迎えを待とう」

「本当、だな? きっと、だぞ?」

「あぁ、だから無茶はしないでおくれ。自分の体も労っておくれ。真珠の家のことも頼んだよ」


 アウローラは泣きじゃくり、まともに言葉がでないので、何度も頷いた。

 コルネリアは最後に、エルニカに手招きをして、他の面々を少し遠ざけた。エルニカは老婆の言葉を聞く前に、言わなければいけないことがあると思っていて、コルネリアと皆との挨拶の間中、ずっと考えを巡らせていた。


「婆さん……僕のせいでこんなことになって、その……どう謝っていいか分からない。エドガー先生の言う通りだ、僕は婆さんに沢山のものを貰ったのに、何も返せないどころか……」

「孫が婆に迷惑をかけるのは当たり前のことだよ。それに言ったろう? どのみち元々長くはなかったんだ。最後に孫と孫娘を助けられて、あたしゃあ大満足さね」


 孫、と言われて、エルニカにはこみ上げてくるものがあった。生まれてこの方、こんな気持ちになったことはない。嬉しく、誇らしいと同時に、それを失う苦痛が胸を締め付ける。アウローラが泣きじゃくる気持ちが理解できる。思わず体が動いて、コルネリアのことを抱きしめる。


「婆さん、僕はあんたのこと、好きだったみたいだ」


 コルネリアの体は枯れ木のようでやせ衰えていたが、どんな暖炉の火より暖かく感じた。


「嬉しいことを言ってくれるねぇ」

「だからこそ、あんたにかけた迷惑を……当たり前とは思えない。僕は何か、償いをしなけりゃならないんじゃないか?」


 エルニカはアウローラと違って、コルネリアとはもう二度と会えないような気がしていた。いや、アウローラもそう思ったからこそ、この策を思いついたのかもしれない。


「僕は婆さんに、何か返さなきゃいけない。僕になにが出来る?」


 コルネリアはそっとエルニカの体を起こすと、その目を見つめた。


「あんた、いい子だねぇ」


 死の淵にあって、若々しい輝きを失わない、コルネリアの眼。


「エルニカ、あたしの最後の孫よ、最後の弟子よ。あたしにはもう何もいらないよ。ここまでのことをしてくれたんだからねぇ。もしそれでもあんたが満足しないというなら、そうだねぇ。その分を、あたしじゃない他の者に分けてくれないかい」

「婆さんじゃなく……?」

「例えば真珠の家の子ども達とか、迷仔ワンダラーズの連中とか、或いはあんたがこれから先に出会う大切な人とか。あたしがあんたにしてあげたことを、今度はその人達にしてあげるのさ。そうしてくれりゃあ、あたしは嬉しいねぇ。あたしが死んでも、魂はあんたの中に生きることになる」

「婆さんの魂が……僕の中で?」

「人は死んでも終わりじゃあない。その魂を引き継ぐことができる。人の心で生き続ける。まぁ、魂をどう働かせるかは引き継いだ相手次第だがねぇ。前向きに憧れとして受け止めてくれりゃあ善行も成すだろうが、ただ悲しい思い出として受け止められちまうと、その相手に呪いをかけることになっちまう。どうかあんたにとってのあたしは、前者であってほしいねぇ」


 それは憧憬の魔女の、最後の魔法だった。人の心に憧れを生み、勇気を与える、それだけの。

 かつてエルニカの中に灯された小さな灯火が、次第に大きくなっていく。


「分かったよ、婆さん。誓って僕はあなたの魂を引き継ぐことにする」

「嬉しいねぇ、最高の恩返しだよ」


 そこまで言うと、時間切れらしく、大精霊がコルネリアの体を抱えて舟に運んでいった。


「では僅かばかりのさよならだよ、皆。また会おう」


 コルネリアは皆に再会するつもりはないのだろうと、エルニカは思った。そうでなければ、別れの言葉は言わないだろう。それでもコルネリアは、皆が自分にしてくれたことに感謝を示そうと、方便を使っているのではないか。だから――最後にアウローラにかけた一言も、彼女に対する一種の労いであったのだろう。


「アウローラ。いつかまた、刻の果てで」

「はい、婆様」


 コルネリアを乗せた船は、沖へ出た。船は視界のなかでだんだん小さくなり、黄昏の中に消えていった。それに呼応するように、アウローラが戴冠石で開けた穴も小さくなり、エルニカの作った異界は音を立てて崩れていく。

 皆、その場に立ち尽くして動くことができなかった。

 完全に神の庭が砕け散り、光の粒に戻ると、あたりの景色は元の丘の上に戻っていた。ほんの僅かな時間の出来事だったはずだが、異界の中の時間はかなり進みが早かったらしく、あたりはすっかり真夜中の闇の中だった。月も細く、星明かりだけでは歩くのも心もとない。


「誰か灯火になるものを持っていないか。生憎私は火の魔術が苦手でね」


 テオが声を上げるが、誰も明かりになるようなものは持っていなかった。

 皆、道標も灯火もない中、真珠の家への道を、手探りで歩いて帰った。

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