第19話 最期の憧憬《前》
真珠の家に帰ってきてからのコルネリアは、まさに瀕死だった。ベッドに寝込んで起きあがることもできず、脂汗をかいており、呼吸は、荒い。
真珠の家には以前のような活気はなく、灯火が落ちたようである。いつもならばここでフィーが活を入れるのだろうが、そのフィーはと言えば、籠の中に入ってエルニカの腰に括り付けられている。子ども達はコルネリアを心配して、代わるがわる彼女の寝室に来て看病をしていったが、彼女の容態が回復することはなかった。
「老衰だな」
コルネリアの容態を看に来たエインは、彼女の脈を取ったり目の中をのぞき込んだりしていたが、最終的にそう結論づけた。彼には、エルニカから頼み込んで来てもらっている。普通の医者には見せられないし、かと言って
「汚染の影響で老化が早められているとはいえ、老い自体は自然の摂理だ。生物は皆老いて死ぬ。こればかりはどうしようもないぜ。魔術師として言うなら、不老か若返りの魔術を使えと言いたいところだが、コルネリアは既にヴァルプルギス秘伝の不老の霊薬を使ってるんだろ? 他にも色々自分で打てる措置は打ってるみたいだがな。衣服の裏地は、こりゃ
コルネリアは他にも様々な
「この体調不良は、汚染の影響で人間の世界の空気が合わなくなっているのもあるだろう。だがそうでなくとも、三百年も生きてるんだ。むしろこれが普通と考えるべきだろう」
エインの言葉は冷たかったが、確かにその通りではある。
「やっぱりねぇ」
コルネリアが苦しげに口を開く。
「これも天命さね。魔術の力でいろいろな摂理をねじ曲げてきた代償としては……遅すぎたくらいだねぇ」
「諦めるな婆様!」
アウローラが、悲痛な表情でコルネリアのベッドに手をかけ、叫んだ。
「諦めるな! 婆様がいなくなったら真珠の家は、
「アウローラ……人はいつか一人で歩いていかなければならないんだよ。真珠の家の子ども達には、そのための技術を授けてある。
そこまで言って、コルネリアは苦しそうな呻き声を上げて、喋らなくなった。
「婆様!」
「眠っただけだ。そうすぐには死なんさ。ただ先は短いだろうな。一ヶ月もつかどうか」
そう言ったエインの顔を、アウローラはきっと睨んだ。
「まだ何か手はあるはずだ、何か……」
アウローラは癖っ毛を両手でかき乱しながら考えている。必死の形相だ。
「そもそもエルニカ、そなたが婆様の忠告を素直に聞いていれば、こんな事にはならずに済んだのだ! フィーも婆様も、こんな風になることはなかった!」
責められて当然だと思っていたエルニカは、しばらく続くアウローラの言葉を黙って聞いていた。以前の彼なら、自分のために生じた犠牲について、何とも思わなかっただろう。生き残るためならば仕方のないことだと。しかし今は違った。アウローラの言う通りだと思った。こんな事ならば大人しくコルネリアの元で工芸魔術の腕を磨いていればよかったと思っていた。
反応のないエルニカにむしろ苛立ったか、アウローラはベッドから離れると、彼の襟首を掴んだ。暫くそうしていたが、アウローラもそれ以上言葉が見つからず、ゆっくりと手を離した。
「私が知る限りの心当たりを回ってみる。良いか婆様、まだ諦めるんじゃないぞ」
アウローラはそう言い残すと、部屋を飛び出していった。
「怖い怖い。あいつは真っ直ぐすぎるな。まぁ魔女なんてのは皆そんなもんだが」
エインはコルネリアのベッドを整え、布団をかけ直しながら言った。
「エルニカ、アウローラから目を離すな。こういう時の魔女は、脆い」
数日後、アウローラは
アウローラはコルネリアの寝室で、エルニカとコルネリアに向かって言った。
「皆で考えた、多分この方法しかない。主にライールの考えだ。聞いてくれ」
「僕の意見は、積極的にコルネリアの容態を回復させるものではなく、時間稼ぎに過ぎませんが。妖精郷は人間界とは時間の流れが異なります。その中で、とびきり時間の流れが遅い妖精郷を探し、コルネリアにはそこに滞在してもらいます。コルネリアの時間はひどくゆっくり流れるので、その間に汚染を回復させる方法を探す、というものです。エインの見立てではあと一ヶ月と聞きましたが、仮に時間の流れが百倍違うならば、百ヶ月……八、九年は保つでしょう」
「でも先輩、妖精郷に留まるなんて……それじゃあ逆に汚染が進むんじゃないですか」
「そこは僕が説明します」
ライールの後ろからカイがひょいと顔をのぞかせた。
「定期的に妖精郷の空気にさらさなければ、逆にその部分から壊死が始まってしまうアウローラさんやテオさんみたいなタイプの汚染があるじゃないですか。それって、その部分は妖精郷に適応しているわけですから、全身が汚染されているような状態のコルネリアさんなら、空気さえ合えば汚染されないと思うんですよね、うちの先生みたいに異界の空気にさらせない場所がやられちゃってるとどうしようもないですけど。そもそも
「そんな所あるのかい?」
「ある」
次にテオが進み出た。
「アーサー王のアヴァロン伝説は知っているだろうか。戦い疲れ、傷付いたアーサー王は、その傷を癒すために妖精達に迎えられ、船に乗って黄金の林檎の島に渡った。そしていつの日か傷を癒し、英国の危機に際しては帰還して平和をもう一度もたらすという。これはアヴァロンが時間の流れが極端に遅いか、ほとんど止まっている妖精郷であり、人が傷を癒すことが出来る場所であると示唆している」
「でもテオ、それは伝説でしょう。本当にあるかは分からないし、今からそれを探すんですか?」
「アウローラ」
テオに声をかけられ、アウローラは懐から戴冠石を取り出した。
「これを使ってはどうかと思う」
戴冠石が出された途端、今まで沈黙を保っていたコルネリアが口を開いた。
「お待ち……それが何か分かっているのかい」
「ヴァルプルギス孤児院と名乗る前のアルトス院は、まさしくアーサー王の円卓の騎士を補佐したドルイドの
コルネリアはテオから顔を背けた。
「であれば、伝聞からおおよその機能は察しがつく。この石は世界と世界の間の壁を貫き、アヴァロンまでの道筋を作るもののはずだ。しかしそれは出来なかった。違うかな」
「その通りさ……あそこは生きては辿り着けない場所だった。
「生きて辿り着けないのならば、死者、或いは瀕死の者にならどうだろうか」
「やってみなけりゃあ……分からない」
「私達が協力しよう。アウローラによれば、この石は使用した妖精郷から、比較的性質の近い妖精郷へ道を繋げる傾向がある。先日拝見した貴女の奥義――ティルナノーグ人の作りし神の庭はアイルランド神話系の妖精郷をベースにしているように見えた。アイルランドとイングランドの神話や伝説の体系には共通点が多い。であれば、あの奥義を展開し、そこで石を使えば、アヴァロンへ至る道につながる可能性は高いのではないだろうか」
「待って下さい、テオ!」
エルニカは思わずテオの言葉を遮った。
「婆さんはとても大魔術なんか使える状態じゃないですよ! たとえ使えたとしても、それじゃあ汚染がもっとひどくなる」
アウローラが厳しい目つきでエルニカを睨んだ。コルネリアの状態が悪くなったことについて、エルニカをまだ許せていないようだ。
「汚染されない方法があるはずだ。エルニカ、婆様の奥義を伝授されたそなたなら分かるだろう」
アウローラの声には棘があった。エルニカは、以前彼女が『私がそなたの立場なら、もっと婆様の役に立てる』と言っていたのを思い出した。出来ることなら自分で助けたいだろうに、エルニカの手を借りなければならないのが悔しいのだろう。
「……
エルニカはコルネリアから貰った、大魔術のための織物を持っている。魔術の効果に相応しい織物を織りあげ、対価となる魔力を用意しさえすれば、本人にほとんど負担をかけずに発動できる。
あの織物と、発動に十分な魔力さえあれば、今すぐにでも大魔術を使えるはずである。
「アウローラ、
「バカを言うな婆様! テオとエドガーは、婆様の手助けで汚染を食い止めている! 婆様がいなくなったらどうする!」
「テオの包帯は確かに改良の余地はあるけれど……基本的にはもう完成しているよ。エドガーのための薬はレシピがあるから……それをエインにでも渡せば調合は出来るさ」
「では子ども達は、真珠の家の子ども達はどうなる! 婆様がいないと染め物や織物を教えてくれる人がいないぞ! 生計だって立てられぬ!」
「ヴァルプルギス孤児院に要請すれば……まずは一時的に他の魔女を派遣してくれるだろうさ。生計はそれでどうにかなるだろう。アイルランドの本院には……母様の他に……新緑の姉様もいる。染織は……今やエルニカがほとんど引き継げるよ」
理詰めで説得しようとしていたアウローラに対して、コルネリアも理屈で答える。アウローラは顔を真っ赤にして、何とか説得できないかと頭を巡らせ、目にはうっすら涙が浮かんでいる。
「確かに婆様がいなくても、私たちは何とかやっていけるかもしれぬが……」
アウローラは、ゆっくりと、言葉を選びながら言う。
「だが、それでは私たちの気持ちはどうなるのだ?」
精一杯に、もうこれしかないというような、懇願にも近い声音でアウローラは呟いた。エルニカが今まで見てきた彼女とは違う、弱々しい表情と声だった。
「私たちは婆様が好きなんだ。婆様がいなくなってしまうのは嫌だ。真珠の家の子ども達も、今集まってくれている
自分もそうだと、今や確信を持ってエルニカはそう思う。出来るならば、もっとコルネリアと一緒に過ごしたい。
「人はいつか別れるもんだよ。たまたまそれが今だってだけさ。そうだろう、エドガー」
皆の視線がエドガーに集まる。エドガーの目には確たる光が灯っており、眼差しだけは若々しい。背筋はしゃんとのびており、いつの間にか正気に戻っていたことが分かる。
「わしがヘルメスに入門した頃の友人も、君だけになってしまったのう。ジョーンズ、サイモン、アリス……彼らだけではない、私の子も孫も、とうにわしの前を過ぎ去ってしもうた」
「あたしも、ここで育てた子ども達に大分先立たれちまった。自分より若いもんを看取るのは、なかなか辛いもんだ。そろそろ自分の順番だと思っていたんだよ」
「わしは辛い事は忘れてしまう
エドガーは、アウローラの肩を持ってコルネリアを説得するつもりのようだ。確かにこの中で本当にコルネリアと対等な立場で話せるとしたら、年齢や経験、汚染の深刻さから言っても、彼くらいのものだった。
「わしも含めて、彼らは君から多くの物を受け取った。その返礼がまだ済んでおらんのじゃろう。君の命が残り少ないとしても、彼らに君のために尽くさせるくらいの事は、冥土の土産に受け取ってもいいのではないかね」
アウローラがエドガーの言葉に、我が意を得たりと言う顔で食いついた。
「その通りだ婆様、私の言葉が足りなかった! 婆様は長生きだから、ずっと私達の婆様だと思っていた。これだけよくして貰っていたのに、まだ何一つ婆様にお返しが出来ていない!」
「お返しなんていらないんだよ、アウローラ。この非情な世界で、あんたたちが立派に育っていくのを見るだけで、あたしゃあ本当にそれだけでよかったんだ」
「それでは私の気が済まぬ! 私に、婆様を助ける機会をくれ……!」
アウローラは理屈を捨てて、コルネリアの感情に訴えた。エドガーがアウローラにウィンクしたのに、彼女は気付いただろうか。
「……まったく、卑怯だよアウローラ。孫が自分に何かしてくれるというのに、断れる爺婆がいるもんかい。分かったよ、それじゃあもう少しだけ生にしがみついてみるとするかね」
「本当か?」
アウローラの表情は一転して明るくなった。コルネリアに負担がかからないように、そっと抱きしめる。本当は力一杯飛びつきたいのだろうが、それを我慢しているようだった。
「それにしてもエドガー……あんたも老人なら、老体にむち打つ厳しさは分かっているだろうに。もう少しレディを労ってもいいんじゃあないかねぇ。あたしゃあんたより更に年寄りなんだ」
「はて、歳はそんなに変わらないと思っていたが。あー、カイ君、ところで飯はまだかのう」
「先生、誤魔化せてませんよ。先生が曖昧なときはもっとこう、よぼよぼのおじいちゃんって感じなんですから」
「そうかの? 都合の悪いことはすぐ忘れてしまうたち性質でのう」
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