第5話 ヘルメス魔術学院
エルニカが真珠の家にやってきてから二ヶ月。外はすっかり春めき、花が咲き始めた。虫や鳥の動きも多くなっている。エルニカは子ども達に馴染み、染織の作業も彼らと遜色なく出来るようになった。コルネリアによれば、市井の職人の徒弟としてならば最低限の事はこなせるようになっているらしい。
しかし彼はもどかしさを感じていた。魔女に弟子入りしたのは王宮と繋がりを作るためであって、職人になるためではないのだ。このままでは、自分の人生を逆転する瞬間が来るとは到底思えなかった。
エルニカは子ども達が寝静まってからコルネリアの工房を訪ね、その思いを、直接老婆にぶつけた。
「王宮との繋がり? まさにこのあたしが王室とのコネに他ならんじゃあないかね。他に何がいるって言うんだい」
「僕はこの二ヶ月間、一度だって王宮の下っ端役人にだってお目通りしていない」
「今のあんたを、どう紹介しろって言うんだい。免許皆伝すれば話は別だろうけどさ」
「じゃあその皆伝とやらはいつになったらくれるんだ」
コルネリアは、やれやれと肩をすくめる。
「エルニカ、目先の利益にとらわれてはいけないよ。あんたはまだ若いから分からないだろうが、人生というもんはね、十年、二十年先を見据えて今を生きるものさ」
「十年後に僕が生きていればね」
コルネリアの人生観とエルニカの死生観は違いすぎた。彼には、自分に明るい未来があるとは全く思えなかった。そんな未来を掴みとるには、人生を逆転せねばならない。
コルネリアは、エルニカの頭を撫でた。節くれだった枯れ木のような手。だがとても暖かい。殴られることはあっても、撫でられた経験の少ない彼は、驚き、思わずその手を振り払った。
「エルニカ、生き急ぐんじゃあないよ。ここにいる限りは、あたしが守ってやる。あんたは今まで誰にも守られずに生きてきたんだ、それくらいはされてもいいはずさ。その間に工芸も魔術も学ぶといい。学んだ時間は裏切らないからね」
――守られて生きる。エルニカにとってそれは、恐ろしく生ぬるい言葉に感じられた。確かに、ここの子どもたちは、その安心感から、随分とのびのび育ち、技術もひとかどのものを身につけているように思われた。だが。
「それでも僕は、この
コルネリアは目を細めた。どこか遠くを見るような目でエルニカを見る。
エルニカは、その目で自分を見透かされているようで、居心地が悪かった。
「あんたの求める全ては、ここにもう全部あるさ」
ぽつりと呟くコルネリア。エルニカは聞こえないふりをした。それを見てコルネリアは、肩をすくめてため息をついた。
「確かにあたしの魔術が地味だというのは認めるよ。若い者には向かないかもねぇ」
コルネリアは一通の書簡をエルニカに渡した。仰々しく、赤い蝋で封印が施してある。
「紹介状だよ。それを持ってロンドンのジョン・ディー私設図書館に行きな。そこがヘルメス院の入り口の一つさ。以前話しただろう?」
ヘルメス魔術学院。魔術師の巣窟にして、魔術の研究機関。
「そこなら、あたしよりは派手な事を教えてくれるよ。あたし等はヘルメスではちょっとばかり煙たがられていてね。まともに取り合ってもらえないだろうから、それをテオドールという男に渡すんだ。そうすれば上手く取り計らってくれるだろう」
「僕に、学校に通えと?」
「学院とは言うが、本来は研究機関さ。研究者が工房で徒弟を取って、研究を手伝わせるために基礎知識を学ばせている。最近じゃあ基礎教養は一通り全員に教えてくれるみたいだがね。新たに学ばなきゃならないことは多いし、あそこのやり方についていけないかもしれない。それから、もし学院に入るにしても、週に二日はこっちに帰ってくるんだ。人手不足なんだから、あんたに抜けられると大弱りだ。それでもやるかい?」
エルニカは、他にどんな人生を歩んでもこんな好機は転がり込まないだろうと思った。
「……やるよ。それで僕は全てを手に入れる」
コルネリアは、そんなエルニカを見て、少し寂しそうな顔をした。
ロンドンに戻ることに、エルニカは緊張していた。
ジョン・ディー私設図書館。テューダー朝様式の、木と漆喰の家々が立ち並ぶロンドンの町並みにあって、完全石造りの建物は目立っていた。窓は少なく、外部からの来訪を拒絶するような威圧感がある。扉は鉄製で、異形の怪獣が
中から、黒いローブを纏った陰気な青年が顔を出す。エルニカはその雰囲気に多少なりとも気圧された。同時に、随分とそれらしいじゃないか、と期待も膨らんだ。
エルニカはテオドールなる人物への書簡を渡したが、陰気な青年はエルニカをじろじろと胡散臭いものを見るような目でねめつけるだけだった。胡散臭いのはお前の方だ! と思ったが、口には出さなかった。コルネリアの話では、うかつに彼女の名前を出すわけにはいかないのだ。しかしここで門前払いを食らってはたまらないと、エルニカは貴族相手の詐欺に使う常套句を試してみた。
「これは『さる高貴な婦人』からの書簡です。ご理解頂けますね、『非常に重要な書類』です。中を改めよう等とは思わない事です。英国で無事に生きていきたいなら」
青年は突然挙動不審気味にきょろきょろ辺りを見回すと、脂汗を滲ませた。
『さる高貴な婦人』とは、その筋では女王エリザベス一世を示す符丁として使われる。噂では、女王はお忍びで町に繰り出しては市民の声を聞き、有力者と関係を構築しているとか。そんな噂が、『高貴な婦人』と言う言葉に意味をもたらした。
「そ、それでは……これはその、じょお」
「おっと、これ以上僕に何も聞かないで下さい。多くを語ると僕の身が危ない」
青年はしばしお待ちを、と言い残すと、慌てて鉄扉を閉めて奥に引っ込んでしまった。暫く待たされた後、エルニカは中に通された。ハッタリが通じた事を、内心ほくそ笑む。
図書館の中は薄暗かった。窓は極めて小さい作り――ロマネスク時代の、やや流行遅れの建築様式である。古い教会などで見られるもので、石造りの分厚い壁に窓を開けると、開口部に重量がかかって構造が弱くなるため、窓を小さくしている。その代わり、窓の内側、室内に向けて、四方に斜めの削りが入っている。斜め方向から差す日光を、少しでも部屋に取り入れるための工夫だ。漆喰壁が隆盛した最近ではあまり作られなくなった。
「もっと明るい作りにした方が、本も読みやすいだろうに」
エルニカが話しかけると、青年は言葉を選びながら答えた。陰鬱な外見に似合わず多弁家であった。訥々とした語り口ではあるが、聞いていないことまで喋り始める。
石造りなのは防火対策である。伝説の世界最高の書庫、アレキサンドリア大図書館は火災でその蔵書を散逸したというが、ディー博士はそれを用心したらしい。博士お得意の占星術では、ロンドンも遠からず大火災に見舞われるのだとか。博士が占星術で英国の動向に影響を与えている事はエルニカも噂で知ってはいたが、先見の明のある重臣の比喩だと思っていた。本当に占いを頼りに重要な決断をしているとは……。
「なるほど、流石は高名なヘルメス院の図書館ですね。よく考えて作られている」
「あなたはなかなかの皮肉屋のようだ……確かに世界一の魔術研究機関ですが、『盗人』の悪名も名高いのはご存知でしょう……?」
青年によれば、そもそもヘルメス院は、アレキサンドリアの散逸した文献を火事場泥棒で収集し、知の殿堂としての地位を確立したのだという。中でも重要だったのが『
そのドルイドの学院が、アルトス院、通称ヴァルプルギス院と呼ばれていると聞いて、エルニカは驚いた。確か、コルネリアのファミリーネームもヴァルプルギス……ヘルメス院とコルネリアの折り合いが悪いというのも頷けた。
「さぁ……ここです……」
青年は図書館の一番奥、入り口からは死角になっている書架を力一杯押した。すると、動かされた書架の下に、隠し扉が現れた。扉を開くと、地下に続く階段が見える。
「どうぞ……」
階段を降りきったところには、石造りの狭い通路があった。真っ暗で奥は見えない。じめじめと湿気がこもっており、カビ臭い。ひんやりとした空気が肌を撫でる。
「……光よ……」
青年が何事か呟いたが、エルニカにはうまく聞き取れなかった。両手の指を複雑に絡み合わせて、独特の動きをしている。すると、数瞬の後、青年とエルニカの前に、青白い光を放つ光の玉が現れる。エルニカはごくりと唾を呑み込む。どうやら、嘘偽りなく、ここが魔術師の巣窟であるらしい。胸が高鳴る。
通路はかなり長く続いており、途中、十字路や横道まであった。英国人は、とかく隠し部屋を作りたがる――と言うより、住宅の
「この通路はどこまで続いてるんですか?」
「……ロンドンの足下……そのほぼ全域です」
「全域? この街の?」
「……ヘルメス魔術学院とは……一つの巨大な建物の事ではなく……ロンドン中の『隠された秘密の部屋』を繋いだ……地下連絡網の事なのです……。故に『
「ちなみに、魔術師とはヘルメス院に何人くらいいるんでしたっけね?」
「ざっと……二千は下らないかと……」
なんと、エルニカが知らないだけで、魔術師はこのロンドン中にいたのだ! もしかしたら彼が盗みに入った隠し部屋のどれかは、魔術師の隠れ家だったのかもしれない。
青年の話では、出資者である貴族の邸宅の一室を使っていたり、大きな建物には持ち主さえ知らない『外に出入り口のない』部屋があり、そこを魔術師の工房として使っているのだという。
数十分も歩いたか、ようやく階段を登り、地上へ出た。そこは小さい小部屋だった――と言うより、扉を開けるためだけのスペースなのだろう。四方に木の扉がある。
青年はそのうち一つをノックすると、中から声が聞こえた。
「――アルカディア」
「……オベロン」
どうやらそれは符帳のようだった。
「……では、私はこれで……」
案内が終わると、陰気な青年は元来た通路を引き返していった。
暫くして木の扉が開かれ、中から禿頭の中年男が現れた。
「君がエルニカ君だね。私はテオドール。古い知己には『アイデクセ』と呼ばれている」
アイデクセ――テオドールは、先程の陰気な青年と同じように、黒いローブに身を包んでいた。落ちくぼんだ眼窩にこけた頬、やせた体に眉毛のない顔は如何にも陰気だが、表情は朗らかで、顔の造作を印象で補うことに成功している。
「まぁ、入ってくれたまえ。散らかっているが」
中に入ると、思いのほか広い部屋だった。窓はあり明るいが、擦り硝子が嵌められ、外の様子は見えない。板張りの床は歩くと軋む。部屋の片側の壁は全て本や書簡で埋め尽くされており、反対側にはビーカーやフラスコなどが所狭しと並んでいる。
テオはエルニカに部屋の中央にあるテーブルの席を勧めた。
「君がヘルメス院に加わりたいのは分かった。なぜこんな外道魔道の巣窟に来たのかについては聞くまい。皆、様々な事情を抱えてここにいるのでね。ただ、覚えておいて欲しいのは、コルネリアにしろ私にしろ、後ろ盾としては今一つだ、と言うことだ」
エルニカは、その台詞に幾らか不安を覚え、どう反応したらいいか一瞬考えたが、とりあえず猫を被ることにした。
「コルネリアの話は聞いていますよ、過去にヘルメス院と争った一派なんですって?」
朗らかな声、明るい表情、憎めない仕草。彼が詐欺を働くときに被る、特別性の仮面。
後ろ盾として弱くとも、王宮への糸があるのなら、いくら細かろうと掴んでおかなければならない。ここで好印象を与えておく事がひとまず大事と考えた。
「テオさんも、その――ヴァルプルギスの一派なんですかね?」
「テオで良い。それと
エルニカは、猫を被ったことを悟られたと感じたが、そのまま被り続けることにした。ボロを出すことが得策だとは思えない。
「私は魔女
「それでも支援者がいるというのは心強い事です」
エルニカはにっこりと笑ったが、
「それを抜きにしても、我々の学派は元々少数派だ。学院における発言力は弱いのだよ」
「学派?」
「
「僕は、悪魔とか妖精の力を借りたものこそが魔法だと思っていましたけど」
「おとぎ話ならね。現実は違う。魔術師の主流は、世界の理を解き明かし、絶対普遍の真理に辿り着こうとする
エルニカは、もしそれが本当なら、その鏡写しの世界にいる自分は、このゴミ溜めのような世界でひねくれて
「君は私の手引きでヘルメス院に入学する事はできる。だが、その後は後ろ盾に期待せず、実力でひとかどの魔術師にならねばならない。それでも――足を踏み入れるかね」
コルネリアに続き、二度目の試しの言葉。エルニカの答えは決まっていた。
「僕に選択肢はありません。それが唯一、僕の人生を逆転できるやり方だと思うので」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます