オレンジ

深海冴祈

本編

 夕日のオレンジに包まれた、机と椅子ばかりが並ぶ殺風景な教室。通常の教室の三分二程度の広さしかないこの教室は、長らく空き教室だったのだが、今年からは文芸部の部室として使用されている。

 僕は「君はつまらないことばかり言うからね」という理由で、今机をくっつけて僕の目の前に座っている女子生徒の話し相手に選ばれた。彼女に言わせれば、どうやら僕はこの教室と同じく、無味乾燥という言葉がお似合いな男子生徒のようだ。

「どうぞ、好きに話してくれ」

 夕日が眩しいのか、彼女は机の上に置いてあった文庫本を手にして、顔元に影を作った。顔色は分からなくなったが、制服の半袖からスラリと伸びて文庫本を掲げている彼女の右腕が、窓から射し込むオレンジを輝かしく映せるほどに白く綺麗な肌の持ち主であることを教えてくれる。

 実質、たった一人の文芸部員にして、文芸部部長。そして、僕の四十名ほどいるクラスメイトの内の一人。それが僕の知る彼女。他の文芸部員は、たった一枚の紙切れで、文芸部に所属していることを形だけ主張している幽霊部員なのだそうだ。

 ――自分の所属がどこなのか明らかであって、それが嫌なものでなく、本人もそれでよしとしているなら、それでいいじゃないか。

 以前、彼女はそんなことを言っていた。

 ――私はのらりくらりとこの学園生活をおくりたいから、私の学園生活が邪魔されない限りは、幽霊部員とも呼称されている彼らの学園生活を邪魔する気もないよ。一人で気楽にやるさ。

 幽霊部員ばかりの部活をいつまで続けられるか分からないが、先生に何かと上手く言ってやり過ごせている彼女の姿を見る限り、案外彼女ならこの文芸部を卒業まで続けられるのではないかと僕は思う。

「好きに話せって言われても……」

 僕は後に続く言葉がなくて口をモゴモゴさせる。彼女は文庫本の影で、一層深みを増し、だけど強く秘めた輝きのある黒い瞳を僕に向けた。

 もしかしたら僕の心中を見透かしてしまうのではないかという畏れさえ抱かせてしまう彼女の瞳が、僕の心臓を跳ねさせた。僕の脈拍を上げた彼女は、一呼吸置いて椅子から立った。

「眩しいね。カーテンを閉めよう」

 文庫本を机に置き、眩しそうに眉間にシワを寄せながら窓へと向かう。彼女がカーテンを掴むと、シャッという軽い音と共に教室を染めていたオレンジ色がカーテンによって遮られた。代わりに蛍光灯の白い光が教室を包む。

 こうして白い光りの下で見ると、彼女がいかに白と黒のコントラストがハッキリした少女であることが分かる。絹のように艶やかで長い黒髪。白玉のように滑らかな肌。黒く長い睫に縁取られた眼。汚れのなさを感じさせる無垢な白さのセーラー服。その衿の縁を直角に曲がりながら走る一本の黒いライン。蝋のように白く透き通った手足。彼女の動きに合わせて、広がっては閉じる黒いプリーツのスカート。彼女という白と黒の中心には、冴えるような紅いスカーフ。

 顔に白粉おしろいを塗した後、柔らかな唇とその割れ目を、薬指でゆっくりなぞって艶紅つやべにをさすように、紅いスカーフは白と黒を身に纏う彼女全体の存在をヴィヴィッドに主張させていた。口調こそ少女らしさはないものの、胸元を遠慮がちに隆起させる二房の存在が、決してサイズが大きくはないのにも関わらず、妙に女性性というものを感じさせてくる。

 その肌があまりに白くて、彼女が座ってじっとしていると死んでいるように見える時がある。しかしながら、クラスメイトと笑顔で話す彼女は生命の輝きそのものを身に纏ったかのように、誰よりも生き生きしているように見える。更には、ふとした時、彼女は男性のように見える瞬間がある。それは「男性的」「女性的」という表現を超えたものを感じさせた。確かに彼女は可愛い女性ではないが、美人であることは間違いないだろう。しかし、そこに女性臭さはなく、かといって男性臭さもないのだ。時折、どちらかの性別が彼女からほんのり香って、奇妙なトキメキじみた感情を起こさせる。

 それは、第二次性徴期が訪れないまま、この年齢まで育ったような、中性という言葉だけでは形容しきれないものだった。あらゆる性を放棄しているのに、あらゆる性を兼ね備えている。更には生と死さえも彼女の中で共存している。彼女はしばしば英国紳士のようであったり、深窓の令嬢であったり、聖母のようだと思えば英雄のようであったり、死体であり生者でもあり、少年であり少女なのだ。

 彼女を花で例えるなら、白百合マドンナリリーのようだ。僕は個人的に、百合の花は無駄のない綺麗なラインをしていると思っている。無駄はないが、不足もないのだ。白百合の花は、パンジーのように可愛いわけではない。かと言って、薔薇のような華やかさがあるわけでもない。桜のように可憐でもない。白百合は色も白く、花弁が多いわけでもなく、葉も笹のようにスラッとしていて、シンプルでありながら綺麗なのだ。そこにあるのは、独特の強い匂いと、凛とした佇まい。

 彼女は、性別という概念を消し去ったような、そして、白と黒を兼ね備えたような、彼女独特の個性という強い香りを持つ白百合の花だ。それに比べて僕はその辺に生えている雑草といったところだ。それもたぶん、ぺんぺん草。

「僕が話したところで、つまらないことなんでしょう?」

 無味乾燥な教室に、ぺんぺん草。そこに、芳しい香りを放つ一輪の白百合の花。彼女だけが凛と存在し、僕と教室はただのぼんやりとした背景のようだ。彼女は元居た僕の前の席に座り、文庫本の表紙を撫でる。

「つまらないからこそ、君を選んだんだよ」

 顔を文庫本に向けたまま、瞳だけを僕に向けて言った。彼女が瞬きをする。瞼が閉じられてから再び開くまでの刹那、僕に彼女の瞳が向けられているのは勘違いで、本当は文庫本に向けられているんじゃないかと考えていた。でも違った。瞼が開かれると、彼女はやはり真っ直ぐ背景のような僕を捉えていた。

「今、君はこの文庫本より私の興味を引いていることも確かなことだよ」

 彼女はまるで、僕の刹那の考えを見透かしているかのようだった。今度は顔も真っ直ぐ僕に向ける彼女。

「ショートストーリーを書きたいんだ」

「ショートストーリー? で、なんで僕? なんでショートストーリー?」

 僕の頭の中はクエスチョンマークで埋まってしまった。

「今回書きたい作品は長い話にはしたくないからね。私はね、中身がありすぎると、どうも長々書きたくなってしまうんだ。だから、何気ない、つまらないものなら短く書けるんじゃないかと思ったのさ。それで、つまらないことばかり言う君との会話を話にすることにした。ショートストーリーを書きたくなったのは、短く手軽に読める作品を書く技術を身につけたいからだよ」

 僕の溢れんばかりのクエスチョンに対し、彼女は嫌な顔もせずに答えた。

 彼女は小さく息を吸う。その微かな音が聞こえるほど、教室は透明なまでに森閑しんかんとしていた。その静けさは、森の奥にある、透視度の高い湖の中に居るかのようだ。湖の底には沈水ちんすい植物の花が咲き、彼女は金魚の尾ように制服のスカートとスカーフを寛雅かんがに揺らしならが、緩徐かんじょに泳いでいる。

「私は、君のことをつまらないと言ったせいで、多少なりと落ち込ませてしまっただろうね」

 彼女は申し訳なさそうに目を伏せた。僕は苦笑を浮かべる。

「自分が無個性すぎて、自己紹介欄にも無個性としか書きようがないよ。みんな、こんなにも個性的なのに、どうして僕はこんなにも何もないのだろうと考えてしまうね」

「不謹慎かもしれないが、今私は君の無個性さに助けられているよ」

 言い終えると、少し考え込み始める彼女。

「納得のいかなさは、人を百年眠らせるんだよ」

 しばしの沈黙の後に発せられた彼女の言葉が理解できず、僕は首を傾げた。そんな僕を視認すると、彼女は口を再び開いて話を続けた。

「白雪姫の場合は、白雪姫に『最も美しい女性』というポジションを奪われたお妃様の嫉妬が、白雪姫を殺してしまったのだけど、すぐに生き返った。だが、眠り姫の場合は、『私だけがパーティーに招待されなかった』という納得のいかなさから来る魔女の妬みのせいで、死にはしなかったが百年間目覚めなかった。嫉妬と妬みは似ているが、嫉妬は殺してしまっても生き返る。妬みは殺せないが長期間眠らせてしまう。日常会話では嫉妬も妬みも混同されて使用されがちではあるものの、私としては質の違う感情を表す言葉だと思っているんだ。嫉妬は、他者に奪われる恐怖や不安から生じる敵意的な感情だが、妬みは欲しいものが手に入らなかった納得のいかなさから生じる敵意的な感情。例えば、あるアイドルが結婚した時に、『こんな奴は結婚相手に相応しくない』と納得できなければ、妬みの感情が生じるだろうが、『この人であれば確かに相応しい相手だ』と納得できれば、妬みの感情は生じないだろう」

「確かに、納得していたら妬まないね」

「君がもし、無個性であることに納得のいかなさを感じているなら、いつか誰かを眠らせることになるかもしれないね。――いや、眠るのは君自身という可能性もあるね。自分自身の妬みの感情によって眠らされるのかもしれない」

 自分自身に眠らされるなんて、おかしなことを言う、と僕は思った。同時に、もし自分自身に眠らされてしまった場合、僕はどうなるのだろう? という疑問が浮かんだ。

「僕が眠ったら誰が目覚めさせてくれるんだろう?」

「眠ってしまった君を救うのは君自身かカイロスだろうね」

 思ってもみなかった彼女の回答に、僕は思わず噴き出した。

「自分自身って何? 自己完結じゃん」

 腹を抱えて笑う僕を、彼女は黙ってしばらく見つめていた。僕の笑いが落ち着いてきたぐらいに口を開く。

「外界と自分との間で摩擦があった後、内界でそういった内なる自分自身との遭遇によって、人は一皮剥けていくものだよ。自分自身との接触と衝突がなければ、一皮剥けないだろうね。そこにあるのは停滞さ。だから、常に内省し、自己との遭遇に備えねばならない」

 彼女は、笑う僕に対して気を悪くした風でもなく、真剣さだけを感じさせる表情で語った。熱を帯びる耳。笑ってしまった自分が恥ずかしくなって俯いた。少し間があった後、彼女はパンっと手を叩き、「次に移ろう」と言った。彼女の唇が美しく弧を描く。

「こうしている間にも物語は進んでいる。君はどう進めたい? どう進みたい?」

 眼を細めて微笑む彼女。狐のようだ、と僕は思った。安倍晴明の母親、くずの葉はこんな笑い方をするのかもしれない。

「主人公は君さ」

「でも、この話の神様は僕じゃなく、キミだろ」

 僕の発言に、ハハッと彼女は笑う。

「ごもっとも。ペンを握り、物語を綴る私は神様だ。しかし、物語というものは何もかも神様の思い通りというわけではないんだよ」

「よく作家が、『登場人物が勝手に動く』とか言うね」

「そう。今回はあらゆる設定がない。私の名前も、君の名前も、年齢も、地域も、生い立ちも。だから、私も君も自由に動ける。なんだったらここまで出てきた設定を全部変えてしまったっていいんだ。ここは教室ではなく、実は夢で、君はベッドの上とか、よくある夢オチってやつさ。ステージを選んだのは私だが、そのステージをどう使うかは君次第なんだ。教室は教室でも、外の世界は崩壊していて、世界で唯一残された安全な場所だったりして……ね? ここからどうするかによって、私と君の可能性や物語が広がっていくんだよ」

 彼女の瞳に僕が映る。僕の瞳にも彼女が映っているだろう。彼女の瞳の中にいる僕の瞳には彼女がいて、また奥に僕がいて……。嗚呼……吸い込まれるとは、このことか。

 瞳の奥へ、奥へと誘われる感覚に、熱い溜め息が漏れた。ただ、彼女の瞳を見つめているだけなのに、恍惚じみた、だけど性的なそれよりももっと崇高で甘美な電流が、僕の躰をピリピリ伝った。彼女を通して僕という存在が構築されていくようだ。きっとそれは僕が感じている以上に確信的なものだろう。何故なら彼女は神様なのだから。彼女を通して僕が構築されているのだ。

「僕の名前は光源氏ですって言ってもいいわけだ」

「いいね。ひかきみとでも呼ぼうか?」

「やめてくれ」

 真顔で即答した僕が滑稽だったのか、彼女はまたハハッと笑った。

「まあ、確かに私は神様だ。しかし、私は形だけの神様だよ。神様という役割を与えられている、ただの登場人物なんだ」

「物語を書くのは今現在、僕と話しているキミじゃなく、未来のキミだから?」

「……それもあるね」

 歯切れの悪い返事。一瞬ではあるが、彼女の存在もぼんやりしたような気がした。しかし、彼女の百合を彷彿させる強い個性香りは、その一瞬でさえハッキリ存在し続けた。

 束の間であれ、自分が朧気になったことに彼女自身も気付いたのか分からないが、彼女は何か行動しようと、下ろしていた手を上げる。何も目的もなく宙をさまよいかけたその手で髪を梳き始めた。白い五本の指と指の間を黒髪が滑らかにすり抜ける。それは黒い川のように、水面をキラキラ反射させながら分かれて、また一つに纏まる。からす羽色ばいろ。古くは女性の美しい黒髪を鴉の羽に例えた。いにしえの時代に黒髪を見て和歌を詠みたくなった者の心情と、今の僕の心情はきっと同じものだろう。

「……作品は読者に読まれて初めて完成する。作者は読者に材料を提供しているだけなんだよ」

 手櫛で髪を梳くのをやめ、彼女が口を開いた。

「材料?」

「たとえば、ここには文庫本や机や椅子があるね」

 彼女は両手を広げて、教室にある机や椅子、そして机の上に乗った文庫本を指した。顎に手を当て、なんとなく難しい顔をしながら頷く僕。

「ふむ。確かに」

 今の僕は、ポーズと返事だけは一人前だが、頭の中はさっぱり何も考えていない。後に続く彼女の言葉を、一人前なポーズをキメて待っている。

「どんな机なのか、どんな椅子なのかという描写がなかったとしても、学校という舞台から、おおよその読者たちは茶色い木製の板にパイプの足がついた机と椅子を思い浮かべながら読むだろう 。この文庫本がどんなタイトルで、どんな表紙なのか、作中の文章で記していなくても、読者は各々それらしい文庫本を思い浮かべながら読むだろう。君の姿も、成績も顔も冴えない男子生徒のイメージで読んでいる読者もいれば、成績優秀のイケメンのイメージで読んでいる読者もいるかもしれない。私の顔だって、読者によって思い描いている顔はそれぞれ別人の顔をしていることだろう」

 僕は彼女の言いたいことがハッキリ理解できず、眉をひそめ、表情だけで、「つまり、どういうこと?」と彼女に訊ねた。

「赤い薔薇と言われて、私が想像する薔薇と、君が想像する薔薇は別物だということさ。分かりやすく説明すると、赤い薔薇というキーワードは粘土みたいな材料なんだ。粘土を与えられた私と君はそれぞれ勝手に頭の中で捏ねて、赤い薔薇とはこんなものだろう、と形にするんだ」

「……イデア?」

「赤い薔薇たらしめる原型という意味では、私と君とでは、赤い薔薇のイデアが違う形をしているといったところかな? ただしプラトンは、イデアは共通のものだと考えているね。まず、イデアが万国共通のものなのかまでは私は知らないのだけど、ここで言いたいのは『言葉』から来るものだからね。色にしても、国によって赤色の範囲がバラバラであったり、日本では名前がつけられている色も、よその国ではその色に名前がなかったりする。別の『言葉』を使って指し示している以上、イデアというより、その人自身が持つ当たり前や常識のようなものかな。葱と聞いて、青葱を思い描くか、長葱を思い描くか、もしくは切り刻まれた後の葱を思い浮かべるかは人によって違うのと同じさ」

 プラトンのイデア論の話かと思ったが、どうやら違ったようだ。

「材料を提供している以上、作者は読者に分かった気にさせるスキルも必要なんだ」

 彼女の発言が今ひとつ理解できず、僕は首を傾げる。

「分かった気にさせる?」

「そうだね。例えば、こんな問題を知っているかな? 『ある有名な凄腕外科医Aがいます。Aは他の外科医からも一目置かれるほどの実力の持ち主です。Aは結婚しておりましたが、三か月前に離婚しました。Aの子どもは話し合いの結果、父方の苗字を名乗ることになりました。ある日、交通事故で重症を負った子どもが運ばれてきました。その子どもはAと苗字が違っていました。看護師たちは子どもを見たとき、Aの子どもではないだろうと思って、Aにその子どもを見せました。しかし、Aはその子どもを見て驚きました。その子がAの子どもだったからです』 この話で、何か気づいたことはない?」

「……子どもが苗字を偽った?」

「違うよ。となると、君はAの性別は男性だと思っていないかい?」

「Aは男性じゃないの?」

「男性とは言っていないよ。Aの性別は女性で、その子どもの母親だったんだ。看護師たちは苗字が違っただけではなく、Aの子どもの顔も名前も知らなかったから、まさかその子どもがAの子どもだとは思わなかった。君は凄腕外科医と聞いて、男性医師をイメージしたのだろうね」

「それが、分かった気にさせるってこと?」

「そう。ここにある文庫本や机や椅子も同じく、少なからず読者に分かった気にさせないと、小説は書けないよ。特にファンタジー小説なんか、現実にないものを書いていくからね。分かった気にさせなければ、物語を進められない。読者も分かった気にならなければ、物語を読み進められない」

 一呼吸置いて、フフッと笑う彼女。これまでの笑い方とは明らかに違う。口元だけが薄気味悪く笑みを浮かべている。眼も、雰囲気も、とても笑顔とは言い難い。

「君だって、既に分かった気にさせられているかもしれないよ?」

 彼女の影が濃くなった気がした。美しく弧を描く唇が、つり上がった口角が、盛り上がった頬が、細めた目の下でぷっくり膨らんだ涙袋が、彼女の顔に不気味な陰影を作る。キラキラ輝いていた光りが消えていくように、闇のとばりが降りてくるように、世界の色味が重くなった。

「登場人物はみんな作者の分身。知り合いをモデルに描いたとしても、それは作者に一度取り込まれた知り合いなんだ。知り合いそのものではない。作者を媒介にして変化した別物。モデルの有無に関わらず登場人物の姿にしてもそうさ。作者が登場人物の姿を描いても、文章である以上、どこか曖昧な形しか保てない。形は読者を媒介にして変化する。読者によって別物の姿をした登場人物がいる。大ざっぱには同じかもしれない。似ているかもしれない。でも、同じ登場人物であるにも関わらず同じ姿ではないよね。確かにあるのは、登場人物の個性だけなんだよ」

 彼女が何かの真相に迫り始めた。僕は、得体の知れないどす黒いものが床から這い上がってくるような感覚に吐き気がしてきた。

「いいかい? この話は君が主人公。書くのは私」

「それが……それが何だって言うんだ……」

 床の木目が、僕を見ている。じっとりと背中を伝う汗。飲み込む生唾。さっきまではただの木目だったのに、今はじっと椅子に座っている僕を観察する眼球に見える。そして、眼は床だけではない――

「気付かない? それとも、気付きたくないのかな?」

 相変わらず僕を映す彼女の瞳。彼女の瞳にいる僕は、口を一文字にし、堅い表情をしていた。窓の外からは、オレンジ色が消えていた。

「何が言いたい!」

 僕は投げ捨てるように言葉を吐いた。胸焼けがする。喉の奥から口内に苦味が広がっていく。気を抜けば胃液をぶちまけそうだ。

「物語に登場するためには作者に取り込まれなきゃね。君は私に食べられるんだよ」


 ガタン!


 何かが倒れる音。気付けば僕は立ち上がっていた。僕の後ろでは椅子が仰向けに倒れて、天井を仰ぎ見ている。彼女を見下ろし、何か言おうとするが、言葉が出ない。何を言いたいのかも分からないが、僕は何かを彼女に言いたい。何か訴えなければならない。頭が真っ白だ。僕の頭の中身をこの教室に展開させることができれば、きっとこの教室は純白の教室へと変貌するだろう。

 彼女は僕を見上げる。見上げているのに、彼女の瞳を見つめていると、僕の方が彼女を見上げているような錯覚を覚える。

「この物語は君が主人公なんだ。だから、私の視点で物語を書くわけにはいかないだろう?」

 そうだ。そこがおかしかったのだ。

 彼女が大きくなっていく。教室全体が、いや、この物語の世界が魚眼レンズのように歪んでいく。

「ありがたくいただくよ」

 ニンマリ笑う彼女。魚眼レンズ越しに見るように、顔ばかりが巨大化した彼女の口は、僕を飲み込むには充分な大きさだった。この時、僕は何を思っていたのだろうか。自分が何を感じているのか分からない。ただ、彼女に食べられるということだけを理解していた。僕が恐怖しているのか、はたまた陶酔とうすいしているのか、そんなことはどうでもいいことだったのかもしれない。

「いただきます」

 彼女は律儀に食前の挨拶をしてから、僕を一口に嚥下した。ごっくん。

 この物語に登場する僕は、彼女というフィルターを通して生まれた別人だ。だけどやはり、この物語の主人公は『僕』のようだ。食べられては、また彼女と話すことを繰り返す。合わせ鏡のように、僕の瞳に映る彼女の瞳の中の僕の瞳ように、延々僕は少しずつ小さくなりながらも作品の中へ、中へと潜っていくのだろう。僕は決して零にはならないが、のべつまくなしゼロに近付き続けるのだ。反比例の端のように、小さく、小さく、小さく……。

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オレンジ 深海冴祈 @SakiFukami

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