無題(断片倉庫)
Umehara
第1話 虫
虫も、殺せない子どもでしたが、優しかったわけではありませんでした。優しい人の比喩としての「虫も殺せない」という表現は、恐ろしく語弊がある、と私は常々思っております。虫も殺せない子どもでした。「人も虫も同じ命」だと教え諭すことは「人と虫は違う」と思っている人に対しては意味を成しますがもともと人と虫けらの違いのわからぬ幼子にとって、その教えは害悪にしかなりません。人は、虫ではありません。幼い私にはそれがわかりませんでした。
いつからそう思い始めたのか、誰かにそう教えられたのか、判然といたしませんが、物心ついたときにはすでに、殺生をひどく恐れておりまして、蚊を殺すにも大泣きをするので、両親はひどく閉口したと言います。アリ、ゴキブリ、蛾、ムカデ、ネズミ、害虫害獣と言われる生き物の命と自分の命の境目がわからず、ゴキブリですら殺さないで、生きて逃がしてと叫ぶありさま、清潔な生活には虫を殺すこともやむをえませんが、清潔な生活のために不潔な人間を殺していいのかという人と虫とを区別せぬ理屈のために、私はひたすら虫の死を嫌いました。虫が好きだったわけではありません、むしろ嫌いでした、大嫌いでした、けれどそれと殺すこととは違います、嫌いな人間がいたとして、触れるのもいやなものがいたとして、それの死を望むかと言えばそうではなく、領分を侵さずに生きておれば事足りる、領分が交わることがあればそれをなんとか切り分けて、触れることのないようにするというのが、虫と私の理想の距離感でありました。
虫を殺さないでと叫ぶのは博愛精神でもなんでもありませんでした。人の気持ちになりなさい、自分に置き換えて考えなさいを真に受けて、茹でられるアサリ、ネズミ取りにはりついたまま餓死するネズミの親子、潰れた腹から卵をはみ出させてもがくゴキブリ、そういったものを自分に置き換え、親に置き換え、弟に置き換えして泣きました。痛い痛い恐ろしいと言って泣きました。前世がもしあるとしたら、私は虫けらだったのかもしれないと思うぐらいに、事実、虫けらを見ながら、誰々の生まれ変わりかもしれないなどと、今でも思うことがございます。
いちばんおそろしかったのは、アリの焼かれるときでございました。家の生け垣に捨てられていた、カップラーメンの空き容器に、びっしりとアリがたかっていました。その様はひどく気持ちわるくて嫌悪の情を催したのですが、それを捨てるということはさらに恐ろしいことでした。庭掃除をしていた父は、それを拾い上げ中を見て、虫がびっしりたかっているのを見てゴミ捨て場に出せばさらにひどいことになりかねないと判断し、家の裏庭の焼却炉の中に放り込んだのでありました。
そのころ、九十年になったかならないかの頃だと思いますが、まだダイオキシンなど問題にされず、学校では当たり前のようにゴミが燃やされ、一般家庭でも昔からの農家などには、焼却炉があることが少なくありませんでした。我が家も例に漏れず、落ち葉、枯れ草、まれに紙屑、そういったものを、集めて燃やしていたのですが、その焼却炉は蓋がなく、むき出しの炎が上へ上へと上がっておりまして、それが幼心にひどく恐ろしく思えました。火は、ややもすると家に、木々に、燃え移るように見えまして、落ちるはずもないのに私がその炉の中に落ちて焼けてしまう様子などを繰り返し想像してしまいまして、枯れ葉を燃やした日の夜などは、くすぶっている残り火が家に移るのではないかと怯えて、けれど夜闇の中を自分で確かめることもできなくて、親に何度も何度も消えてる?本当に消えている?と尋ね続けてやはりまた閉口させ、しまいにはじゃあ自分で見てこいと閉め出され、裏の戸口の外で号泣する羽目になるのでした。泣きながら怯えていたのは、夜闇と炎、けれど自分の目で確かめるのは恐ろしく、確かめないからますます背後に何者かが迫っているように思えてきて、私はますます前後不覚に怖い怖いと泣き叫ぶのでありました。
その焼却炉に放り込まれた空き容器、やめて燃やさないでと号泣する私を「また疳の虫がでている」と笑いながら、ほれ、と虫がびっしりとついた空き容器を私の顔の前に突き出します。殺さないでと叫ぶ私が、虫を嫌っていること、そのびっしりとアリのたかった空き容器に触れることすらできないことを父は知っているのでした。容器の内側にびっしりと並んだアリはとても気持ち悪く見えました。私はますます癇癪を起こしたように泣きじゃくり、ガスが出るよと祖母が私を引き寄せ、私は祖母の腕の中から、熱から逃げようとするのか動きの激しくなったアリたちが火から逃れようとするのしているのに火に飛び込んでいくさまを見つめていました。プラスチックは燃える、というよりも溶けるのですがその黒くなった部分がどんどん、どんどん、アリたちが逃げ惑うところを侵食していくさまを、見つめていたのでした。
無題(断片倉庫) Umehara @akeri
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