ガラスの上の芸
二石臼杵
ひび割れない芸
銀色のミラーボールと、赤青黄のスポットライトがめまぐるしく暗闇を照らす。
人の姿が見えるのは光に当たったときだけ。四つの光はどれもじっとできないのか、忙しなく動き回り、その度にあたしの目に映る人も次から次へと変わっていった。
周りを暗幕に覆われ、最奥の舞台と、そこから放射状に広がる椅子が所狭しと並ぶこの特設ステージは、野球でもできそうな広さを持っていた。
高い天井に設置されたスピーカーから流れるR&Bの曲が、まんべんなく会場内に響きわたる。
観衆の熱気と大音量のBGMを不快に感じながら、あたしは舞台に最も近い一番前の席に座った。
舞台の上では、唯一動かない白のスポットライトを受けながら、タキシード姿の男が剣を飲み込んでいる。横に設けられた審査員席から向けられる三人の視線に、多少緊張しているようだ。
無理もない。今この場で行われているのは、世界規模のマジシャンコンテストなのだから。
そうこう考えているうちに、タキシード姿の男は剣を柄の部分まで飲み込んでいた。その後、ビデオの逆再生を見ているかのように口から剣を引き抜くと、一礼して舞台を去った。
体内に収まるはずのない長さの剣を脇に抱えて、満足げに歩いていく男。あたしは彼に対し、上辺だけの拍手と冷ややかな視線を送った。彼の持つ剣には唾液など付いていない。
当然だ。あの剣の刀身は柔らかくしなる薄い金属で出来ていて、飲み込む動作をすると同時に、メジャーの原理で柄の中に収納されたに過ぎないのだから。
このことを今、ここで観客や審査員たちに大声で教えてやったら、いったいどれほどの衝撃が走るだろう! どれほど会場内が困惑に包まれるだろう!
高鳴る胸を落ち着かせようと横の飲み物に手を伸ばすと、ちょうど赤のスポットライトがあたしの体を横切るところだった。
レモンサワーの入ったグラス。薄くマニキュアを塗った爪。金色のブレスレットに白い腕。控え目のレースであしらわれたベージュのドレス。そのどれもかれもが、一瞬だけ赤く染め上げられた。
父さんからもらったブレスレットも、今のあたしの心を映し出すかのように、紅に燃えあがる。あたしはそれを握りしめ、心の中で静かに、けれど強く決意した。
――そうだ。こんなちんけな手品のタネを明かしても意味がない。かつて父さんがそうされたように、人生を狂わせるほどの大きなタネ明かしをしないと……!
改めて今この場にいる理由を思い出したあたしは再びステージに目を向け、とびきり派手なマジックを待つことにした。
次にステージに立った女は、自ら人間大の箱に入り、串刺しの状態から生還するという芸を見せた。
なんのことはない。これは、刃の刺し込む角度と位置を調整することで、ギリギリ人体を傷つけないようにしているだけだ。あたしは無言で拍手を送り、見過ごすことにした。
続いて現れた青年は、コインの瞬間移動をやってのけた。机の上のコインを右手の平で隠すと、何も無かった左の方の手の下からコインが出現する。
これも単純だ。右手にはめられた指輪が磁石で出来ていて、コインを引き付けたんだ。あとは、あらかじめ左手の中に仕込んでいた見た目の同じコインを見せてやればいい。あたしはこの青年も見送った。
しょうもないマジックが続いて、いい加減苛々が頂点に達しそうだったとき。突然、ステージの床がゆっくりと開いた。
左右に割れていく床の向こうには、なみなみと水の張ってある巨大な水槽があった。そして、一人の男が歓声とともに登場して、地を歩くようにゆったりと水面の上を進んでみせた。
これだ!
あたしはそう確信して、とっさに席を立ち、叫ぶ。
「こんなの、水の中にある見えないガラスの箱の上を歩いてるだけじゃないの!」
静まり返る会場。足を止め、呆気に取られて水上で立ち尽くす男。ぴしりと伸びていた背筋はこころなしか小さくなり、彼の自信がしぼんでいくのが手に取るように分かった。
でも、いくら待っても会場のムードが壊れる気配はない。観衆の「なあんだ」という、未知が既知に変わった雰囲気が訪れない。なんで誰も驚かないの? なんで誰も失望しないの?
だって、あたしの父さんは、父さんは、二年前にマジックショーの最中にタネを明かされて、マジシャンとしての何もかもを失ったのよ? 観客のたった一声で、マジシャン生命を台無しにされたのよ? この男も、そうなればいいじゃない! なんで、なんで父さんだけ!
すると、審査員席に座っていた一人の初老の男がマイクを片手に立ち上がり、言う。
「――きみは、何を見ているんだ? この大会の趣旨は、いかに上手くマジックを魅せることができるか、だ。勿論トリックも重要だが、ここはタネの見破り合いの場じゃあない。演技力とパフォーマンスを駆使する、化かし合いの場だ。きみはタネを見破ることばかりに気を取られて、彼らの努力を見ようとしていなかったんじゃないのかね?」
初老の男がそう締めくくって座ると、再び会場に活気が戻ってきた。
あたしの中の何かがしぼんでいくのを感じた。あたしは牙をもがれた気分になって、立ちつくすことしかできなかった。
力なくのろのろと舞台袖に帰っていく男の姿を見るといたたまれなくなって、あたしはふらつきながら会場を後にした。もう、舞台がどうなっているのかは分からないけれど、きっと次のマジックが続けられているのだろう。
外に出て夜風を浴びると、両目の下がひときわ冷たいのを感じる。
目の下をぬぐい、指に付いた滲んだマスカラを見て、あたしは初めて自分が泣いていることに気がついた。
……あぁ、そうだ。あたしは本当に、何も見ていなかったんだ。
父さんがマジック中にタネをばらされ、失脚した過去にばかり気を取られて。同じ苦しみを他人に与えることで、復讐とは名ばかりの逆恨みをすることに囚われて。父さんが注いでいた、マジックへの情熱と努力を知っていたはずなのに、それをないがしろにしてしまった。だからこそ、あの審査員にそれを言い当てられて悔しかったんだ。
外では、夜の帳の中に立ち並ぶホテルの明かりがひっそりと辺りを照らしていた。
対照的に、今しがた出てきた背中側のドームの光は闇を打ち消すように強く、それを受けて目の前に伸びるあたしの影は濃さを増す。
とたん、手にしているバッグが仄かな振動を伝えてきた。中を見てみると、マナーモードの携帯電話が震えている。
番号は――父さんだ。
自然、今朝交わした父さんとのやり取りが脳裏をよぎる。世界一のマジシャンコンテストが行われると知って、かたき討ちをしてくると言ったあたしと、それを止めようとする父さん。
あのとき父さんは何て言っていた? そうだ。「そんなことをしても父さんは喜ばない」だっけ。すっかり頭に血が上っていたあたしの耳には届かなかったけど、今になってその言葉が心に沁みる。
怒られるのを覚悟して、それでもやっぱり怖くなって、あたしは冷え切った携帯電話をおそるおそる耳に添える。
「もしもし」
「父さんだ。もう、タネ明かしをしたのか? 無関係な人の舞台を壊しかねない、復讐まがいのことをしたのか?」
低く、落ち着いていて、それでいてなお冷たい父さんの声が伝わってくる。これは、叱るときの声だ。
あたしは水をかけられたみたいにびくっと肩をはねて、自白する犯罪者のような気持ちで答える。
「……うん」
「そうか。……で、どうだった。成功したのかい?」
声音は厳しいまま、父さんは問いかける。
「ううん、ダメだった」
すると、今の冷たい夜が明けたかと思うほどに、父さんの声色がじんわりと温かくなっていった。
「そうか。つらかったろう? そんな思いをさせてしまって、すまなかった。よく話してくれたね。ありがとう」
あたしは思わず面食らった。
ありがとう?
そのたった一言がひどく場違いな気がして、胸の奥に引っかかる。でもそれは、不快な感触じゃなかった。
「父さんも、マジックも、悪くないよ」
自然と、そんな言葉が口から出ていた。
「あたしの方こそ――」
そこまで言いかけて、やっと気づく。
あたしが謝るべき相手は父さんじゃない。さっき感じた違和感の正体はこれだったんだ。父さんは、そのことに気づかせてくれたんだ。
「父さん。あたし、行くね。二年前からのあたしを、やり直しに」
「あぁ、行っておいで」
父さんは全部お見通しなんだろう。何も触れずに、背中を押してくれる。
あたしは携帯電話をバッグにしまい、もと来た道を逆走した。
白い息がとぎれとぎれに宙へ浮かんでは消えていって、景色が早送りみたいに流れていく。闇の中から、光あふれるドーム内へ。そして、今も熱気に包まれている会場の横を通り過ぎて、あたしは控室へ向かった。
控室の扉を前にすると、やっぱり怖さがせり上がってきた。祈るように金色のブレスレットを握り締める。少しだけ力をもらったあとに、あたしはノックして扉を開けた。
「きみは……」
中にいたのは、滑り止めのゴム底シューズと大きなガラス板を磨いている、黒スーツ姿の男。あたしに舞台を荒らされた人だ。
彼のこちらを見る目が、驚愕から怒りへと染まっていく。
「何しにきたんだ?」
あたしは一度空気を吸い込み、思いのたけを吐き出す。
「あなたに、謝りにきました……。ごめんなさい」
絞り出すように、言葉を紡ぐ。彼の表情は見えない。
あたしが非難されるのを覚悟したとき、彼は重い口を開いた。
「まったく、本当だよ」
予測していたとはいえ、その言葉がずしっとのしかかり、目に映る景色が暗くぼやけていく。
すると。
「でも、謝りにきてくれたのは嬉しいよ」
そんな温かい声が、あたしの心をほぐした。
「許して、くれるんですか?」
「そりゃあ、腹が立ったし、落ち込みもしたさ。でも、マジシャンはマジックを見破られたぐらいで崩れちゃいけない。きみに見破られたのは、まだまだ僕の練習が足りなかったからだ。それだけのことさ」
彼は鼻の頭をかきながら、そう言った。
それは――あたしのずっと求めていた答えだった。
頬を、一滴の嬉しさが伝う。
「ありっがとう、ございます」
震える声を聞いた彼は、ガラスの板をテーブルの上に置いてトランプを取りだした。
「お嬢さん。マジシャンの前で涙はいただけないな。カードマジックはいかがです? 今度は見破られないように頑張るからさ」
おどけた口調で話しかけてくるマジシャン。その姿は、いきいきとしていて、楽しそうだった。
あたしは涙をぬぐう。憑き物が落ちたように肩が軽かった。
「はい、お願いします!」
ガラスの上をなめらかにカードが舞う。マジックを純粋に楽しんで見るなんて、いつぶりだろう。
これが、あたしの望んでいたマジシャンの姿。
彼らは、いつ割れるとも知れないガラスの上に立って人を楽しませる。それはとても危うい仕事。
でも、もしガラスが割れてしまっても心配はいらない。きっとその下には、頼もしいタネも仕掛けもあるのだから。
ガラスの上の芸 二石臼杵 @Zeck
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