春爛漫
さて、天文一七年の春が来た。帰蝶殿のお子も順調に育っており、そろそろお腹が目立ち始めてきた。あたりでひと悶着あった。
「嫌じゃ、我はそなたがおればよい!」
「殿、聞き分けなされ!」
「他の女など要らぬ!」
「そういうわけにもいきませんでしょうが!」
勃発した痴話喧嘩は何のことはない。正室である帰蝶殿が妊娠しているため、彼女は側室を吉殿に勧めたのである。大名家の正室としては当然の作法であるが……吉殿が駄々をこねだした。
帰蝶殿以外の女性は不要と断言したのである。そしてそんな態度に即ブチ切れたのが帰蝶殿だった。まあ口元が緩んでいるのは見なかったことにしよう。武士の情けだ。
そうしているうちに騒ぎが信秀様や平手殿の耳にも入り、騒ぎは大きくなった。
「またあのうつけが戯けたことを言い始めた」
土豪にはこのようなうわさが流れ、尾張には再び若干ながら不穏な空気が漂い出す。美濃の姫に骨抜きにされたなどという風評も流れ出した。たしかに間違っちゃいない。
「三郎、聞き分けよ」
「そうですぞ若、多くの子をもうけることが当主の役目の一つです」
「そして親父のように問題を起こすのか? 帰蝶の腹の子が男か女かもわからぬのに」
「先に生まれた子が後を継ぐのなら問題はないともいえるが、だとすれば三郎五郎に当主を譲るか?」
「むう、自力で勝ち取って見せると言いたいが、無用な遠回りは避けたい」
「なれば聞き分けるのだ。そもそもじゃ、そなたの評判を聞きつけて側室を希望する土豪なども増えておったのだぞ?」
そう言われて吉殿の頬が若干緩む。まあ、モテてうれしくない男はまずいない。そして帰蝶殿が吉殿の尻に爪を立て、吉殿は必死に悲鳴を噛み殺す。あれだ、本音と建前って難しいよね。
吉殿は頑なに拒んでいたが、とうとう実力行使に出た。俺が家康の漢方の知識を用いて一服盛ったのだ。さらにそこに側室希望の娘たちを送り込んだ。ちと帰蝶殿が寂しげな眼をしていたのだが、自らの腹を撫でるとまた表情が和らぐ。
彼女も必死に戦国の習いと戦っている、そう思えた。平和な世であれば、幸せな夫婦として一生を過ごしたかもしれない。しかし悲しいけど、今は乱世なのよね。
死の危険を冒して戦場に立ち、負ければ妻子ともども命どころか尊厳すらも失う。そうならないためには、勝たねばならない。狗畜生と呼ばれようが勝つが武士の務めとはよく言ったものだ。敗者は全てを失う。
さて、策略はまあ、うまくいったようだ。吉殿は抜け殻のようになっており、送り込まれた娘たちは妙につやつやしている。基本的にみんな幸せだからよしとしよう。
新参の塙直政の妹や、坂氏の娘、生駒氏の後家など、バラエティは豊かだ。一度やってしまって諦めがついたのか、吉殿はその三人のところをローテーションして回っているらしい。ああ、帰蝶殿のところにはそれ以外の日だ。
「帰蝶が悋気を起して寝るときはずっとしがみついておるのだ」
うん、それただの惚気。ちょいとイラっとした。
などと他人事のように考えていた時もありました。
「松平竹千代は三郎の腹心である」
一応今川に送られたのも竹千代で、両方がうちにいるほうが本物だと主張している形になる。確かにどっちも本物だけどさ。
そして互いに、相手のところにいるのは影武者だと言っている。真相は於大の方や酒井、石川などの松平宗家重臣や、吉殿、信秀様などわずかな人間のみが知る。
そうそう、一応だが今川の方に行った竹千代経由で、父上に暗殺の備えをするように伝えてもらった。偉い坊さん辺りが夢枕に立ったとかなんとかでっち上げてもらって。
これで父上が生き延びればよし、万が一史実通り討たれるのであれば、冷たいようだが父上の武運もそれまでということだろう。
竹千代を織田に奪われても態度を変えず、策をもって奪い返し水野を味方につけた。一応水野は両方に属する形になっている。そして奪還した嫡子を人質に送ってきた。これが今川サイドから見た松平家のふるまいになるはずだ。
ある程度の疑いの目は仕方ない。だが分家は宗家に従わず、織田の影響がじわじわと西三河を蚕食し始めている。現状は岡崎周辺を何とか保っているに過ぎない、土豪レベルの勢力である。
しかし、宗家の肩書と、三河統一寸前までいった名声は利用しがいがあると考えたのだろう。吉田城に兵を入れ周囲に圧迫を加えだした。そのおかげで勢力を盛り返し始めている、らしい。
そのまま進めば、安城を巡っての抗争が始まるだろう。西三河の支配権をかけた戦いになるはずだ。
さて、話がそれた。俺にも縁談というか、その全段階というかが迫っていた。兄上が遊んでくれなくなったとお市姫が妙に俺にまとわりついてくるのだ。いつぞやの会議で権六によだれをたらされた時慰めて面倒を見た後、なんか知らんが懐かれた。
権六も俺のことを吉殿を更正させたと思っており、一目置いているようだ。つーかおっさんお市殿に懸想してたんじゃないのか? とか思って探りを入れてみたら、亡き妻との間に娘がいたらあのくらいの歳だったようだとかなんとか。
そして、「わらわを妻にしたくば相応の武勇を見せよ!」などと言って行き遅れているおつや様が権六を狙いっているとか噂が流れてきた。
なんだかなあ、春だからってあっちもこっちもお熱いことです。なんて余裕かまして、ふと朝起きたらお市姫が俺の寝床ですやすや寝ていた。
「兄上と義姉上(帰蝶殿)は一緒に寝てるの。だからわらわも竹千代と寝るのじゃー」
うん、正直に言おう。ちょっとときめいた。俺はこのまま吉殿の義弟になるルートらしい。
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