彼女がいた街

ミラ

彼女がいた街

「元気だった?」

 彼女はうつむいたまま、微かにうなずいた。

 二杯のエスプレッソが二人のテーブルに運ばれてきた。

 ひとくち飲んで、ぼくは大きなガラス窓の外に目をやった。午後の弱い陽射しのなかに、街が睡っている。人通りは少ない。静かだ。

 彼女は顔を上げ、臆病そうな視線を僕に向けた。

「もう会わないつもりだったのに」消え入りそうな声だった。

「嫌われたものだ」僕は言った。

「そうじゃないわ」

「じゃあ何だ。いつだって曖昧な言葉で逃げるんだな。ちっとも変わってない」

 何故だろう、僕はむきになっていた。あれから三年、彼女と別れてから七人の女の子と付き合った。そのほかに、一晩だけの関係なら数え切れないくらいある。

 問題はなかった。僕はどんなタイプの女の子ともうまくやった。深入りして傷つけたり傷つけられたりするのは僕の趣味ではない。

 彼女だけが違っていた。彼女の何もかもに僕は苛立ち、心をかき乱された。すると彼女はますます頑なになっていく。いつもの僕なら、さっさと手を引いているところだ。そうしなかったのは……。

「あなただって、ちっとも変わってないわよ」彼女はそう言ってから、口元を固く結んだ。

「相変わらずだな」僕はため息をついた。

「お互いにね」彼女が言った。

 僕たちは同時に笑いだした。


 海岸沿いに歩いていく。

 自動販売機で缶ビールを二本買って、並んで堤防に腰掛けた。水平線上に陸地が霞んで見える。彼女は旨そうにビールを喉に流し込んだ。白い喉元が緩やかに波打つ。

「男はいるのか」僕は思い切って尋ねてみた。

「ここにいるわ」僕を指差す。

「いま付き合ってる男だよ」

「いないわよ」彼女は海を見つめて、静かに言った。「ずっと独りだった」

 数秒の沈黙のあとで僕は言った。「強いんだ」

「臆病なだけよ」

「もしかして俺のせいかな?」

 彼女はそれには答えなかった。

「うちに来ない?」僕の肩に凭れて、囁いた。

「いいのかな」

「何か作ってあげる。おなか空いたでしょ」

「勘がいいね」


 彼女の住んでるアパートまでは、海岸通りから十五分の距離だった。僕達は緩い坂道を上っていった。

 いつのまにか陽は傾き、夕焼けが街を血のように赤く染め上げていた。

 彼女が小さな声で「見て」と言った。

 視線を追うと、前方数十メートルの路上で空気が揺らめいていた。背後の景色が歪み、何かがそこに形を取り始めていた。

 僕達は立ち止まって、その異様な光景を眺めていた。

 小さな男の子が何もない空間へ滲み出るように現れた。僕は声を上げそうになって、それを必死で飲み込んだ。

 男の子は放心したように、その場に立ちすくんでいた。そして大きな声で泣き始めた。

「かわいそうに、ひとりでやってきたのね」彼女が言った。

 そのとき建物の影から三十歳ぐらいの女が出てきて、男の子に駆け寄った。しばらく男の子を宥めているようだったが、そのうち男の子の手を引いて歩き去った。

「母親なのかな」

 彼女は首を振った。「たぶん違うわ」

「それじゃ誘拐じゃないか」

「いいのよ」何でもない、そんな口調だった。彼女はこの異常な出来事を、平然と受け止めているようだった。

「どういうことなんだ」僕は脳みそが溶け出しそうだった。

「あなたにも、もうすぐわかるわよ。さあ、家へ行きましょう」


 彼女の部屋はアパートの八階だった。エレベーターで上がっていくあいだも、不可解な思いは僕の胸にどっしりと居すわったままだった。

「待ってて。美味しいオムレツ作ってあげるから」部屋に入ると、彼女はピンクのエプロンをして、そう言った。

「手伝うよ」

「いいわよ。座ってワインでも飲んでれば?」

 窓からは海が見えた。彼女がオムレツを作っているあいだ、僕はワインをちびちびと飲みながら、さっき見た不思議な光景を思い返していた。

 料理ができて、僕たちはテーブルで向かい合って食事をした。懐かしい味だった。あの頃と何も変わってない。

 食事を終えて、僕は煙草に火をつけた。深々と吸い込み、ゆっくりと煙を吐き出した。

 彼女は頬杖をついて、僕を見ていた。妙に悲しげな顔をしていた。

 僕は突然、強烈な違和感をおぼえた。間違っている、そう思った。何故かはわからないが、彼女とこうやって過ごしていることが、ありえないことのように感じられて仕方がなかった。

 僕はあらためて彼女をじっと見つめた。彼女は三年前とまるっきり変わっていなかった。余りにも昔のままでありすぎた。

 若い僕たちにとって、三年は決して短い期間ではない。自分ではわからないが、僕だって確実に三年ぶん年を取っているはずだ。彼女には、それがない。

 僕は煙草を灰皿の上で揉み消した。何かがわかりかけてきたような気がした。

「思い出した?」彼女の言葉が記憶の扉を開かせた。思い出したくない幾つかの場面があざやかに甦ってきた。彼女がここにいるはずはなかった。彼女は死んだのだ。突然の病死。

 僕は彼女を忘れるために何人もの女の子と付き合った。でも、忘れられるはずがなかった。彼女は僕が本気で愛した、たった一人の女性なのだ。


 僕は立ち上がって、バルコニーに出た。心地よい風が吹いていた。暗い海の彼方に、遠い陸地の灯りがちらちらと輝いていた。

 彼女が隣に立った。

「あそこが、昔わたしたちが暮らしていた世界。ここが、いまわたしが住んでいる世界。よく似た世界だけど、向こうからはこちらが見えないのよ。ここは、あちらの世界に思いを残して死んだ人たちの意識の集合体なの。例えば子供を残して死んでしまった母親は、ここで対岸の灯りを見守りながら、我が子がやってくるのを待っているの。あまり永く待ちすぎると、自分の子かどうか見分けがつかなくなって、やってきた子供を見境なく引き取ったりするのよ。さっき見たでしょ。でも、それでいいのよ。思いが達せられた母親は、やっと本当の眠りにつくことができるの。ほら、あそこ」彼女は指さした。

 下の通りを、さっきの男の子と女が歩いていた。手をつないで、一緒に歌を歌っている。本当の親子のようだった。

 しばらく眺めていると、二人は背後の景色に溶け込むように、ゆっくりと消えていった。

「あちらの世界からやってきて」彼女は対岸の灯りを指差した。「ここで待ち続け、そして思いがかなえられたときに、今度こそ安らかに眠れるの。つまり、消え去るのよ」

 僕は彼女を見つめた。

「君は誰を待っているんだ」

「あなたよ、もちろん」

「僕も、死んだのか」まるで実感がなかった。

「死にかけてる。もしかしたら生き返れるかもしれない。あちらの世界に帰れるかもしれない。運がよければね。わたしにわかるのは、それだけ」彼女はバルコニーから部屋に戻った。

 僕は後を追った。「君と一緒に、ここで暮らしたい」

「そんなわけにはいかないのよ。あなたがここに留まることになっても、わたしは消えてしまうから、一緒には暮らせない。もしあなたが、あちらの世界に思いを残しているなら、あなたは一人で、その何かを待ち続けることになるの」

「そんなものはない、と思う」僕は言った。

「だとしたら二人一緒に消えていくことになるわ。わたしは嬉しいけど、あなたは本当にそれでいいのかしら」

「もし僕が生き返ったら、君はまたここで僕を待ち続けるのかい」

「ううん、もういいの。今日あなたに会えたから。わたしはもうすぐ消えていくわ」

「せっかく会えたのに、もう別れなきゃいけないのか。そんなのは、嫌だ」僕は彼女を抱きしめた。

 彼女は僕から逃れると、にっこりと笑った。

「さようなら」

 彼女の体がゆっくりと消えていった。

 僕は一人、部屋の中に取り残された。

 やがて、視界が霞んできた。僕も消えてしまうのだろうか。僕は本当に思い残したことがないのだろうか。よくわからなかった。


 気がついたとき、僕は病院のベットの上に横たわっていた。車にはねられて手術を受け、何とか命をとりとめたのだ、と看護婦に聞かされた。元の世界に帰ってきたのだ。

 僕はさっそく、その看護婦を口説きにかかった。あっさりかわされたが、なに、入院期間は三ヶ月もあるのだ。気長に取り組もう。

 病室の窓からは海が見えた。どこにも陸地は見えなかった。

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彼女がいた街 ミラ @miraxxsf

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