Chapter:033

 浅く短く荒い息は、右肩の痛みをごまかすためか、それとも忘れたくても忘れられない過去をごまかすためか。

 いや、どっちもか。

 しかしそれを意識した途端、その呼吸も意味を失った。痛みが強くなり、記憶の奥底に沈めていたはずの過去が浮き彫りになる。

 幼い頃の冬のあの日、俺があの先に行かなければ。あれを追いかけなければ。そもそも外に行かなければ、あんなことにはならなかったかもしれないのに。

 あんなことがなければ、父さんも、母さんも、死ぬこともなかったかもしれないのに。

 重なった不遇だった。

 物珍しい動物を見付けた俺がそれを追いかけて、いつもなら行かないであろう森の奥まで進んでしまったこと。そこが蛮族の巣窟だったこと。追いかけた動物こそがその蛮族だったこと。俺がまだ幼かったこと。そんな幼子を助けるために、両親は身の危険を冒してまでやってきたこと。

 いや、それだけなら、まだ不幸中の幸いの言葉で片付いたのかもしれない。

 その結果、誰よりも我が子を愛していたであろう両親を、誰よりも愛してくれていた我が子の俺が、この手で殺めてしまった。そんなことがなければ。

「綺麗じゃないですか、その剣」

 ひゅう、と口笛を鳴らす男。その目は真っ直ぐ俺の左手に握られている剣に注がれていた。

 約一メートルほど、幅およそ三センチ半の刀身は、木漏れ日を受けて薄青く輝いている。が、日の光は表面で跳ね返されるだけではなく、いくらかは内部に留まっていていつまでも乱反射している。つまり、わずかに透明なのだ。柄はペンダントの装飾と同じ色の金細工で、握りにはペンダントの紐と同じ色の革が巻かれており、その下から伝わる冷気はかすかなれど決して熱に負けることはない。

「差し詰め、氷の剣……て、ところですか」

 男は興味深そうに呟く。

 正しくその通り、これは氷の剣。ペンダントを核とし、俺の氷瓶ひょうへいの力と周辺の水分を媒体にして形を成す、俺のもうひとつの武器だ。いや。

 これこそが、俺が持つ本来の武器だ。

 男は気が済むまで剣を眺めたらしく、「さて」と言って指を鳴らした。すると、どこからともなく短剣が現れ、それを右手で握る。

「それじゃあ、お手並み拝見といきましょうか」

 そう言うや否や、男は嗤いながら飛びかかってきた。

 リーチの短さからしてみれば、男の方が間合いを詰めなればならない分不利なはずだ。しかしそれはほんの一瞬のことで、鍔迫り合いもいいところで俺が押され始めた。

 ほとんどの人に俺は剣士だと言っていなくとも、剣での戦闘を全くしていないわけではない。しかし結局、競り合うなどとは到底言えないほど、圧倒的な実力差を見せつけられた。

「その程度なんですか?」

 男は攻撃をやめないまま、にやにやと煽る。俺は、何故だと思う暇さえない。

「親を殺したっていうその力、見せてくださいよー」

 瞬間。軽口を叩く男の、どこからそんな力が出てくるのかと思えるくらい強烈な斬撃が衝撃波となって、剣を握る俺の左手を襲った。

 わずかな一瞬。しかし男にとっては決定的な一撃を浴びせるにはありあまるほどの時間、俺は身動きが取れなくなった。振りかざされる短剣が、日の光を受けて禍々しく輝く。その刃がこの身を切り裂く直前、俺は左足で強く地面を叩きつけた。かすかに地面が青く光る。

 刹那、俺と男の間に薄氷の壁が現れ、男の刃は俺に直撃せずに弾かれた。俺も追撃のチャンスではあったが、攻撃を凌ぐことで手いっぱいだった。自分の荒れる呼吸が、妙に耳につく。

 男はそんな俺の様子を見て、唐突にため息を吐いた。

「なんだ。斬りかかって来ないのか。つまんね」

 その表情は、氷などとは比べ物にならないほどに冷たい。

「あの人が気にするような人っつっても所詮はそんな程度なんですねぇ。あーあ、もうちょっと期待してたのに」

 うるせえ。俺は心の中で毒づいた。お前が不意打ちで斬りかかって来なければ、もう少し戦えた自覚はある。そもそもお手並み拝見というなら、もう充分だろう。奴は俺に対して興が冷めたようだし、このまま帰って──

「じゃあ、こうしたらもう少し頑張れます?」

「……は?」

 男は再びにやりとすると右手に持っていた短剣を自分の後方に無造作に投げ捨てた。いや、無造作というにはあまりに故意だった。短剣が突き刺さった先は、倒れているリュゼさんのすぐ近くだった。

「やっぱり自分のためなんかじゃあ駄目なんですね。あんたは仲間を盾にしないと」

 ぱちんと指を鳴らし男は短剣を召喚する。それも一本ではなく複数本。男はそれをちらつかせると、今度はオネストのすぐ側に突き立てた。

 こいつ……。俺は奥歯を噛みしめた。ふざけやがって。

「ぼけっとしてていいんですか。放っておいたらいつか大事なお仲間に刺さりますよ」

 しかし男の手は、そう言った直後に止まる。投げた剣が地面に刺さった音がしなくなったからだ。

「へえ……つまらないことを」

 男は冷めた声でそう言い振り返る。その先にあったのは今しがた俺が即席で作った氷の壁だ。そしてその壁に、一瞬でも気を取られてくれさえすれば。

 俺は渾身の力を振り絞り男へと突撃した。剣と剣のぶつかりが甲高い金属音を響かせる。男は一瞬目を瞠ったが、剣を押し返そうとはせず流れるままに後ろに引いた。

 俺は小さく舌打ちした。これで一撃でも浴びせることができればと思ったが。しかし、追撃をしようとしたその時、深く斬られた肩に衝撃にも似た痛みが走った。俺はかすかに呻き、何とか踏み留まる。

 刹那、男が狂ったように笑いだした。

「はは、はははは!」

 突然のことに俺は身を固めた。そのアンバランスな青と緑の目が、狂気と獰猛さを帯びて俺を射抜く。

「今のいいじゃないですか! そういうの見たかったんですよ!」

 口元を歪ませ笑う男は短剣を握り直す。すると、電気の走る音が聞こえたかと思うと、それは男に握られた短剣からだった。禍々しく迸る光は、少し前まで見ていたルークスさんと同じ属性の雷羴らいせんを表す黄色。

 の、はずだった。

「それじゃあ、もう少し遊びましょうか」

 狂気を孕んだ、いやに静かな声で男が宣言したその時、俺は目を疑った。

 聖星術というのは属性に応じて発動時の光の色が決まっている。例えば電気を司る雷羴らいせんなら黄色、俺が持つ氷の属性、氷瓶ひょうへいなら青、エリーが得意とする水の水魚すいぎょなら水色と言ったように、生まれつきで定められている全十二の属性は固定されている。

 しかし今、目の前で増していく光の色は、一体何だ。

 男が発動させたのは確かに雷羴らいせんの聖星術だったはずだ。なのに俺が見ている光は、眩しく輝く黄色ではない。いや、それどころか他のどの属性でもない「黒」。黒なんて色は、人工的に作られた無属性系統の聖星術でさえ該当しない。

 何だこれは。

 得体の知れない力の存在に、それでも刺すように浸食してくる恐怖に、俺は成す術もなく立ち尽くした。動かなければ殺される。だとしてもどうすれば。それ以前に何なんだこれは。

 視覚以外のすべての感覚が消えた気がした。音は聞こえない。痛みもない。ひどく不気味で恐ろしい真っ黒い雷だけが、俺のすべてを支配する。死ぬという感覚さえ知らないまま、俺はこの光の中に消えてしまうのだろうか。迫り来る黒に目を奪われる。黒い雷が高々と掲げられ、俺は死を覚悟した。

 その、瞬間。

 灰色掛かった青色が俺の視界を覆いつくした。それと機をひとつにして、あらゆる感覚が戻ってくる。左手から伝わる冷気、剣を握る感覚、やかましく響く電撃。それに負けないくらい頼もしく間近で翻るブルーグレーがゆっくりと沈み、その先に見えた光景に、俺は息を呑んだ。

「……クレア、さん」

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