Chapter:032
悪態をつきつつもクレアさんが出発してから数日。特に何もないと思われていた日常は、唐突に終わりを迎えた。
「アル!!」
聞き覚えのある、しかし聞いたことのない声。それに応えるためにと振り返った直後、俺は息を呑んだ。
「ベルナ……!?」
眼前に立つベルナは満身創痍だった。立っているのもやっとだったようで、目が合うや否やその場に座り込んだ。彼女はそのまま重力の法則に従って、倒れるように体を傾ける。慌ててそれを受け止めようとして、思いの外軽いことに少し困惑した。だが、今はそれどころではない。
何が……何で傷だらけに……どうしてこんな……一体誰が……。言葉にしきれない思考がノイズのように脳裏をかすめていく。頭が現状に追い付いていない。
それでも必死に頭を冷やし、状況を整理する。彼女がこうなった原因は、俺の及ぶところではない。しかし医務室や、ピュールさんの部屋にも行かず真っ先に俺のところに来たと言うことは──即戦力が要るということ。
ならば、リュゼさんやオネストはどうしたというのか。
「おい」
何があった。と、言いたかったが、続けることは出来なかった。続ける前に、ベルナが肩に抱き着いてきたのだ。あまりのことに戸惑う。
「……ベル」
「けて……」
「え……」
かすかな声に言葉を失う。
「お願い……みんなを、助けて……!」
悲痛な願いを聞いた俺は──ややあって、ようやく口を開いた。
「……何があった」
俺は同じ言葉を繰り返す。ベルナは顔を上げない。上げないまま、俺にしがみつくようにして声を絞り出す。
「…………知らない、黒ずくめの男が……外れの森で、突然襲撃してきたの……。オネストと、リュゼさんが応戦したけど……とんでもなく、強くて……」
喋るほど小さくなっていた声が、そこで完全に切れた。
「ベルナ!」
まさか、と意図せず声を張ってしまう。しかし当のベルナは、かすかながら呼吸にあわせて体を上下に揺れていた。
気を失っただけだと気付き、安堵の息が零れる。しかし安心してはいけない。
ベルナが指した外れの森を睨むように見詰める。
見慣れたはずの森が、今日はいやに不気味さを増したように、暗く、陰鬱に思えた。
ベルナを急いで医務室に運び、その足でピュールさんに旨を伝えて、俺は町を飛び出した。
彼女が俺のところに来たということは、リュゼさんやオネストはどうしたのか。答えはベルナが示していた。二人ともやられたのだ。その黒ずくめの男とやらに。
一体、何が起きているのか。焦る気持ちが早鐘のように心を打つのを聞きながら、とにかく走り続けた。
鬱蒼と生い茂る木々をしばらく走り続けていると、どこからともなく不気味な気配を感じた。
この先に行くなと本能が言う。しかし同時に、この先にリュゼさんとオネストがいると確信した。そして、例の男も。
ならば行かなければいけない。本能には抗うが、警戒はする。走ることから歩くことに切り替え、極力足音を立てないようして、気配のする方へ進む。
ふいに、視界が開けた。
しかしすぐには飛び出さず、茂みの中から様子を伺う。
どうやら森のなかの少し開けた場所に出たらしい。息を殺して周囲を見渡していると、かすかにうめき声が聞こえた。
そちらに目を向けた瞬間、あまりの衝撃に目を瞠った。
まず見えたのは、オネスト。俺より少しだけがたいも背も小さい身体が、誰かに首を掴まれ宙に浮いていた。呼吸もままならない状況でかすかに零したうめき声は、間違いなくオネストのものだった。
感情任せに飛び出したい思いをどうにか押し殺し、オネストを掴んでいる手を辿って、その主を見る。
身に覚えなどない、全く知らない人間。まさにベルナが言っていた、知らない黒ずくめの男そのものだっだ。
顔を見れば、アンバランスな赤と金の二色の髪に、緑の目。極めつけは人の首を締めているというのに、その口元は愉快そうに吊り上がっていた。
なぶり殺し。背筋が凍る言葉が脳裏に過ぎる。
だがここで引く訳にはいかない。その言葉を否定するために俺はここに来たのだ。頭が恐怖の色に染まる前にそう言い聞かせ、奇襲と反撃を繰り出すための方法を模索する。
奴はまだ俺に気付いていない。チャンスは一度きり。
だが、ここからでは弓は打てない。何をするにも茂みが邪魔で、行動を起こす度に草木がしなる。妙な音を立ててしまえば、相手に気付かれてしまう。
ならば、と俺は動き出す。助けるべき仲間の位置、狙うべき相手の位置。そして現状。全てを把握するためにまずは全体を見渡さなければ。
適当に登れる木を見付け、出来る限り音を立てないようにして走る。根元までたどり着いたところで、すかさず足場の確保できる場所まで登り、目を凝らす。
黒ずくめに掴まれているオネストから少し離れたところに、倒れているリュゼさんを見付けた。見たところ大きく怪我をしているとは思えないし、わずかにだが呼吸をしているのも確認できた。
もう一度男を見る。奴の興味、もとい標的は完全にオネストに向いている。なら、優先的に助けなければならないのは、今まさに襲われているオネストの方だ。
引きちぎるような勢いで右手でペンダントを握り、弓を召喚。空いた左手で氷の矢を作り、弦に添える。息を殺し、気配を殺し、狙いを定める。
まだ、気付かれてはいない。
弦に矢を引っ掛け、精一杯後ろに引く。
絶対に外さない。鋭く重い一撃を、忌々しい腕に当ててやる。その意志とともに放つ。
矢は寸分の狂いもなく、まさに吸い込まれるように黒ずくめの男の腕に向かっていく。
だが。
「なっ……!?」
息を呑んだ。
刺さると確信した刹那だった。黒ずくめの空いていた方の手が閃き、俺の矢を粉砕したのだ。
想定外の出来事に瞠目していると、狙った先だった黒ずくめの腕がオネストを離した。支えを失った少年は気を失っているのか、力が入らないのか、いずれにせよ崩れるように倒れた。
それを契機に、虚を突かれて止まっていた思考を巡らす。
気付かれた。いや気付かれていたのか。今のは弓を破壊するために腕を振ったに違いない。早急に次の手立てを考えねばと、その場にしゃがみ込む。
その瞬間、推測を立証するかのように、男が迷いなく俺を見てきた。髪色の赤や黄色とは補色に位置する緑と青。濁った異なる色の両眼にほんの一瞬気圧されてしまった。
それが命取りだった。
ハッと我に返った時には、黒ずくめの男は消えていた。見失った。その事実を理解した途端、冷や汗が吹き出す。しかし、どこに──と思う間もなく、男は再び現れた。
俺の、目の前に。
息すらつく暇もなく、男の手に握られた短剣が閃いた。かわすことは不可能だった。
短剣は深々と俺の右肩を穿ち、白いシャツ越しの切り口からは瞬く間に紅が溢れだしていく。火傷に似た衝撃が肩を襲い、右手の感覚が消えていく。
声を出す余裕はなく、しゃがみ込んだまま後ろに身を引いた俺は、足場をなくして木から落ちた。しかし不幸中の幸いか、足から地についたため余計な怪我はしていないようだ。
或いは、肩に走る感覚が強すぎて、他の怪我など気付かないのか。
右肩を抱くようにしてうずくまる俺の頭上で、喉を鳴らすような笑い声が響いた。
「片腕切り落とす勢いだったのに、あの瞬間わずかに体をずらして軌道を外すなんて……流石ですねー」
間の抜けた、或いは飄々とした声が、口調とは裏腹に恐ろしいことを言ってのける。
膝を付き、肩で息をする俺は、うずくまったまま声の主を見上げる。立っているのは、やはり見覚えのない、全身黒い服に身を包んだ男。男は、にこりと笑って言った。
「初めまして、アルシド・ニクスさん」
「…………お前は」
「ラドロって言います。いやー待ってたんですよー、あんたがやって来るのを」
ラドロと名乗った男は、倒れているリュゼさんとオネストを一瞥する。
「最初にこの町にやって来た時に、お仲間らしきこの人達に、あんたを呼んで欲しいってお願いしたんですよー。でも、みんな
はあ。と大袈裟な、芝居のような溜息。
「弱っちーのに抵抗なんかすっから、余計に怪我するんだってのに。ね?」
最後は俺への問い掛けのような口振りだったが、返事は期待していないらしい。俺が答える前にまた口を開く。
「あ、そうそう、あの桃色のお嬢さんとちゃんと出会えましたか?」
ベルナの事だと、すぐに察した。
ベルナが俺の元に駆け込んできたのは、他でもないこいつの目的のためか。
リュゼさんとオネストはここで相手をしたにも関わらず、ベルナはわざと逃がしたのか。わざわざ俺を呼ばせるために。一体何が目的なのか。
痛みと疑問で頭がいっぱいになりながらも、右肩を庇いつつゆっくりと立ち上がる。
ラドロとやらが喋り通してくれたおかげで、止血の時間を稼げた。あまり身体には良くないだろうが、今は非常時だ。そう言い訳して、肩から流れる血を凍らせることで血を止めた。しかしこんなの応急処置にもならない。早く、早く何とかしなければ。
「俺に……何の用だ」
睨みつけながら問う。男は再び笑った。
「あんたの力量を測って来いって言われましてね、ちょーっと本気で手合わせを願いたいんです」
「……誰にだ」
「そりゃあ秘密ですよ」
「手合わせって何だ」
「そのままの意味です」
「不意打ちで深手負わせておいて手合わせか」
「先にけしかけたのはそっちですよ」
思わぬ反論に苦虫を噛み潰す。
「……だったら、初めから俺一人を狙えばいいだろ。何故関係ない人を巻き込んだ」
すると今度は男が唸る番だった。バツが悪そうな顔をする。
「うーん、オレだって初めはそのつもりでしたよー。だからアルさん呼んで欲しいって頼んだんじゃないですか」
「気安くあだ名で呼ぶな」
「でも応じなかったのはアルさんのお仲間の方ですよ? 自業自得でしょ。それに」
無視して続ける男は、そう言ってにやりと口角を吊り上げた。
「仲間が誰かに傷付けられた方が、本気出しますよね?」
「…………なに?」
「どうせ適当に言い繕って、この場から逃げ仰せようとか思ってたんでしょ? 周りは戦闘不能、自分も負傷者。選択は賢いと思いますよ、普通ならね」
「普通じゃないのか」
「ええ、もちろん。ああまあ逃げたきゃどーぞ。でも、その場合誰も救えない。もしアルさんが逃げ帰るとするなら……どーしよっかなー。ひと思いに殺そうかなー、それとも嬲り殺そうかなー」
おもちゃを使ってどう遊ぶかを迷うような口。たまらず唇を噛みながら必死に右腕を動かそうとする。だが、感覚のない右手は、指一本すら上手く動かなかせなかった。
──いや、そうではなく。
「本気で、って、言いましたよね」
その言葉に、弾かれるようにして男を見上げる。
「何のためにわざわざ利き手じゃない方斬ったと思ってるんですか。偶然だと思います?」
「……お前、まさか」
まさか、待て。いや、そんなこと。知られるはずがない。だって、だってそれは、ルークスさんにしか。
「そのまさかですよ。オレの言う力量ってのは文字通りアルさんの本気。本気じゃなきゃ、意味がないんですよ」
動揺する俺を、男は核心を突く言葉を浴びせて嗤った。
「お見せ願えますかねぇ……左手」
本気の手合わせ。
左手。
こいつ、それを一体、どこで。
「ま、渋ってもいいですけど、オレそんな気ィ長くないんですよねー。言ってる意味わかりますよね?」
俺は唇を噛んだまま動こうとしない。男にとってはそれが面倒な事なのだろう。今しがたの愉快そうな声色が一転、苛立ちを帯び始めた。
「それとも、悔やんでからの方が強くなるんですかね」
冷めた声とともに男に構えられた右手には、俺の血で濡れた短剣が握られている。だがその矛先は俺ではなく、倒れている二人に向けられていた。
挑発──わかりきっていたはずだ。しかしそれ以前に体が動いていた。
金属を弾く音が森にこだまする。男の手に、短剣はない。
「……なぁんだ」
男は、再び嗤っていた。
「やればできるじゃん」
俺の左手に握られた氷のような片手剣を見て、心底愉快そうに嗤っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます