Chapter:025

 とぷん、と小さく波を立て、矢は水に突き刺さった。厳密に言えば、水の塊の中に入っていった。

 須臾の静寂。

 直後、水の中心に差し掛かっていた矢が砕け、一気に冷気が溢れ出た。瞬時に球体全体を凍らせたそれは衝撃波に似たもので、第一波は周辺の熱を根こそぎ奪うかのように氷の空間を作り上げた。次いで第二波──を思わせるように、今度は大量のガラスが砕けるようにして、再び中心から球体が崩壊していった。

 しかしそれは簡単には重力の法則に従わず、風に乗ってまるで雪のように優しく、ゆっくりとアンデッドの群れと俺達に降り注ぐ。目の前に舞い降りた雪に似た氷の結晶は、楕円だえんに近い形で、片方の先端には緑色の斑点があった。見間違えるはずがない。降り注ぐ氷は、昇華詠唱術の名の通り純潔の花スノーフレークの花弁。

 俺は両手を下ろした。もう、矢を射る必要はない。右手で握っていた弓をペンダントに戻し、首に着けながら、前方に向き直る。

 昇華詠唱術スノーフレークにより生成された氷の花弁は、音もなくアンデッドに触れると、歪な存在に終止符を打つかのように瞬く間に全身を氷に変え、昇華させていった。ただでさえエリーが発動させた水魚すいぎょの球体が大きかったため、それがすべて氷に変換され衝撃波と共に弾かれた花弁は、容易くアンデッドの群れ全体を覆う程の範囲に散らばっていた。たった一枚の花弁が触れただけで、一個体のアンデッドが昇華されたのだ。大群がすべて昇華されるのは時間の問題だろう。

 目の前でひらひらと花弁が舞う。そっとそれに触れると、かすかな冷たさを残し、溶けて消えた。

 昇華詠唱術は強い穢れに反応して浄化を行う。

 いつかルークスさんが言っていた言葉を思い出す。その言葉に、あの時──十年前にこの術を発動させた時とは違う、昇華詠唱術になっていることを理解した。今はもう消えてしまった、誰だかわからないが優しい誰かが言ったように、俺の力は、今度こそ俺自身と、大切な人を守ってくれたのだ。その事実に心の底から安堵し、大きく息を吐いて木から降りた。

 辺りを見渡すと、少し離れた場所で、いつの間にかエリーとイージオが合流し、昇華されていくアンデッド達を見ていた。雲一つない空の下で雪が舞うという異様だがどこか綺麗な光景は、俺達に時間というものを忘れさせていた。

 そのため俺も、イージオも、エリーも、気付くのに少し遅れてしまった。

 がさりと枝葉をかき分ける音がどこからか聞こえた気がして、俺は現実に意識を引き戻した。しかしその正体がわからず、首を傾げる。が、直後──

「アル!!」

 イージオが今までにはない程の鋭い叫び声を上げ……いや、違う。前にもこんなことがあった。咄嗟に声のした方を見る。イージオは手をこちらに伸ばし、向かってきている。だが、それを確認した後、反対方向から凄まじい殺気を感じた。

 振り向けば、そこには全身真っ黒な骨だけのアンデッド──スクレットが目にも留まらぬ速さで向かってきていた。距離はイージオの方が近いが、スピードは比較するまでもなくスクレットの方が速い。文字通り人の速さを超えているのだ。イージオは間に合わない。

 そして、そのスクレットには見覚えがあった。そう。春先に現れたあのスクレットだ。前回はイージオが割って入ったが、今回はそうはいかない。今度こそ俺を狙っている。俺を殺しにかかっているとわかった。

 と、同時に、春にはわからなかったことが理解できた。

「アル──!!」

 再びイージオの咆哮が飛ぶ。下がれとか、逃げろとか、とにかくこの場を離れろという意が込められているとわかる叫び声だった。だが、もう遅い。

 春の頃と同様に、スクレットの目が合った気がしたのだ。いや、気がしたのではない。確かに目が合った。アンデッドの、ないはずの目と。

 真っ黒い骨の鋭利な指先が、一直線に俺の喉を狙って迫る。もう逃げられる距離ではないが、恐怖はなかった。俺に向かって突き付けられていた指に、音もなく昇華詠唱術スノーフレークの花弁が触れたのだ。これでもう、スクレットは俺を殺す前に生涯を終えることが決定的になった。

 刹那、花弁が触れた指先が、骨から氷に、そして水晶のような鉱物に変わり、儚く砕けた。後を追うようにして氷が全身を覆う。その様子をよく見れば、氷は無数の小さな釣鐘形を連鎖的に形成していた。どこまでも術の名前たる花のようだった。

 遂に花弁から生まれた氷は、スクレットのすべてを呑み、膨大な穢れを浄化してクリスタルへ変換した。どす黒かった骨が透明になり、静かに佇む。が、それも一瞬のことで、歪んだ生命が終わりを迎えた今、人の形を成していた透明な骨は、あっという間に崩れた。そして気付いた。

 このスクレットが、誰なのか。

「──……母さん」

 十年前、俺が不完全な昇華詠唱術を発動させてしまったせいで死なせてしまったと思っていた母親その人だと、本能がそう告げる。直後に頬を、肩を、胸元を、温かい何かが包んだ。目の前には崩れゆくアンデッドだったものしかない。しかし、確かに何かは存在した。あたたかくて、懐かしい。さっきの、太陽に似たあの感じとは違うこの感覚は、この気配は……この人は。

 頬と胸から温かい気配が抜けた時、俺は何かに──誰かに抱きしめられていたのだと気付いた。同時に目の前の光景に息を呑んだ。

 ──アル。

 懐かしい声と共に、いつの間にか目の前には母親が居た。しかしよく見るとその姿は胸より上しか見えない。一個体を形成できないという状況に、あまり時間がないのだと瞬時に悟った。

 俺と同じ、藍色より少し淡い色の髪は低い位置で結われ、穏やかに吹く風を受けてなびく。俺とは違う、雪を思わせる限りなく白に近い水色の瞳が、優しく俺を見つめる。母さんは我が子の姿をその目に焼き付けるよう、しばらくの間俺をじっと見つめていたが、やがて、ふわりと微笑んだ。

 ──アル。誕生日、ありがとう。生まれてきてくれて、ありがとう。生きていてくれて、ありがとう。あなたが私の子であることに、私はこれ以上ないほどの幸せを貰ったわ。先に逝ってしまったお父さんもそうだったわ。

 左肩の気配が消え、それがそのまま頭に移る。頭を撫でる仕草は、昔と何も変わらない。あまりの不変さに、母さんの時間は十年前のあの時で完全に止まってしまっているのだとわかった。あの日、あの時に、母さんは、母さんとしての生を終えてしまったのだと。

 ──あなたは、幸せな人生を歩みなさい。あなたが思う、幸せな最期を迎えなさい。私達はこれから、今までより少し離れた場所で、その行く末を見守っているからね。

 そう言って、母さんはもう一度優しく微笑み、肩と頭に乗せていた手を離した。俺は待ってと反射的に手を伸ばすが、ひと際強く吹いた風にさらわれ、母さんの姿は消えてしまった。伸ばした手は空を掴むだけ。ふと、手の先に広がる景色に目を向ければ、粉々に砕けたスクレットだった結晶も同じ風に煽られ、太陽の光を浴びながら空に向かって飛んでいた。俺は、その様子を呆然と眺める他なかった。

「アル! 大丈夫か!?」

 三度俺の名前を叫びながら、イージオが駆け寄って来た。不安そうな顔をよそに、俺はぽつりぽつりと呟く。

「あのスクレット……俺の母さんだった」

「え?」

「生まれてきてくれて、生きてきてくれてありがとうって……誕生日、ありがとうって。そう、言ったんだ。そう言って消えた」

 アクワリウスの月、二十八日。今日は俺の十八回目の誕生日で、両親の十回目の命日。花が好きな母さんが教えてくれた今日の誕生花はスノーフレーク。花言葉は確か、純粋、純潔、汚れなき心。同じ名の術で、過去に俺は両親を殺め、そして今度は救った。

 何の因果だろうか──

「あ、そっか」

 エリーが納得と言うように手を打った。

「そうだよ、今日アルの誕生日!」

 珍しく人のすぐそばで、エリーが大きな声を出してきたことで、完全に虚を突かれた俺は思考が止まった。代わりに、そういえばいつかお互いの誕生日を教え合ったな、と思い返す。いつだったかは忘れてしまったが、少なくともイージオの誕生日は終わっていたはず。マジかよオレもう終わってんだけど! とその時に嘆かれた記憶はある。

「そっか! 二十八日!」

 イージオも同様に手を打つと、パチンと指を鳴らした。

「じゃあじゃあ、今日はルーさんに頼んでごちそう作ってもらおうぜ! パーティーやろうぜパーティー!」

「いいね、じゃあゼークトやベルナも呼んでみんなでお祝いしよっ」

 本日の主役そっちのけで進んで行く話を、俺は半ば呆れて聞いていた。最早拒否権なんてない。強制的に祝われるのが目に見えていた。やれやれと頭を振ると、不意に、なおも舞い落ちる氷が目に映った。

 凍るような晴れの日。未だ消えない雪の花弁は、理から外れてしまった者達を弔う如く、静かに、優しく降り注ぐ。その光景を見てエリーは、まるで俺の誕生日を祝っているようだと微笑み、イージオがそれならオレ達がもっと盛大にお祝いしないとなと笑った。

「そうだな」

 楽しそうにはしゃぐ二人に囲まれた俺は、小さく笑ってそう応えた。

 今年は、随分と久し振りに、賑やかで微笑ましい誕生日になった。

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