Chapter:023
アクワリウスの月、二十八日。
いつものように目が覚めた時、今年もついにこの日が来たかと、いつも違うことを思って身を起こした。別に今日は、端から見れば記念日でも何でもない、ただただ普通の日だ。だが、そう──俺にとっては特別な日。忘れない、忘れたくない、或いは忘れてはいけない日。
しかし、そんな個人的な感慨に浸っている時間は、血相を変えたゼークトと鉢合わせしたことで消え失せた。
朝方、喧騒を吹き飛ばす勢いで、食堂の扉が開け放たれた。
あまりの音に食堂に、居合わせたすべての人が開かれた扉に釘付けになる。その場にいた俺も、イージオも、エリーも、すっかり打ち解けたベルナも、例に違わずそれに倣った。
「ゼークト……?」
小さく呟かれた鈴の声すら、今はひと際大きく響く。だが、激しく息を切らして現れたゼークトは、その声に応える余裕もなかったようだ。
「北から……」
俯いたままそう切り出したゼークトは、突き上げるが如く顔を上げ、叫んだ。
「北からものすごい数のアンデッドが押し寄せて来てる! このままじゃこの町呑まれるぞ!」
全員に動揺が走る。目を瞠る者、顔を合わせる者、焦燥に駆られる者、リアクションは様々だが、その様子はどこか現実味を帯びないものだった。
俺達は日頃からアンデッド討伐を行っているために、その存在も、危険性もすぐに把握できるが、思えばこの町の中で生活してきた人達の大半は、アンデッドそのものに遭遇したことがないのだ。この町は今まで、かの穢れなき神父と、神父に施された結界で守られているのだから。だが、今回ばかりはそうもいかない規模で、アンデットがやって来たということなのだろう。
などと、考えていると、未だに入り口で立っているゼークトが、唐突に瞠目した。視線は間違いなくこちらだが、見ているのは俺ではない。もしや俺の後ろかと振り返ると、そこにはいつの間に居たのか、穢れなき神父その人が立っていた。
「状況は把握している。事は一刻を争う」
そう言って俺達を一瞥した後、彼は食堂に向け、凛と言い放った。
「修道士、修道女達は、住民の避難・誘導に当たってほしい。避難場所は教会本堂。誘導のために教会の外に出るのは、町の南半分までで構わない。それより北は、私とゼークトで当たる」
「お、俺かよ!?」
ほぼ反射的にゼークトが声を上げた。
「お前ほど俊敏な奴はこの町にはいない。手間を掛けるが人命最優先だ。手を貸せ」
「手っつーより足だろ……どうせ走り回るんだろ?」
「良いから貸せ」
「はいはい」
不承不承という感じで答えつつも、ゼークトの行動は早く、あっという間に再び外へ飛び出した。直後、シスター、ブラザー達も一斉に動き出す。ベルナもそれに続く。最後、俺達に一瞥をくれた際、エリーが力強くベルナに向かって頷いた。ベルナも同じように頷く。その様子は、まるでお互いの健闘を祈るようだった。
いつの間にかごった返していた人の群れはなくなり、静まり返った食堂には、俺、イージオ、エリーと、指示を飛ばしていたルークスさんのみとなっていた。俺達は何をすべきか、ということだが、できるかどうか別として概ねの予想はついている。
「アル、エリー、イージオ。お前達はアンデッドの討伐を任せたい。頼めるか」
予想していた通りの内容を、改めて神父から言い渡される。誰よりも早く答えたのはイージオ。
「頼むも何も、それこそオレらの仕事じゃん。任せとけって」
即座の回答に、或いは、別の何かを感じたのか、ルークスさんは瞠目した。しかしそれも一瞬で、彼は頷いた。
「──……恩に着る」
そう言って踵を返した神父だったが、すぐにまたこちらに振り返る。
「お前達は討伐に集中してくれ。町のこと、住民のことは、何かあれば私がすべて責任を負う。盛大に暴れて来い」
が、言葉を添えるだけ添えて、返事も聞かずに、かすかな黄色の光を残して消えてしまった。
「ははっ、かっけー」
消えた背中に向けて言うイージオ。そのイージオに対し、俺は言う。
「……快諾してたが、俺達三人だけで町ひとつ呑み込みかねない規模のアンデッドにどう太刀打ちするんだ」
「ああ、それは……」
と、そこでイージオは思い出したかのように息を呑み、勢いよく両の手を顔の前で音を立てて合わせた。
「悪い! アルがオレらに言いたくなかったこと、勝手にルーさんから聞いちまった!」
「はあ!?」
この状況でいきなり何を言い出すのか……と、思った時には、イージオが何を言いたいのか察した。
「アル、何か持ってるんだよね」
いつになく真剣で、どこか冷めた声が問い掛けてきた。聞いたことのないそれがエリーのものであることは、隣にいるはずの本人を見なければわからなかった。
「な、何かって……」
「お願い。その力を貸して欲しいの」
至極冷静にエリーが再び言葉を発した。言葉は嘆願のそれなのに、声音は否定を許さない。まるで、最初から他の選択肢など存在しないように。
「だが……」
しかし俺は俯き、答えを渋った。これは、貸せる貸せないの問題ではない。できないのだ。俺にはまだ、持っている力をきちんと扱うことができない。
「暴走なんて百も承知だぜ。それでも、オレ達は信じてる」
俺は弾かれた様に顔を上げた。仁王立ちして笑うイージオが、やけにたくましく見えた。
「大丈夫。大丈夫だよ」
畳みかけるように、エリーが頷く。
俺は、俺を見詰める、金と碧の瞳を交互に見た。
恐らく二人は、俺が何を持っているか、どんな力を持っているのかまではわかっていないと思う。俺だってわかっていないのだから。だが、それでもこの状況に太刀打ちできる唯一の手段であること、同時に最も危険な力であることを、少なからず理解している。理解したうえで、信じると言ったのだ。
これは、貸せる貸せないの問題ではない。だが、できるできないの問題でもない。やるか、やらないか。
「…………俺一人ではどうにもできなくなるかも知れないんだぞ。それでもいいのか」
最後の抵抗にと、意地汚くもそんなことを言ってみる。しかし一抹の不安は、力強くも優しい笑顔を前に完全に消え失せた。
「そん時は、オレ達が支えてやるよ」
「うん」
俺は目を瞠った。こんなありきたりな言葉が、ここまで頼もしく思えたのは初めてかも知れない。
──もう少し頼ってもいいんじゃないか。
脳裏をかすめた言葉に、そして二人の言葉に、俺は力いっぱい頷いた。
「わかった。俺は何をすればいい」
対して二人も、意を得たりと頷き返す。
俺達は揃って食堂から飛び出した。まだ感知術は発動していないが、正直な話それも時間の問題だ。悠長に避難場所で作戦を立てている場合ではない。結果としてそれらを考えるのは、一番知識と頭脳を持つエリーに一任することにしたが、それでもただじっと作戦が立てられるのを待っている訳にもいかない。
「標的はアンデッドだし、ここはもう、アルに一発昇華詠唱術をぶっ放してもらうのが一番だよな」
北へ向かうために石畳の道を走りながら、唐突にイージオが呟く。
「俺が昇華詠唱術を……?」
俺は訝しんだ。そんな話知らないのだが。
「あれ、知らねえの?」
それを察したようで、イージオが改めて訊いてくる。俺は記憶を遡っていくが、やはり覚えがない。いや、そもそもの話が違う。
「……扱いきれない力を使ったのは十年近く前の一度きりだ。それ以降は使っていない」
「じゃあ自分の力が何かなんて、知らないし知りたくもなかったって感じか」
「そう……かもな」
身体が風を切る音に、或いはお互いの呼吸音に掻き消えてしまいそうなほど小さな声でそう言う。イージオは聞こえていたのかどうかわからない調子で続けた。
「ルーさんが言うには、それだけ膨大な聖星力を持ってるってことらしいぜ。ただし、暴走する危険が伴う、とか。……なあ、暴走って具体的にどんなだったとか覚えてる?」
ここで、嫌なら言わなくても、と言わない辺りが、もう昇華詠唱術を──ひいては俺の力を使わざるを得ない状況である可能性が高いことを物語る。俺は再び脳内で時を遡る。正直思い出したいものではないが、こればかりは鮮明に覚えている。そうだった。確かにあの時、言葉を使った。陣ではなく詠唱句。あれが……そうなのだろうか。
「……少なくとも、この間ベルナが発動させた時みたいな、穢れだけを祓う穏やかなものではなかったと思う。俺自身の術の力に負けて凍死しかけていたしな」
「凍死って……」
引き
「……つまり、単純に上級以上の聖星術みたいなもんになるって訳か。アンデッドさえ斃せたら万々歳だけど、術者や周りに損害が出るってんなら使わない方が良い……のかもな」
そのうち結論が出たのか、微妙な表情でそう切り出したが、結局は頭を振った。もちろんそれでことが収まればいいが、そういう訳にもいかないだろう。何より、エリーがどうするのかですべてが決まるのだ。当の本人は、少し後ろから俺達を追い掛けるように付いて来ている。
まだ作戦の組み立てには時間が掛かるか……などと考え、前方に向き直った瞬間だった。
「できた!」
直前に聞いた、冷静で優しい雰囲気とは全く違う、勢いや熱が乗った声。鈴のようなそれを発するのはエリーしかいないのだが、こうも雰囲気が変わると一瞬誰だかわからなくなってしまう。
それはさておき。
色々と閃いたらしいエリーは、スピードを上げてやって来る。代わりに俺達は速度を落とし、エリーが話しながらも走れるくらいに合わせる。
「やっぱりアルには昇華詠唱術を発動してもらわないといけない」
改めて突き付けられたことに、顔が引き攣るが、今更やめるとは言えない。
「……わかった」
俺は首肯した。
「で、作戦なんだけど、私が最初、
「エリーが水魚の?」
ほぼ言葉を繰り返すように訊くと、エリーは大きく頷いた。
「聖星術の属性には相性が存在するけど、相対的なものだけじゃなくて、他属性と力を引き合うものもあるの。今回、メインはアルの
「だが……」
エリーがやることは理解できたが、何故それをしなければならないのかがわからない。そう言おうとしたら、彼女は被せるように続けた。
「昇華詠唱術だけでも充分強力なんだけど、そこに上級聖星術を乗せることで、町を呑み込むほどのアンデッドも一気に昇華できる。それに聖星術同士の相乗効果で、アルの負担もかなり減るはず」
互いの得意分野を上手く利用して、効率良く事を進めるためと言ったところか。しかし、と俺は再び問う。
「でもそれは、エリーにかなりの負担を掛けるんじゃないのか?」
上級となれば、術の発動に伴う聖星力は並大抵では到底足りない。いくらエリーが人並外れた聖星力を持っているとして、仮に発動できたとしても、その後が心配だ。聖星力は、使えば単純に気力と体力を消耗する。当然、使えば使うほど。
「詠唱句での発動だったら、そうかもね。でも、上級はまだ……ぎりぎり詠唱では使えないから、陣を描く必要があるの。だから、聖星力の使い過ぎで疲労困憊っていうのはないから安心して」
「……そうか」
確かに、聖星陣を使っての発動であるならば、自身の聖星力は使わない。
ただ、と、エリーは言葉を継ぐ。
「上級だけあって複雑な陣だから、描き切るまでにかなり時間が掛かるんだけど……その間少しでも、アンデッドは斃しておきたいかな」
「そんならオレにお任せあれ!」
再び思案顔になるエリーに、今まで黙っていたイージオがここぞとばかりに声を上げた。
「最近暴れ足りなかったし、憂さ晴らしも兼ねてひと暴れしてやろーっての」
嬉々とした表情で右肩を回すその姿に、エリーは破顔した。
「それじゃあ、お願い」
「おうよ」
同じく破顔したイージオが、先に行くぜと言わんばかりにスピードを上げた。
「俺もイージオの援護に回る。準備ができたら教えてくれ」
そう言ってイージオを追い掛けるために速度を上げたその時だった。
「あ、待って!」
甲高い鈴の声に思わず身を震わせてしまった。おっかなびっくりな表情のまま、呼び止めたエリーに向き直る。
「な、なんだ?」
「あ、うん。氷瓶の昇華詠唱術の詠唱句、伝えとかなきゃと思って」
そういえばそうかと、思わず立ち止まる。別に発動直前でも良いかと思っていた分、今聞くのは微妙というか何と言うか複雑な感じではあるが、後の手間を考えたら、今の方が良いのかも知れない。いやしかし、援護に集中し過ぎて、肝心な時にど忘れしそうな気も……などという雑念にも似た思考は、エリーが耳打ちしてきた言葉で完全に吹き飛んだ。
──その、詠唱句は。
「……やっぱり、そうなんだね」
何かを察したらしいエリーが小さく呟いた。
「でも、大丈夫だよ」
瞠目する俺に、エリーはさっきと変わらない言葉を紡いでいく。
君は一人じゃない。私達がいる、私達が信じている。だから、大丈夫。そう口にされずとも伝わって来た思いに、俺は静かに頷いた。
「頼む」
小さく──本当に小さく口を衝いた言葉だったが、かつてゼークトに物申した時とは違い、後悔や、やってしまったというような感覚はない。俺もこんな言葉が言えるようになったのかと、我ながら達観してしまうほどだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます