Chapter:016

 連日降り続いた雨で、プリモタウンは静かに冷たくしとどに濡れた。

 久し振りに晴れた今日は散歩でもしてみようと思い、俺は自分の部屋を飛び出した。町の中を歩いていると、ほぼ冬のような寒さからか、身を震わせる人々とすれ違う。自らの吐息で手を温める人を見ると、その息はかすかに白い。改めて今の寒さを実感した。

 今回は町の中心ではなく、はずれに向かってみた。どこに行くにしても宛てなどないのだが、何となく違う場所に行きたくなったからだ。

 プリモタウンは、周辺がほとんど森林になっている。今日俺が来た場所は、その中でも森林が若干高台に位置する。ここを抜ければ、先に広がるのは世界の中心地方・絶佳と天守の央都レリクイアカプトだ。この町もレリクイア地方に位置するが、最南端であるために完全に郊外である。俺の故郷は比べ物にならない程、ここも都会ではあるものの、やはり央都を謳う本当の世界の中心地には及ばない。個人的には汽車も定期的に通るため、人も物資も充実していて、かつ穏やかな雰囲気のおかげでとても生活しやすいが。

 雨で若干ぬかるんだ地面に気を付けつつ、町を覆う森を進んで行く。時折鳥の鳴き声と、風が木々を撫ぜていく音が重なる。吸い込む空気は少し冷たいが、雨上がり独特の気配がとても心地よい。ある程度森の中を歩き続け、町の喧騒が完全に消えたところで立ち止まる。木漏れ日が射す木々の隙間から見える青空を眺め、一息。束の間の休憩のようなものを取った後、再び歩き始める。もう少し歩けば、森の中でも開けた場所に出るのだ。少し前はここでアンデッドの討伐をしたこともある。

 数刻も経たない内に目的の場所までたどり着いたのだが、そこにはどうやら先客が居たらしい。人の影を見付けた瞬間に俺は思わず立ち止まり──

 そこで思考が止まった。

 先客は、この間教会で見掛けた薄桃色の少女だった。

 恐らくお互いに姿を見た瞬間に自分以外にもここに人が居たことに気付いたようで、俺も彼女もとっさに行動が出来なかったようだ。目を見開いた状態で固まる両者。

 かすかな風になびく髪は鮮やかな桃色。しかし改めて見てみると、瞠った瞳も髪同様にきれいな桃色であることを知る。

 この前はかなり離れた場所で見掛けたからだと思っていたが、近くで見ても背丈はかなり小柄だった。エリーも決して大きい方ではないが、それ以上に小さい。露出を抑え、体格がわかりにくい修道服に身を包んでいる現状でも、華奢であることが一目でわかるほどに。

 一見しただけでは、ただの小柄な女の子にしか思えない。

 俺と少女の距離は、十メートルあるか否かというくらい。

 一歩。

 俺が少女の方に向かおうとしたその時だった。俺が動くことを察して、少女が一歩後ずさった……までは良いものの、引いた足はぬかるみを踏んだ。バランスを崩すのは必至だった。

「あっ」

 かすかに、しかし確かに聞こえた少女の声は、エリーとは異なれど玉を転がしたようなものだった。が、そんなことを流暢に考えている暇はない。そこから先は頭より身体が先に動いていた。

「危ない!」

 足を滑らせた少女が転ぶ寸前、転ぶと気付いた時点でとっさに走り寄っていた俺は、そのまま少女の腕を掴み、引いた遠心力を利用して反対の手で背中を支えた。

 自分が何をしたのかわかったのは、しんと静まり返った空気を察した時だが、とっさの判断からどれくらいインターバルが空いたのかは最早わからない。ただ、中々に恥ずかしい行動をしたことだけはよくわかった。しかし、俺には弁解をさせてもらう時間すらなかった。

「きゃあっ!!」

 少女も自分がどういう状況か理解した、と俺が思った時点で時すでに遅し。急に顔を真っ赤にしたかと思えば、強引に引っ張られていた腕を振り解き、なんとそのまま俺を全力で突き飛ばしたのだ。いや、それだけなら構わない。しかしここは森の高台で、ぬかるみに足を滑らせてしまえば斜面を一気に滑走する訳で──結局声もなく俺は滑り落ちてしまった。

 大の字に近い恰好になったタイミングで滑走は終わり、生い茂る木々の隙間から見える青空を再び眺める。人の気配を感じない気がするため、少女はどうやら立ち去ってしまったようだ。いろいろと複雑な思いではあるが、確かにいきなり腕を掴まれたりしたら突き飛ばすことも……あり得なくはないのだろう。まして相手は忌み子と呼ばれる存在。人と関わる時間が少なければ、こういうことはあってしかるべきなのかもしれない。幸い落ちた俺も怪我らしいものはしていない。しかし……

「……この服どうしたもんか」

 上体を起こし、泥だらけになった服を眺める。派手に汚れたな、しかも何気にぬかるみのせいで湿っているし……などと考えていると、背後から足音が聞こえて来た。

「…………何してんの、アル?」

 その声に振り返れば、立っていたのはイージオ。

「……落とされた」

「は?」

 状況が全く分かっていないらしいイージオは目を丸くしてそう言うだけで、それ以上は何も言わなかった。困ったように頭を掻いた後、奴は屈んで続けた。

「えーと……よくわかんねーけど、このままじゃ風邪引くんじゃね? 教会戻ろうぜ」

「ああ……」

 どうせ汚れてしまっているのだし、と、起き上がることを最優先にした姿勢で立ち上がる。おかげで汚れていなかったところにまで泥がはねたが、最早どうでもいい。ただ、何となく手のひらは軽く叩いて落ちる汚れはさっと落とした。癖みたいなものだ。

「お前、なんでこんな町外れに来たんだ?」

 結局俺と一緒に教会へ引き返すことにしたイージオ。あんな場所に来たのだから何か用事があるものかと思って訊ねたが、イージオは笑ってこう答えた。

「散歩? 暇潰しっつーか」

「……着いた瞬間に引き返してるけど」

「暇さえ潰せりゃー良いってもんよ」

 それで良いのか……。と思うが、それで良いから付いてくるのだろう。

 道すがら、何故泥だらけになったのか改めて訊かれ、取り敢えず事の経緯を話す。事細かな内容は割愛しいたため、俺が少女を具体的にどう助けたのかまでは話していない。しかし、内容を話すことを回避するために必然的に状況を思い返すことになるため、俺としては二度気恥ずかしい思いをしたことになる。

 石畳の風景が戻ってきた辺りで、歩きながら俺は大きなため息を吐いた。

 俺もゼークトのことは言えないな……。



 次の日。

 一張羅だった普段着がまだ乾かないため、部屋着のまま食堂に向かった。部屋着と言えどあくまで俺が部屋着として使っているというだけで、別にこのまま外に出ることは何の問題もない。ただ、如何せん生地が薄いため、上着は必要なのだが。

「あ、おはよう。アル」

「はよっすー」

 座れる場所を探そうと辺りを見回していると、既に食事中のイージオとエリーが声を掛けて来た。手招きする二人に応えるように頷き、イージオの隣に腰掛ける。二人が揃って微笑む中、俺はエリーを見て、ふと思う。

「……エリーは、何か久し振りに見た気がする」

 俺が唐突にそういうと、エリーは当然首を傾げたが、イージオは「だよな!」と、ほぼ反射のようなスピードで返してきた。

「やっぱそう思う? 最近全然食堂で見かけなかったからさー、俺らと時間ずらしてんのかと思っててよー」

 ああ、なるほどと思った。元々町の外からやって来た俺達は依頼を受けた際、神父から食事や就寝の時間等は特に規則は設けられていない。故に、わざわざ皆同じタイミングで食事をする理由は本来ない。食べたい時に食べ、寝たい時に寝る。とはいえ、結局俺達は似た時間に起きて、気付いたら同じタイミングで食堂へ向かっているのだ。そういえば、春先の俺はわざと時間をずらしたりしていたが、今ではそれすらない。

 エリーは一瞬きょとんとした表情になったが、すぐに顔がほころんだした。

「えへへ、実は……最近ベルナ──ベルナデッタのところに行ってて。だからいつもより早めに起きたり、帰りが遅くなってたりしたんだ」

 その言葉に、今度は俺達が呆気に取られる。俺はともかくとして、イージオは知らないのだ。……そう言えばゼークトの時もそうだったな。

「え、誰?」

「ベルナっていう、私達と同い年のシスターが居るの。アルは会ったことあるみたいだよ」

 へー! と相槌を打ちつつ、こちらを見てくるイージオ。訊きたいことはわかっているため、問われる前に答える。

「昨日助けただよ」

「ああ、桃色の彼女か」

 イージオは納得したように手を打つ。が、今度はエリーが食いついた。

「助けたの?」

「町外れにある森の高台で足滑らせたのを見て、反射的に」

「ああ、じゃあ昨日ベルナが言ってた人ってアルのことだったんだ」

「聞いてたのか」

「うん、びっくりしちゃって突き飛ばしちゃった……って」

 まあ、びっくりすることに関しては否定しない。

「ごめんね」

 困り顔で謝るエリーに、俺が困ってしまう。

「いや……別に良い。エリーが謝ることじゃないし、俺も特に気にしてない」

「そっか。ありがとう」

 ふわりと笑うエリー。しかし、それは良いとして疑問が残る。

「それよりいつの間に……」

 いつの間に仲良くなったんだ? そう訊こうと思って言葉が止まる。思い返せば、エリーを見掛けなくなる直前に、前兆があったように思う。

「そういえばこの間……朝方だったか? 明るくなってから宿舎に戻って来た日があったな」

 推測通り、エリーは首肯する。

「うん、その日。というか、前の日だよね。どうしても気になったから話してみたくて、シスターさん達に場所を聞いて行ってみたの。最初は部屋の中に入れてくれなかったんだけど、しばらく待ってたら入れてくれたんだよ」

「え、しばらく……?」

 再び男どもが固まる。イージオは見るからに顔が引き攣っていた。

「その前日途中から雨だったじゃん……傘は?」

「その、忘れてて……そのうち降り始めたけど取りに行ってる間に開けてもらってたらと思うと動けなくて」

 えへへと笑う彼女に、俺とイージオは顔を見合わせる。お互い何といえばわからなくなり、次に繋ぐ言葉を探しているのだ。結果、先に言葉が出たのは俺。

「じゃあ雨の中待ってたのか? どれくらい待ったんだよ……?」

「うーん……?」

 首を傾げることの真意はわからない。体感時間が大したものではなかったにしても、冬も近いこの時期に雨の中ひたすら待つというのは、かなり酷なはずだ。風邪を引かなかったのが不思議なくらいだ。

 唖然とする俺達をよそに、エリーは「でも」と言って立ち上がる。

「優しい、どこにでもいるような普通の子だよ」

 その手に食べ終わった食事のトレーを抱え、更にはいつの間にか腕にかばんを提げていいる。いかにもこれからお出掛けするのだと言わんばかりに──いや。

「今日もお喋りするの。じゃあ行ってくるね」

 エリーはむしろ自らの口でそう宣言し、意気揚々と歩き出した。だが、見送った俺とイージオは、呆然とする他なかった。

「はー……エリーすげーな」

 扉の先に消えていった背中に未だ眼を向けながら、イージオが呟く。俺もまだ半分呆然としながら「ああ……」と、かすかな声で同意した。

 純粋で、真っ直ぐで、出来ると思ったことは諦めない──そう思わせるエリーの行動力は見上げたものだが、彼女の行動原理を、俺は時々無性に怖いと感じることがある。もちろんそれに救われたり、それが笑い種になったこともあるが、それでも怖いと感じてしまう。色んな意味で、この先大丈夫なのか、と。

「オレも見習おうかな」

 ふと、思考を遮るようにイージオが真剣な声色でそう言う。何を見習おうとしたのか理解した瞬間、俺は首を振った。

「……やめとけ」

「そう?」

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