Chapter:005

 その後、高台に残ると言った少女と別れ、俺は足早に教会へ戻った。部屋に置きっぱなしにしていたフルーツバスケットを片手に、隣の部屋へ向かう。

 思い立ったら何とやらで無計画にここまで来たが、思えば今は真夜中。いつも、よく寝たと言って起きてくるあいつが、こんな時間に起きているとは到底思えない。

 何やってんだと項垂うなだれるが、部屋に戻るという選択肢はない。このまま戻れば機会を失いかねない。それ以前にあいつの現状が気になって仕方ない。

 深呼吸し、決意を固める。

 無意味と思いつつも、小さく扉をノックする。──少し待つが、当然返事はない。

 あいつは寝ている。わかっていても、やはり戻ろうとは思わなかった。

 ドアノブに手を掛け、ゆっくりと回す。そのまま引くと、音もなく扉は開いた。

 カーテンを全開にした窓から、月明かりがあいつを照らす。

 起きないとわかっていても、帰ろうと思わなかった。

 足音を極力立てないようにしつつ、ゆっくりとベッドへ向かう。

 そのまま、見舞いなどにやって来た人が座るためであろう椅子に腰掛ける。携えていたバスケットは、すぐ近くにあった壁際の小さな棚に置いた。

 間近で見てみると、規則正しい寝息と共に、身体がかすかに上下しているのがわかった。見事なまでの爆睡で、起きる気配は全くない。

 だが、こいつが無事であることがきちんとわかった瞬間、安心した俺が居た。

 ──不意に。

 本当に不意に、こんなことを思った。

 今、眠っているこいつは、俺がここにいることを知らない。

 俺は、こいつがどんな夢を見ているのか知らない。

 いや、夢なんて本当は見ていないかもしれない。もしかしたら、眠ってすらいないかもしれない。

 俺達は、お互いのすべてを知っている訳ではないのだ。

 当たり前だ。

 俺達は出会って間もない。しかも俺はこいつらに進んで関わろうとしていなかったのだから、俺がこいつらを知らないように、こいつらも俺を知らないのだ。

 知らないのだ。

 俺の過去も。

 俺が、こいつらの過去を知らないように。

 当然だ。

 当たり前だ。

 なのに、どうして怯えていたのだろう。

 こいつらは知らないから関わろうとしていたのだ。

 俺の過去を。

「……いや」

 否定は、おのずと声になっていた。

 知っていたとしても、或いは──

 そうかも知れないが、そうでなくても構わない。

 知らなくていい。

 知る必要がない。

 知らなくても、構わないのだ。俺も、他人も、その人の全てなんて。

 無知は恐怖と感じていた。だが、無知だから、知らないからこそできることもある。

 こいつや、あの娘がそうだ。

 俺の過去を知らないから、普通の人として関わろうとしてきた。

 それで、構わないのだ。

 所詮は他人。他人のすべてを知ることが出来るなんてそうそうない。

 だから、構えなくてもいいのだ。

 何故急にこんなことを思ったのかは解らない。

 それでも、今まで俺自身を包んでいた暗い何かが、霧が晴れるように消えていったことは解った。



 ──鳥のさえずりがかすかに耳に響いたことで、意識が戻った。

 ハッとする。俺は眠っていたのか。

 意識をなくした状態と同じ、俯いたまま困惑する。安心したからと言ってこのまま眠ってしまうなんて、全くもってらしくない。

「よう、ねぼすけ」

 久し振りに聞いたであろう声に、反射的に顔を上げる。

 苦痛で歪んだ表情が最後だった分、にこやかに笑う姿が妙に印象的で、いつも通り、他者に向けるものとまるで変わらない笑顔だった。

「わ、悪い」

 勝手に邪魔して、という肝心なところをすっ飛ばして、一言だけで謝ると俺は立ち上がる。

 ここに立ち入ったことに、いや、何よりここでで眠ってしまったことに、俺自身かなり動揺しているのだと自覚していた。落ち着くために一度部屋に戻ろうと決めて、部屋を出るために歩き出した時だった。

「悪くないから戻ってこい」

 その言葉に振り向く。目が合った瞬間に手招きまでされてしまった。

「う……」

 堪らず苦い声が出る。怪我をさせ、その見舞いに来た手前、断ることが出来ないからだ。

「戻って来いって」

 繰り返された言葉に畳み掛けられ、固まる。しかし、初めから拒否権などない俺は、結局椅子に戻ることを余儀なくされた。

 あいつが、俺が持って来たフルーツバスケットに手を伸ばす。よく見れば思いの外量が減っていた。俺が眠っている間に少し食べたのだろう。

 そうとなると俺はどれくらい寝てたのかと心配になる。太陽の方向からして、いつもとさして変わらない時間だとは思うが……。

「食えよ。アルが持ってきてくれたんだろ?」

 いつ間にか、二つあったリンゴの一つを提示されていた。

「いや、持って来たのはそうだが、お前にやるために持って来たんだ。それはもうお前のものだぞ」

「じゃ、やる」

「え……」

 そう言われてしまえば、受け取る他ない。

 きれいに赤く熟したリンゴ。かじると程よい甘味と酸味が口いっぱいに広がった。

「美味い?」

「……おう」

 遠慮がちな返答でも満足だったようで、ご機嫌な様子でリンゴを頬張る。俺が食べるより美味そうに食べるあまり、そっちの方が美味いのかと思う程だ。

「……で、どうした」

 一通りお互いが食べ終わってから、問い掛ける。

 呼び戻したのだから、何かしらの用事があるのではと考え、そう訊いたのだが、返事は笑いながらの否定だった。

「いやいやいや。なんか結構久し振りなのに会話もなく終わんのはなーって。そんだけなんだよ」

 気の抜けたような、へらっとした笑顔。

「てか、来ると思ってなかった」

「……俺もだ」

 そう答えると、思った通りだというように笑う。

「だから、動けるようになったら絡みに行こうと思ってた」

「な……」

 何て奴……。懲りないというか、何というか。

 言葉を失くしてしまったが、気を取り直す。

「傷の具合は?」

「もー大丈夫。今日医者が来るって聞いてる。診てもらって問題ないって話になりゃ、明日から復帰だ」

「…………そうか」

 良かったと、心底思う。俺のフォローという体で怪我をされ、或いはさせてしまった故に、これ以上の大事に発展してしまったら様々な理由でどうしたものかと考えるところだった。当然依頼に支障を来すほどに。

「──謝んなよ」

 俺が頭を下げようとした、まさにそのタイミングだった。

 見計らったかのような発言に目を瞠る。

 こいつは続けた。

「今回のはアルのせいじゃねーぜ。てか、アルだけのせいじゃねーよ。だから謝る必要もねーの」

 ……同じ。

 あの娘と話したことは知らないはずなのに、まるで同じような台詞。

 いや、でもそれは違うだろう。

 俺は眉をひそめた。

 あの時は流れで否定出来なかったが、さすがに二度目は顔をしかめる。そもそもそれでは納得できない。

「俺の気が済まない」

 謝る理由は色々あるが、一番はそれだ。原因を作ったのは俺なのだから、謝罪はもはや半分義務のようなものだと思っている。

 しかし、俺の答えにこいつは口を尖らせた。

「んー……お前のせいじゃねーのに……」

 何故そこまで食い下がるのかわからなかった。俺は一言「悪かった」と言わせてくれたらそれでいいのだ。

 許すか否かは本人の自由だ。強要はしない。しかし、せめて謝ることはさせてくれても良いのではないだろうか。

 沈黙の中、何を言うべきか考えていると、唐突に声が上がった。

「じゃ、お互いってことで」

「はあ?」

 反射的に聞き返す。お互い? どういうことだ?

「アルが悪いってんなら、オレも悪い」

「なんでそうなる」

「だってよ、もっとカッコよく助けてたらお互い無傷だったろ?」

 ……確かにそうかもしれないが。いや、そうじゃないだろ。

 納得しそうになっていたものを慌てて否定する。

「それを言うなら、俺がちゃんとしてたら、助ける必要がそもそもなかっただろ」

「助けるって決めたのはオレだぜ。オレの行動にまで責任持つってか?」

 声色は同じなのに、妙に鋭い発言のように思えた。

「それは……」

「はい、んじゃ、お互い様な。──すまん!」

 言葉に詰まっていると、完全に向こうのペースに持っていかれてしまった。挙句の果てにものすごい勢いで頭を下げられ、謝るなと言うことすらできなかった。

「あ……いや……」

 あまりのことに戸惑う。しかし奴はお構いなしだ。

 謝るんだろ? と言われている気しかしなかった。そうなのだが、とても旨く丸め込まれたとしか思えない。

 が、こうなればなるようになれ。俺も、気が済むようにと頭を下げる。

「俺、も……悪かった」

「おう!」

 清々しいほどの満面の笑顔で快諾された。

 そしてその笑顔に、俺も釣られてしまった。

「お」

 驚いたような声に、俺は首を傾げる。

「初めて笑ったな」

 嬉しそうに言われ、今度は俺が驚く。

「な、なんだそれ」

「いーじゃんか。もっと笑えって」

「……柄じゃない」

「柄とかじゃねーよ。あと、そろそろ名前で呼んでくれてもいいんじゃね?」

「え」

「だってアル、オレんこともエリーんことも、ルーさんだって、お前だ、あの娘だ、神父だっつって名前で呼ばないじゃん」

 気付かれないようにと思っていたのに、まさか気付いていたのか。

「距離を置くようにしてんだろうけど、仲間としては名前呼ばれないってのは結構寂しいんだぜ」

 複雑そうな笑顔を向け、そういう。

 仲間──

 その言葉に、今度は俺が複雑な表情に変わる。

「俺が、あんな邪険にしてたのに?」

「大丈夫、そういう人オレのギルドにも居るから。その人もさ、すっげー堅物で生真面目で冗談とかなかなか通じないけど、根がいいのは知ってっから」

 照れ隠しとでも思ってるのか、こいつ。

「いや、俺はそういうのじゃなくて」

「じゃ、仲間は嫌か?」

「そ……」

 そういう訳では、ないが……と、答えると見たのだろう。

「なら、仲間だ」

 満足そうに笑われてしまった。

 俺は大きく溜息を吐いた。

「…………好きにしろ。……イージオ」

 耐えかねたかのように俺が声を絞り出して名前を呼ぶと、また驚きの顔に変わった後、人一倍大きな声で再び「おう!」と言って笑った。

 実際嫌ではない。ではなく、あんなあしらいをしていたというのに、仲間なんて言われていいものかと思っていた。だが、きっとこいつは──イージオはそういう奴なのだろう。彼女が、エリーが言っていたように。

 と、タイミング良く、扉を叩く音がした。

 はーい、と気の抜けた返事をが飛ぶと、応えるように扉が開いた。

「おはよう」

 ゆっくりと開かれたドアの先に立っていたのは、彼女だった。

「はよ、エリー」

「……おはよう、エリー」

 半ば反射的に言われたものに、俺も流れで返す。

 直後、彼女がきょとんとして固まった。

 理由は概ね想像できる。俺が名前で、しかもあだ名で呼んだからだろう。

 案の定、ほとんど独り言として「なまえ……」と言われた。

 唐突に呼んでしまったのだ、当然だ。俺も早速呼ぶとは思わなった。あいつに釣られたのだ。それに気付いた当人は、にやにやと俺を見てくる。

 反射的に謝らねばと思った。

 勢いそのままに口を開こうとしたら、鈴のような声に遮られてしまった。

「アル、名前で呼んでくれるんだ!」

 期待するような笑顔だった。

 これは……謝るのは得策ではないな。

「……い、嫌じゃないなら」

 どうにも素直に応えられない。

 だが、これで満足らしく、笑顔が期待から満面のそれに変わった。

「うん!」

 心から嬉しそうにして、彼女が歩み寄って来る。二人が、揃って俺を見つめる。

「な、なんだよ?」

 無言の空間に耐え兼ねそう問い掛けると、示し合わせたかのように声を合わせた。

「じゃあ、改めてよろしく。アル!」

 それが歓迎であり、初日出来なかった「挨拶」であると、瞬時に察した。

 仲間だと再確認させて、仕切り直しするのか。

 ──ああ、また二人のペースだ。

 でも、今は不思議と嫌な気は全くしない。

 それはきっと、彼らがすべてを知らず、また、知る必要が無いことを知っているからだろうか。

 この心地良さは、恐らくそこから来るのもだろう。

 そう思うと、更に気が楽になった。

「ああ、よろしく頼む。イージオ、エリー」

 二人の見えない圧力のような何かに耐えかねた俺は、満面とはいかずとも、出来る範囲で笑って応えた。

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