Chapter:003

 気味の悪い生暖かさが、指先、手のひらを浸食していく。

 独特のぬるりとした感覚が、背筋を冷やしていく。

 鉄の臭いが、五感から嫌悪感で思考を支配する。

 握っている青いはずの剣が、みるみるうちに紅に染まり──



 ──俺は飛び起きた。

 肩で息をしながら、ひたすらに目を泳がせる。

 永遠にも似た時間感覚の中で、どうにか呼吸を落ち着かせると、案の定身体は冷や汗でぐっしょりと濡れていた。

 やがて、朝を告げる鳥の鳴き声や、風になびく樹々の音が鼓膜を震わせていることに気付いた頃、寝起きでは視界を覆ってしまうほど伸びた前髪を掻き上げ、溜め込んでいたものをすべて吐き出すかのように、大きなため息を吐いた。

「…………はあ……。くそ」

 なんて夢だ。



 着替えて食堂に向かうと、一足早く起きていたらしい二人を見付けた。遅めにやって来たつもりだったが、どうやら気持ち程度だったようだ。

「おはよう、アル」

「よう、ねぼすけ」

 すがすがしいほどの笑顔と、からかうことしか考えていない顔。

 そのふざけたにやけ顔に何か言ってやろうと一瞬考えるが、やめる。返せば絡んでくるに違いない。一瞥いちべつだけくれてやり、少し離れた場所に座る。

「じゃあ、私行くね」

「おうエリー、行ってらっしゃーい」

 行ってきますと律儀に答え、彼女は席を立った。

 少しだけその姿を追い、視線を落とす。

 が、ずっと刺さる気配に耐えかね、もう一度顔を上げると、案の定あいつがこっちを見ていた。

 眼が合った瞬間、大袈裟に笑顔を作られたが、俺はそれに応えず、運んできた食事へと意識を向ける。

「なんだよー、つれねーなー」

 心底詰まらなさそうな声が聞こえたが気にしない。が、直後に椅子が鳴らした、がたんという音には反応してしまった。

「ま、いいや。じゃーまた後で」

 三度顔を合わせたあいつは、振り返されないと知ったうえでひらひらと手を振り、席から立ち上がり出て行った。

 周囲の人の声すらノイズのように聞こえる中、俺は気持ち遅めの朝食を摂る。

 この教会の料理は、実はなかなかに美味い。

 咀嚼を繰り返しながら、心の片隅であいつの言う「後で」が来ないことを切に願う。

 大量発生とはいったものの、実際は毎日大規模なアンデッドの集団が襲ってくる訳ではないらしい。

 三人で悲鳴をあげたくなるほど来るときもあれば、全く来ない日もあるし、適度にやって来ることもある。

 毎日気は抜けないが、下手に構えることない。

 そんな感覚でいられることが不思議な話だが、要因は世界的に有名な『穢れなき神父』が施している結界だろう。

 さも当然のようになっているが、この世界に結界を張っている町や街は、このプリモタウン以外に存在しない。少なくとも俺が知る限りでは。

 穢れを祓い、外部の邪なる存在を受け付けない神聖な壁。

 そして、そういった存在を知らせてくれる施し。

 何とも『神父』らしい施しである。

 討伐を頼まれておきながら、この依頼期間が終わるまで、俺達は大前提としてこの町の恩恵を余すことなく受け続けるのだ。

 しかし、その恩恵すら意味を失くす存在が、時々現れることがあるという。

 昼下がり。俺の切なる願いも空しく、例の如く閃きにも似た感覚が身体を走り、アンデッドの襲来を告げたのだが……。

 その一瞬に違和感を感じた。

 今までの気配とは異なる感覚に神妙な面持ちになっていたのは、どうやら俺だけではなかったらしい。聖星術が示した場所に向かうと、あいつが先に回り込んでいるのは当然のようであったが、その表情はいつもの余裕はない。

「よう」

 それでも挨拶は忘れないらしく、駆けつけた俺を見るや否や反射的にされた。

 状況を確認すべく、いつものように丁度良い樹を見付けて登ろうとした時だった。

「なあ」

 不意打ちで声を掛けられ、足が止まった。

 俺は応えない。

 しかし俺が動かず、訊こうとする姿勢であることは気付いているらしく、奴はこちらを見ないまま、アンデッドがやって来るであろう先を見据えたまま続けた。

「妙だったな?」

 疑問形である真意はわからない。そう思ったけど間違いないよな。或いは、お前は何か知ってるか。そんな意味合いに取れるが、明言はしない。

「……ああ」

 やはりというか、違和感を感じたのは俺だけではなかったらしい。

 感知の聖星術は、穢れの強さも教えてくれる。はっきりとはわからないが、極端な話、強いか弱いか程度は判断出来る。

 基準は、閃き感覚の良し悪し。

 苦戦しない程度の穢れなら、その感覚はまさに閃きと同等だが、一度ひとたび穢れの濃度が上がると、閃きは悪い予感のそれへと変わる。

 今日は、悪い予感をわずかに感じたのだ。何とも言えない、あの感じが。

 その点は能天気そうなあいつも同じだったと見える。

「まあ何だっていいや。倒せば同じだ」

 お説ごもっともだが、どうしてか適当に思えてくる。

「じゃ、エリーと一緒に援護よろしくー」

 調子が戻ったらしいあいつは、飄々ひょうひょうとそう言いながら腰から片手剣を引き抜いた。太陽光が反射し、輝くその剣は深い藍色。

「よっしゃあ、行くぜ!」

 高らかに声を上げ、突っ走っていく。標的となる屍たちは、地に立つだけでは終わりが見えない程に集結していた。

 赤い背中が小さくなるのを見送り、俺も自分のことへと行動を移そうとした時だった。

「ごめん、遅れちゃった!」

 鈴のような声が背後から聞こえ、振り返る。

 息を切らして立っていたのは、やはりあの娘だった。急いで来たせいか、呼吸を整えるのに必死だ。

「……落ち着いたらでいい」

 出た声は、あまりにかすかなのものだった。彼女に届いているかは、反応がないためににはわからない。聞こえているかもしれないし、そうでないかもしれない。わざわざ確認するのも面倒で、もっと言えば、ねぎらいなど本来ならする必要もない。

 俺は、戦うことに頭を切り替えた。

 今しがた目星をつけた木へと向かい、毎度の如く程良い高さまで登る。

 足場と高さを確保し、改めて状況を見てみる。

 違和感の理由は、すぐに分かった。

 今まで現れていたのは、アンデッドの中でも初期の存在であるレムレースのみだったが、今回は、その上にあたる【モミア】が含まれていたのだ。

 アンデッドは、まとう穢れの量で強さが変わる。そしてそれは、基本的にアンデッドとして存在した時間と比例する。

 初期のレムレースは、アンデッドの中では一番の若輩。成り立てと言っても過言ではなく死に損なって間もないため、よく見ると未だに生来の肉体や顔の作りに個性がある。

 しかし、見た目に個性があるのはそれだけ。

 今回現れたモミア、そしてその更に上の存在とされる【スクレット】には、ほとんど個性はない。もっとも、スクレットは存在自体が確かかどうかすら不明な個体だが。

 この二つは、見た目だけの話をすれば、肉塊か骨だけかの違いしかない。眼前に迫り来るモミアは前者。個性を失くした肉の塊だ。

 穢れによって死にきれず、歪な生を再び与えられたレムレースが、一定の期間を超えてしまうと、ただひたすらに他者の肉を喰らう肉となるのだ。

 生命体としても大きな問題を招く存在だが、注視すべきは穢れの量。

 この世界の力関係は、聖星力と穢れが大きく関係してくる。この世界にはある程度の穢れが蔓延しており、生命も多少はそれを持って生きている。それを力にする時、扱うのが聖星力だ。

 聖星力とは、名の通り【聖なる星の力】。星たる世界の穢れを祓い、聖なる施しを与える力だ。聖星力が強ければ、保持、または扱える穢れも多くなり強くなれるが、個人でその限度は決まっており、超えることは出来ない。

 そのため、上限を超えて無理に穢れを保持してしまえば、人は理から外れ、生きた屍と化してしまうのだ。

 アンデッドとは、総じてそういう存在を指す。

 そんな屍たちの数は、いつもに比べると圧倒的に少ない。大地に立つだけでは終わりが見えず規模が判らなくても、ある程度高さがある場所からであれば、今までのそれより少ないと気付いた。

 しかし、簡単ではない。

 俺は舌打ちをしながら、右手でペンダントを掴んだ。そのまま前へ手を持っていき、クリスタルが弓へと変化するのを待つ。

 レムレースからモミアに、モミアからスクレットに変わるごとに、その存在が持つ穢れが増えるということは、必然的に力そのものが強くなる。そうなると、今までと同じでは昇華出来ないのだ。

 弓を構え、町から少し離れた場所にいたモミアに狙いを合わせる。

 そのまま流れるように、今までの一矢より少しだけ力を上げて射る。矢は狙い通り、寸分もたがわずに腐敗した肉塊へと命中し、瞬く間に命を凍結させた。

 直後に肉塊は結晶となり、生命の終わりを告げるかのように華々しく砕けた。

 噛みしめるように俺は小さく何度か頷く。

 感覚は理解した。

 最も町に近いモミアについては下で戦う二人に任せた方が早いと判断し、俺は俺で、その後ろで待ち構えるアンデッドを昇華させることに注力することに決めた。

 今度は、二本同時に氷の矢を生成し、弓を真一文字に構えて弦を引く。

 今までより数が居ないとはいえ、それでも群れと言える程度はやって来ている。下手な鉄砲ではないが、各個撃破よりは頭数は減らせると考えた。

 左右に分かれていった矢は、見事に個体に命中し、氷へと変化させる。そのついでに周りもいくらか巻き込んだらしく、立て続けに屍達が凍り付いては昇華して弾けた。

 何度かそれを繰り返すうちに、アンデッドの数が目に見えて減って来た。勢いをつけたらしいあいつが、剣を振り回す。

 それに呼応するかのように、少女の援護も活気付き、周辺に集結していたアンデッドを次々とクリスタルと化していった。

 俺達は一体、また一体と確実に昇華していく。

 始めに懸念していた程、悪戦苦闘はしなかった。

 一個体を昇華させるために、どれくらいの力が必要なのか。それが判ればすぐだった。

 それは俺だけでなく、下の二人にも言えることだったようだ。

 いつしか余裕さえ見せ始めたのか、援護していたはずの彼女が、時折俺の援護すらしてきていたのだ。それも、かゆいところに手が届くような、絶妙なタイミングと力加減で添えるように。

 その余裕は、気付けば多少の連携を生み出した。

 俺が遠方を氷漬けにし、手前はあいつが薙ぎ倒す。それでも溢れたアンデッドは、止めを刺すかのように少女が拾って昇華する。

 連携が連携らしくなり、ある程度数をこなした頃、今回の戦いが終了した。

 最後の一体をあいつが斬り、それがクリスタルとなり弾けて砕ける。

 訪れる静寂が、意識を戦いから現実へと引き戻した。

 戦闘からの解放感に、思わず安堵に息を漏らす。

 ふと下の二人を見てみたら、ハイタッチをしながらお互いを称賛しているようだった。

 邪魔しないように静かに降りることにし、俺は右手に握っていた弓をペンダントに戻した。首元に還ったそれが、木漏れ日に反射して不規則に光る。

 飛ぶようにして着地すると、一足先に帰ろうとしていたと思しき二人が、足音に気付いたらしく同時に振り向いてきた。

「お疲れー」

 朗らかな声と表情で迎えたのは少女。その隣であいつもにこやかに笑いながら、同じようにお疲れと手を振る。

 邪魔しないように降りたつもりが、結局声を掛けられる始末か。

 俺は何も答えずに、先程まで戦いがあった場所へと目を移す。

 アンデッドの昇華現象は、時が経てば消え、大地へと還元される。故に、基本的に俺達が後始末を行う必要はない。

 つまり、このある種の惨劇も、時が経てば跡形もなく消えていく。

 ──はずだ。

 そこまで考えて、俺は首を傾げた。

 何か、無視出来ないような違和感を感じたのだ。

 しんと静まり返った森も、聞き耳を立てれば鳥のさえずりが響く。だが、直後にそれすらも聞こえなくなるほどにまで、俺は考え込んでいた。

 本当にこれだけか? 今日の違和感は本当にモミアの存在が理由なのか?

 何かが違う? 何が違うんだ……?

 頭の中で、ひたすらに違和感の正体を探っていたその時だった。

「アル!!」

 今までにはない程の鋭い叫び声に、はっと我に返った。あいつが呼んだのだと──理解した瞬間には、ことはもう動いていた。

 呼ばれた先に振り返ってみれば、離れていたはずのあいつが立っていて、かと思えば……。

 襲い掛かって来ていたアンデッドから、俺を庇っていたのだ。

 俺は目をみはった。

 あいつ──イージオが俺を庇ったこともそうだが、目を疑うべきは襲って来た存在。

 それは、真っ黒い骨だけが己の身となり、死を乞うことも、他者の肉を喰らうこともなく、ただひたすらに殺戮さつりくだけを繰り返す、アンデッドの最終形態である【スクレット】だったのだ。

 スクレットの武器たる鋭利な骨が、あいつの左腕に深々と突き刺さる。

 口からこぼれた声は、形容出来ない呻きのようなものだった。

 そしてもう一つ。

 目が……目と目が合った気がしたのだ。

 アンデッドの、ないはずの目と。

 気付いたら、金縛りにでも遭ったかのように指一本すらも動かせなかった。

 このままではいけないと、声にならない声で自分に言い聞かせていた刹那。

 何かが、脳裏をかすめた。

 ──なんだ……?

 言葉に出来る程、具体的なものではなかった。記憶のような、感覚のような、はたまた別の何かか。

 答えを見つけられなかった俺に出来る精いっぱいは、起きた出来事に対して疑問を持つことだった。

 永遠のような一瞬の後、真っ先に聞こえたのは、目の前に立つあいつの声だった。

「お、らァ……!!」

 痛みを振り払うような声と共に、あいつの右手が閃いた。

 振るった剣は空を斬り、スクレットには当たらなかった。

 だが、そのおかげでスクレットの襲撃は一撃で終わり、数歩下がったかと思えば、瞬く間に森の中へと消えていった。

「く……」

 あいつが小さく声を漏らす。

 脅威が去ったことで痛みが戻って来たのだろう。傷口を押さえ、呻くというより、耐えているようだった。

 腕から滴る血が、ひどく赤く思えた。

「な……んで……」

 何で助けた?

 そう言おうと思うのに、とっさに出たのは言葉になりきらない声だけだった。

 それでも、あいつにとっては充分だったようで、くるりと俺に向き直った。

「よう……」

 向けられた声は、荒い呼吸が混じる。痛みに耐えるために引きつった顔だが、それでもあいつは笑っていた。

「無事、みたい……で、よか──」

 だが、そこまでだった。

 最後までは言葉にならず、崩れるようにして倒れたのだ。

「お、おい!」

 ようやくちゃんと出た声に、応答はない。ただ、辛うじて息があることは確認出来た。

 しかし、俺に出来たのはそれだけ。

「イージオ!」

 鈴のような声で割って入って来たのは、彼女だった。

 そのまま回復系と思しき聖星術を唱え、かと思えば、また別の詠唱を始め、あっという間に止血と応急処置を済ませたのだ。

「大丈夫。止血も済んだし、命に別状はないよ」

 大きく頷きながらそう言ったが、俺はその言葉を聞いていなかった。

 気を失ったあいつを見ることしか出来ず……。

 いや、視線は確かに向けているが、意識はそこにない。

 俺を庇った故の負傷。

 意識なき助け人。

 止血されたはずの傷口から、血液が溢れて止まらないように見えた。

 実際は問題ないはずなのだ。少女の表情は安堵そのものである。

 それでも、そう見えて──

「無事か」

 唐突に、背後から声がした。

 はっとして振り向く。

「し、神父……」

 かすれた声で出たのはそれだけ。

 立っていたのは神父だった。

 問い掛けのような言葉にも関わらず、神父は俺達を一瞥いちべつした後、返事を待たず続けた。

「イージオを教会まで運ぶ。お前も手伝え」

 明らかに俺へ言って来た言葉だが、すぐには動けなかった。

「アル」

「は、はい」

 名を呼ばれたことに気付き、反射的に返事をしたが、最早何度呼ばれたかも判らない状態だった。

 神父と二人で運んでいる間、俺の意識は現実と記憶の狭間を行き来していた。と言っても、ほとんど記憶に持っていかれていたが。

 俺を庇って倒れたあいつに、かつて、俺を助けてくれた人が重なる。


 しかしその恩人は、もう居ない。

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