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 足元を光の帯が駆けた。実力行使。胴体に当たればオルキヌスは動けなくなる。

 ナオスに躊躇いは欠片も無い。


「ベル、喋らないでよ! 舌噛むから!」

「んっ!」


 上昇しつつ、機体を細かく揺らして狙いを外す。

 GRIFFONのリミッターを外したおかげか、動きはとてもなめらかだった。


〈待て!〉


 追いかけてくるナオス。当たり所が悪ければベルは死ぬ。

 ナオスとしてもそれは避けたいはず。

 精密な狙いが要求されるのだから近づいてくるのは当たり前。


〈お、おい、ふたりとも! 待てよ!〉

〈シャウラまで何やってるのですか!〉

〈ウェズンも、だめ!〉

〈ちょ、ちょっと皆さんまで!〉


 ナオスどころか、下にいたみんなまで追いかけてくる。


〈どうしてこんなことになるかな。シリウス、土産話くらい寄越せよ〉

〈艦長補佐が脱走なんてそんな馬鹿なぁ!〉

〈シリウス!〉


 呆れているシェアトや怒る大人たちの声が遠くなる。返事は必要ないだろう。


 幾条もの閃光が追い越して行く。

 直撃を恐れてか、ナオスの狙いそのものがずれている。


〈速ぇ、全然追いつけねぇ〉

〈オルキヌスなのにどうしてあんなに速いのですか!〉

〈化け物……〉

〈当たれ、当たれ、当たれ!〉


 狙いがさらに離れていく。もうどこに向けて撃っているのかもわからない。

 訓練初日のナオスでもいまよりはマシだったのに。

 それくらい彼の精神状態は不安定になっている。


〈なんで、なんで当たらないんだよ! 当たれよ!〉

〈ふたりとも、もう戻れ! 通信範囲を越えちまうぞ!〉


 ナオスの足が鈍った。

 視界の先に、ライトグリーンの薄い膜のようなものが見えた。

 水温躍層。ここを境に水の温度が急激に変化する。屈折率が変わるせいで、通信の電波やら黒波やらが跳ね返ってしまう。だからOLVISやSOLAVISにも映るし、ここを超えると通信は使えなくなってしまう。

 この淡い膜が、いわば脱走のボーダーライン。


 それを前にして、ナオスは躊躇った。

 わたしは加速した。


「ナオス。あなたにはもっといい生きかたがあるはず。カフのもとで働いているほうがよっぽど似合ってるよ」

〈あっ……〉


 ナオスは完全に立ち止まった。

 わたしは、水温躍層を踏み越えた。

 みんなとの通信はまったく途絶えてしまった。


 肩越しに後方を確認すると、ライトグリーンのカーテンがなびいていた。その向こうに、赤いシルエットがうっすらと浮かんでいた。全部で五つ。どんな思いでこちらを見ているんだろうか。わたしはただ海のうえへ、空のうえへ、急ぐだけ。


「なんだか、すごいことになっちゃったね」


 機体の動きが落ち着いて、ベルは口を開く。目はまん丸で、楽しそうだった。


「最後にこんなのが待ち受けてるなんて思わなかった」

「シリウス、よかったね」

「嬉しそうだね、ベル」

「シリウスが取られなくて済んだから」

「ありがと」


 ベルは満面の笑み。この笑顔に再会するまで、随分と遠回りしてきてしまった。多くの時間と体力を無駄にしてきてしまった。ありえない勘違いと、根本的な間違いも少々。そのせいでベルにも辛い思いをさせてしまった。

 だから、これからが勝負だ。残りの人生は全部ベルのためにまっすぐ捧げよう。


 目の前にはライトグリーンの膜が再び現れる。今度は海水と空気の境界、あれこそが海面だ。まるで行く手を遮っているみたい。生物の進化が物語るように、水中から水上への移動は並大抵のものじゃない。わたしたちにとっても、深海から水上への移動は簡単じゃない。だって、海のうえがどうなってるかなんて、ほとんどの人が知らないんだから。


 でも、わたしたちには翼がある。

 人類を宇宙にまで進出させたGRIFFONの翼が。


「海面に出るよ、掴まって」


 この時代の人類にとって未知の領域に、わたしたちは進んでいく。

 背中に回るベルの腕が、熱い。


「うわっ!」


 SOLAVISが波飛沫を映し出した。同時に全身が前につんのめる。

 わたしはベルトで固定されているけれど、素手でしがみついているベルは大変だ。


「大丈夫だった?」

「うん……あ――」


 ベルの目が大きく開いた。驚きに口を開けて肩をすくめて、息を呑む。


「どうしたの?」

「ほら、見て。緑色が揺らいでる」


 ベルが指差す方向、足下に広がる一面緑のグラデーション。直下は明るく、遠くなるにつれて濃くなっていく。でも単なるグラデーションじゃなくて、細かくて不規則な起伏がいくつも連なっている。


「これが本当の、海の波だよ」

「きれいだね」


 昔の人にとっては白と青だったんだろうけれど、わたしたちにとってはこれすらも緑。SOLAVISだからこそ見える緑色の波だった。


「わたしたち、飛んでるんだよ。空を飛んでる」

「すごい。シリウス、すごい!」


 海底を這いつくばうことしかできなかった人類が、いまや海面を下に見ている。

 重力の力で、自分たちの意思で、空を翔けている。

 まるで赤ん坊みたいにはしゃぐわたしたち。


「本番はこれからだよ。わたしたちが見に行くのは、もっとうえなんだから」

「そうだったそうだった」


 姿勢を微調整しながら、少しずつ高度を上げていく。

 その間にもベルは辺りを見回して、


「細い糸みたいなものは?」

「これは雨。前に来たとき説明したよね」

「水が落ちてくるんだよね」


 本当は雫の形なんだろうけれど、シャワーみたいに細長く映っている。


「これが雨か。なんだかすっごくたくさん落ちてきてるのに、全然当たらないね」

「GRIFFONがはじいてるんだよ」


 波のグラデーションがどんどん色濃くなっていく。

 順調に上昇している証だ。雷もいまのところは気にならない。


「さすが指揮官機ってやつ?」

「ううん。GRIFFONのリミッターを外したからね」

「リミッター? そんなのついてたんだ。え、でも、そんなことして大丈夫なの」

「まぁ、だめなんだけど」


 素直に白状する。懲罰房何時間で済むかな。


「いいの? 次期艦長がそんなことやって」

「いいのいいの。どうせこっちに来たら処罰から逃げられないんだし。それに、わたしを連れて脱走したベルが言えたことじゃないでしょ」

「う、それは……あはは」

「笑ってごまかさないの。……わたしね、嬉しかったんだ」


 胸元にかかるベルの体重が重くなった気がした。


「嬉しかったって、何が?」

「嬉しかったって言うより、嬉しい、かな。ベルがわたしを連れ出してくれたこと」


 それを聞いたベルは、頬を緩ませて照れくさそうにしていた。

 かと思うと、いきなり冷静になったように真顔に戻って、


「でも、太陽もなかったし無駄足だったんだよ」

「そういうことじゃないの。太陽があったとかなかったとかは、わたしにとってはどうでもいいの。ベルが、それだけわたしのことを考えてくれたってことなんだから」


 ベルがわたしのために危険も顧みずに行動を起こしてくれた。

 わたしはそれだけで幸せだ。


「だから、わたしもベルのために何かがしたいの」

「シリウス……」


 そう言って、目頭をにじませた。本当に表情がよく変わる子だ、ベルは。


「ごめんね。わたしのせいで大変なことさせちゃって」


 そして、意外なところでネガティブだったり。

 そういうのも含めてすべてが愛おしい。


「泣かないの。わたしがやりたくてやってることなんだから」

「うん、そうだよね。ありがとう」

「ほら、顔上げて」


 頭上には雲が広がっていた。空気中に浮かんだ小さな水滴や氷の粒の集合体。SOLAVISにとってはそれすらも緑色だった。しなやかだった水温躍層とは違って、雲はもっと分厚くて、それでいて柔らかそうな見た目をしている。水温躍層がカーテンなら、雲は毛布かな。


「すごい。ふわふわしてる……」

「雲だよ」

「あそこに飛び込んだら、すっごく気持ちよさそう」

「だね」


 しょせんは水だからびしょびしょになって寒いだけなんだろうけれど、捉えどころのない柔らかさはベッドのようだった。ふわふわしたものがどんどん近づいてくるにつれてどんどん明るくなっていく。肉眼で見る雲も白い色をしているらしい。わたしたちは大昔の人と同じ景色を見ている。


「突っ込むよ」

「うん」


 期待に満ちた返事と同時に、わたしたちの周りは真っ白になった。


「……なんにも起こらないね」

「まぁ、お風呂の湯気と原理は一緒だからね……」


 GRIFFONが氷の粒もよけてくれるからただただ静かで真っ白ななかを突き進んでいるだけだった。


「ちぇー、つまんないのー」

「でも、こういうのもきれいだと思わない?」

「そう思ったらそうかも……? シリウスといっしょだからかな」

「もう、何言ってるの」


 恥ずかしさをごまかすように機体を加速させた。

 ついでにふたつグラフをモニターに表示させる。


「シリウス、これは?」

「温度計と気圧計。これで大体の高度がわかるよ」


 いつまでも真っ白ななかを突き進むのはさすがに退屈すぎる。

 現在の気圧は約五百ヘクトパスカル。気圧からおおよその高度を計算する公式をタブレットで見つけていたのでそこに当てはめてみる。


「どれくらい?」

「だいたい七千メートルってところかな」


 本当に大雑把な計算だし、この公式が発明された大昔と現在じゃ自然環境が違いすぎるから、本当にあっているのかちょっと不安。


「そ、そんなに来たんだ」


 海底から計算すれば一万五千メートル。わたしたちの常識なんて通用しない世界。


「雲がだいたい一万メートルくらいまで伸びてるらしいから、もう少し」

「楽しみだね」

「うん」


 上昇は順調だ。

 気圧差や温度差で機体が損傷しないかとも思ったけれど、兆候もない。


 そうして気圧が四百を切りしばらくしたころ、視界に変化が起こった。

 周囲にまとわりついていた白い光が一斉に消え去ってしまった。


「あっ……」

「雲が……」


 コックピットのなかは一気に暗くなり、はるか下方の雲だけが緑色に光っている。

 それすらも少しずつ遠のいていく。


「来たの?」

「うん。来たんだよ、雲のうえに」


 宇宙の二歩手前、対流圏と成層圏の境界面に。

 目線よりうえには何もない。音波も黒波もないからどこまでも真っ暗な大空。


「いい、ベル。可視光モードに切り替えるよ」

「ちょ、ちょっと待って」


 パネルにかざしたわたしの指を抑えて、ベルは顔をしかめた。

「……何してるの?」

「見逃しちゃいけないと思って。まばたきしないように」

「それいいかも」


 わたしもベルの真似をした。まばたきの前借り。

 真っ暗ななかで、天体観測の儀式について思い出していた。大昔、新しく作られた天体観測機器の初稼働をファーストライトと呼んだらしい。初稼働を祝ったり、機器の性能を確かめたり、ファーストライトは重要な意味を持っていた。観測機器の真っ暗な視界に星の光が次々と灯っていく様子は、まさしく最初の光だ。

 わたしたちの初観測はOLVISの可視光モードだけれど、これだって立派なファーストライト。重要な儀式。その瞬間を見逃すわけにはいかない。


 瞳のうるおいがじゅうぶんに前借りできたところで、ベルに声をかける。


「もういいかな」

「せーので目を開けよ。せーの――」


 いっしょに瞼を開く。


「じゃあ、可視光モードに切り替えるよ」

「うん」


 OLVISの可視光モードは人の目と同じ程度の感度がある。

 大昔の基準でいう六等星くらいまでならちゃんと映し出してくれるはず。

 上空には光を遮るものなんてひとつもなくて、ちゃんと星空が存在していて、星が生き残っていれば、の話だけれども。


「3、2、1――」


 でもそんな心配は全くなかった。

 まばたきを前借りする必要もなかった。

 わたしたちが見たのは、眩しいくらいに輝いた星空で、まばたきなんて勿体ないことできっこないのだから。

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