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ベルの表情は、きょとんを通り越して完全に魂が抜け切っていた。行きたくなったら誘ってね、と自分自身で言っておきながら、本当にそんなお誘いを受けるとは夢にも思ってなかったんだろう。
「うえって、うえ? ほんとに言ってるの?」
けれどそこから、徐々に炎が燃え広がるように、怒りの色が混じる。何を言っているの、どうしてそんな意地悪なことをするの、なんて言葉が聞こえてきそうだった。
「どうして……太陽も無いのに、どうしてうえに行くの」
ベルの瞳がじわりと潤む。さっきとは違う理由の涙。太陽のない空を見たのに、それでもまだ海上と太陽を結びつけてしまっているんだろう。それはベル以外の子供たちだってそう。
でも、それではだめなの。
「太陽も無い、暑くて真っ暗な場所にどうして行かないといけないの。いまさら行ったところで、わたしたちじゃ何もできないのに」
ほとんど叫んでいた。太陽が見られなかったことが、太陽の存在を否定されたことが、よっぽど悔しくて悔しくて、たまらなかったんだろう。
「そんなことないよ」
わたしはそんなベルに、優しく、諭すように話しかける。
母親が、抱いている我が子に子守唄を歌うように。
「そんなことあるよ!」
「ううん。ないよ。だって、わたしは生きてるでしょ。いままで何度も死にかけてきたけれど、わたしはちゃんと生きてる」
「それは……」
「太陽はもう死んじゃったかもしれないけれど、わたしは生きてるんだよ。シリウスは、ちゃんと生きてる」
それが、わたしの答え。
「もっともっと高いところまで行こう。太陽なんかじゃなくてさ、もっと遠いところにあるものを見に行くんだよ」
「そんな高いところまでどうやって……」
「大丈夫、わたしに任せて。だから、シリウスってやつを見に行こうよ」
断られたらどうしよう。拒まれたらどうしよう。こんなんじゃ、口調がぎこちなくなるのも仕方がない。ごめんね、そんなこと何も考えずに断っちゃって。
「わたしがこんなことを言えるのは、たぶん今日これっきり。嫌だったら嫌でいい。でも、わたしはベルに見せたいの」
喉が、息をするのも辛いくらいに苦しい。ほとんど、吐き出すような心地だった。
「だから見て。太陽なんかじゃなくて――」
体が熱い。
「シリウスだけを」
言い終えた瞬間、体中が痺れた。変な笑いが出そうだった。
ベルは泣いていた。たぶん、わたしの言いたいことが伝わってくれたんだと思う。
「シリウスのばか……」
ベルはしゃくり上げていた。
体を捻って、わたしのことをこれでもかというくらい力強く抱きしめてくれた。
そして一際大きな音を立てて鼻をすすると、
「わたしはずっと、シリウスだけ見てるよ!」
はっきりと言い切ってくれた。
「わたしもベルだけ見てるよ」
こんなに簡単なこと、もっと早く言えればよかったのに。
まぁ、こういうのもわたしたちらしいのかもしれない。
いたずらを無事達成した子供みたいに、わたしたちは笑った。
「今度は、シリウスが連れて行ってね」
「わかってる。しっかり掴まっててね」
右手で操縦桿を強く握る。操縦だけなら片手でもなんとかなる。
GRIFFONを全開にしてふわりと浮き上がる。
そのまま一気に上昇しようとしたら、目の前をひとつの光弾が駆け抜けていった。
仕方なく停止する。
射線を探るとナオスのオルキヌスがまっすぐこちらを睨んでいた。
「……あなた、いま何やったのかわかってるの」
切っていた通信を復活させる。
〈それはこっちのセリフだ。シリウス、いま何をしようとした〉
いつにも増して声が荒んでいた。
彼の銃口は最奥がはっきり見えるほどまっすぐ、わたしたちを狙う。
人に銃を向けるなって習わなかったはずがない。
〈返答次第じゃただじゃおかない。撃ってでもとめるぞ〉
「やめてよ、ナオス。人に向けるものじゃないよ」
〈ごめん、ベル。でも僕は、シリウスに言ってるんだ〉
「どうしちゃったの……」
ベルに対しては比較的冷静な言葉が使えている。
決して混乱が極まっているわけでも、怒りに狂っているわけでもない。
彼は彼の理屈で動いている。
ふと、彼のベルに対する態度を思い出した。それが彼の理屈なのかもしれない。
だとしたら余計に、わたしたちに銃を向けてはいけないはず。
ベルのほうを見ると、怯えた目をしていた。
「ベル、大丈夫。行くよ」
「う、うん……」
別に、わたしがわざわざナオスに付き合う義理もない。
機体を上方へ向け、GRIFFONの重力バランスを操作。再び上昇を開始する。
その瞬間、わたしの左腕が弾け飛んだ。
「ぐっ――」
「シリウス!」
「大丈夫、大丈夫だから」
ケガをしているとはいえ、オケアノスの痛覚は一瞬。大したことはない。
それよりも、ナオスはレーザーを撃った。機体から吹き飛ばされた金属の塊は極端な水圧に曝されてぺしゃんこになっていた。視界には光のすじが一条。
〈ナオ! 何やってるんだ!〉
〈落ち着くのですよ!〉
〈ナオスさん、どうして!〉
〈うるさい! とめるのは僕じゃなくてシリウスじゃないのか!〉
ナオスは一喝してみんなの制止を払い除けた。
〈シリウス。早く答えろ。お前はいったい何をしているんだ〉
さっきのは誤射じゃない。ナオスの口ぶりからはそれがありありと伝わってくる。
みんなもそれを感じ取っているんだろう。
下手なことをすれば撃たれるかもしれない。
まともに食らえば死は確実。手出しはできない。
「お、落ち着いてよナオス」
〈シリウス!〉
ベルの言葉も届かないらしい。爆発寸前、いや、すでに暴発している。
無視するべきか、答えるべきか。わたしたちがより安全なのはどちらだろう。
「ねぇ、ナオス。どうしてそこまでこだわるの」
大事なところはあえてぼかしておいた。彼がこだわっている何かについては。
〈どうして? わかってるだろう。いや、お前が知らないはずはない。僕に、個人プロファイルの読みかたを教えたのはお前なんだから〉
――ナオとお前がごたごたする前は、俺たち四人で訓練もしたんだけどなぁ。
そんな時代もあったっけ。
「個人プロファイルと、どう関係があるの」
〈僕はね、記録に残ってるプロファイルを全部見たんだよ。そこで気が付いた。シリウス、どうしてお前はシリウスなんだ。どうしてお前が、艦長補佐なんだ。どうして、僕が艦長補佐じゃないんだ〉
しんと静まり返る通信に、ナオスの声だけが痛々しかった。
はたから聞いていれば赤ん坊のわがままでしかないだろう。彼の疑問の意味を本当に理解しているのは多分、大人たちと、それからわたしだけ。
〈カノープス艦長と行動を共にしていた人物の名前を知っているか。艦長の前にカノープスと呼ばれていた人物が先代のアケルナル艦長とよくいっしょにいたことは知っているか。その前にアケルナルという名前だった人物が、先々代のカペラ艦長と懇意だったことは? 当然知ってるよな。だったらわかるはずだ〉
まったく同じ思考回路でもって、わたしはあそこにいた老人の名前がナオスであることに気づいたのだから。知らないわけがない。
〈そう。歴代の艦長はみな、自分と関係の深い名前を次の艦長につけていたんだ。カノープス艦長と縁のあった人物の名前はナオス、僕といっしょだ〉
ようやくわかった気がする。七歳のとき、彼が態度を豹変させた理由。これまでわたしにきつく当たっていた理由。ベルと話すときは露骨に軟化していた理由。
〈本当なら僕が艦長になるはずだったんだ! なのにどうして、お前が艦長なんだ。どうしてお前は、いままで誰も名乗ることのなかった二代目艦長の名前をつけてるんだ。お前は、僕から大切なものを奪ったんだ!〉
人聞きの悪い。彼が主張する事実に、わたしの意思なんてほぼ介在していないのに。だからこそ、彼はやり場のない苛立ちを叫ぶしかないのだろうけれど。
〈ナオ、落ち着けったら。言ってることめちゃくちゃだぞ〉
〈うるさい! 僕の気持ちがわかるものか!〉
周囲は戸惑いの空気がほとんどを占めていた。彼を心配する素振りすらある。過去、誰がどの名前を名乗っていたのかなんて、気にする子供はまずいない。そんな使いかたをするものではないから。
けれどナオスは、優秀であるがゆえに気づいてしまった。テストで優秀な点数を叩き出しても、訓練でいいスコアを記録しても、いちどたりともいちばんになれなかった理由に。わたしに勝てなかった理由に。
人類の遺伝子は、過酷な環境でも生き延びられるよう操作を施されている。よほどの突然変異が起こらない限り、生まれた瞬間その能力や運命はほぼ決まっている。
ナオスは、自分が二番手であることを生まれた瞬間から定められていた。
その事実に気づくことは、どれだけ深く、心を傷つけるんだろう。
例えば、わたしがどれだけ手を伸ばしてもベルに届かなかったとしたら、そしてそのことを生まれた瞬間から定められているとしたら。
〈だから僕は、絶対にお前を行かせない。ベルを連れ出させはしない〉
その絶望に気づいたのが彼だとしたら。
「あなたの言いたいことはそれで全部?」
仮にそうだとしてもわたしは、負けるわけにはいかない。
〈艦長補佐だからって余裕ぶるなよ。僕が引き金を引けば、お前は死ぬんだぞ〉
これでもわたしは怒っている。ベルに銃を向けたことを。
ナオスがこのあとどうなろうと、わたしには関係ない。
「ナオス。そんなに言うのなら、わたしと勝負してみない?」
〈何……?〉
「わたしはいまからベルといっしょにうえに行く。あなたはそれをとめればいい。方法はなんでもいい。もしあなたがわたしをとめたら、大人しく負けを認める。最終的にあなたが欲しい物を全部あげてもいい。それでどう?」
〈お、おい、シリウス! お前、めちゃくちゃなこと言ってるのがわかってんのか〉
「シャウラ、静かに。これはわたしとナオスの問題。で、どうするの、ナオス」
まぁ、第三者は誰も納得しないような取引だろう。
常識だとか理屈だとか行儀のいい言葉はもう通用しない。
わたしとナオス、どちらが自分の生きかたを貫けるのか。それだけ。
「シリウス、だめだよ。もしシリウスが負けちゃったら、シリウスがナオスのお嫁さんになっちゃうかもしれないよ」
「……ベル、それ本気で思ってる?」
「え、え?」
おどおどしているベルは本気らしかった。
この期に及んでこうもずれているなんて、吹き出してしまいそうだった。
でも、ちょうどいい。説明の手間が省ける。無駄な力も抜けていく。
「そんなこと、ありえないよ。だって、絶対に勝つから」
「……うん、そうだよね。シリウスが負けるはずないもんね」
納得してくれたのならそれで良しとしよう。
「シリウスといっしょにうえに行きたいから。絶対に勝ってね」
その言葉だけで、どんどん力が湧いてくるみたいだった。
〈……僕が何をしても、文句を言うなよ〉
「当たり前」
〈……そうか〉
言い終わらないうちにわたしは飛び上がった。
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