29

 ぼんやりとした緑色の暗闇で、深呼吸をひとつ。


 ヴァスィリウス。


 奴らがいなければ、ベルも、太陽を見たい、なんて考えなくて済んだんだろうか。

 人類が絶滅寸前の状態で海底に追いやられたのは、奴らが大陸を食い尽くしてしまったせい。人類が海上に行けないのも、奴らが海面をうようよしているせい。奴らがいなければ、いつだって太陽が見られた。大昔なら当たり前の存在だった太陽を見るためだけに、命を危険にさらす必要もなかった。


 太陽を見たい、というベルの思いをねじ伏せるような真似も、しなくてよかった。


 わざわざこんな鉄の塊、オケアノスに乗って戦う必要もなかった。

 機械の操作を覚える必要も、毎日延々と訓練を続ける必要もなかった。


 全部、ヴァスィリウスがいるから。


 ベルと一悶着あったおかげか、奴らへの苛立ちがどんどん大きくなってくる。

 そんなわたしの思いに反応してか、緑色の暗闇が揺らいだ。

 揺らぎはどんどん輪郭を得て、深緑の影をつくりだす。

 輪切りにした楕円のような影。距離は約三キロ。


 奴らだ。


 その高解像度ぶりに、まるで深海を生身で泳いでいるような錯覚すら覚える。けれどしょせんはドットの集合体。特定の電磁波を映像化して球体コックピットの内側に投影しているだけ。死ぬかもしれない戦闘なのに、奴らの姿もオケアノスのフォルムもすべて、電子の映像だ。


 だからこそ、躊躇わずに攻撃できる。


「レーザー発射!」


 操縦桿の引き金を引く。真っ白な帯が三条、敵に向かって走る。遠くで濃緑が広がった。レーザーが直撃した証。奴らの群れはまるでアメーバみたいに暴れている。突然の破壊的な出会いに驚き戸惑っている。


〈敵損耗率数パーセント。まだ百近く残ってる〉

〈ひとり頭十匹だな〉


 アメーバの右側が出っ張る。一部の個体が攻撃から逃れようと進路を変えたらしい。ほかの個体も追従する。奴らは高速で深海を泳ぎ、緩やかな弧を描く。

 どう迎え撃つか。数百メートル隣の仲間に指示を飛ばす。


「三時方向!」

〈ナオ、撃て!〉


 新たな光が一条。弧の脇腹を叩く。だがその程度ではとまってくれない。


「シェダルは充填、アナはわたしに合わせて」


 正面のレーザーは二本に。

 待っていたと言わんばかりに敵本隊が一斉に右へ流れた。


「回り込んでくる。スピカ、頭を狙って」


 攻撃をものともせず、敵は速度を上げる。

 巡航速度のさらに倍、毎時百二十キロメートル。

 猛烈なクロソイド曲線は、攻撃が手薄な場所を探している。


「アナ、充填」


 正面は弾切れ。

 それでも、前方の個体を追いかける習性がヴァスィリウスを釘づけにする。


「レーザーは点射に切り替えて。シェダル、充填終わり次第射撃再開」

〈は、はい!〉


 レーザーが途切れ途切れに変わる。まるで砲弾だ。細く伸びた敵の群れに穴を空けていくけれど、効果は薄い。手負いのまま泳ぎ続けるヴァスィリウスもいる。

 クロソイドの半径はみるみる絞られて、一キロメートルを割る。深緑だったドットはライトグリーンに変わり、奴らの細いシルエットをより鮮明に浮かび上がらせる。


「全員、バルカン準備」


 戦闘は中射程へと移行。

 敵群の先頭は機敏に旋回。八時の方向からやってくる。


「アーク、迎撃」

〈おう〉

「シャウラとウェズンもアークの援護。レグルスはその場を維持」

〈了解だ〉

「――斉射」


 正面切って突撃してくる奴らと、バルカンから放たれた弾幕は見事に衝突。

 互いにすり潰し合い、ヴァスィリウスの屍が深海を侵食する。

 水中に拡散した肉片や体液が、ライトグリーンの領域を広げていく。

 淡い霧のなかを貫くように、無数の光弾が走る。


〈シリウス! 奴ら痺れを切らしたぞ!〉


 行儀のよかった群れが、乱れはじめる。


「わかってる。損耗率は」

〈五十!〉


 半数を失い、目前の個体を追いかける習性が機能しなくなってきている。

 奴らに残された道はひとつ。ただ、こちらに向かって突撃するのみ。

 人類の敵は三方向から一気に雪崩れ込んできた。


「まだ攻撃してない機体は射程に入り次第攻撃」


 敵が最も多い場所。群れの戦闘がいる八時。

 充填が終わったばかりのレーザーを撃ち込む。


「ウェズン、右の援護。シャウラは後ろ。アナは最後尾から処理」

〈おい、左はいいのかよ〉

「三人で大丈夫」


 敵本隊をわたしとスピカとアークで抑えつつ、戦力を均等に分ける。

 襲撃は収まることなく、屍から屍が生えてくるような状況。味方の肉片を掻き分けて、奴らは襲ってくる。ここが危険だというのは、奴らだってわかっているはずなのに。人類の武器によって命が奪われることも理解できているはず。だからこそ大きく迂回してまで攻撃の薄い場所を探している。

 そこまでしてわたしたちのもとへ向かってくるのはなぜなんだろうか。


 あたり一面がライトグリーンだった。屍から染み出した体液はかなりの量になっている。それだけ敵も近づいてきている。弾幕だけでは処理しきれなくなってきた。

 ここからは、この色をどれだけ緑に保てるかの勝負。淡いグリーンは敵が迫っていることの証。視界が白くなったとき、死ぬ。


「ブレードの使用を許可」


 最初に跳び出したのはベルだった。弾幕の合間をすり抜けて、迫るヴァスィリウスを三体、一瞬にして切り伏せる。二倍はある体格差をものともせずに、まるで踊っているかのよう。

 直線的なフォルム。赤いシルエット。

 緑色にまみれた深海で、オケアノスの赤い識別信号はよく目立つ。


〈す、すごい……〉


 シェダルも溜息を漏らした。新人の目には刺激が強いかもしれない。

 それだけベルは圧倒的だった。ほかがようやく一体倒している間に、ベルひとりで五体も六体も葬っている。二番手のレグルスでも三体。

 ベルの周囲だけ時間の流れが早回しになっている。細胞レベルで鍛えられた操縦技術、急旋回にも耐えられる身体能力、それらが合わさってはじめてなせる芸当。


 けれどいまは戦闘中だ。


「シェダル!」

〈ボサっとするな!〉


 わたしとレグルスから喝が飛ぶ。


〈す、すいません! あ、しまっ……〉


 一瞬、シェダルの攻撃が遅れた。奴らがその隙を逃すわけがない。

 絶好の空間に気づいたヴァスィリウスが、一斉にシェダルに襲い掛かった。


「スピカとナオス以外はシェダルのカバー!」


 まぁ、新人くんのことだ。これくらいのミスは大目に見てあげよう。


〈そっちは大丈夫なのかよ!〉

「問題ない!」


 シャウラが一体に斬りかかる。幸い敵の大部分はシェダルの方向に集中している。


「スピカ、ナオス、弾幕」


 四本のバルカンと二本のレーザーが敵の進攻を鈍らせる。そうやって敵がまごついている隙に、わたしはいちばん近い敵から点射で仕留めていく。両のバルカンとレーザーで、狙うはヴァスィリウスの目。その奥にある脳幹。

 ほんの数百メートル先に、屍が転がった。傷口は小さいから体液の漏れはほとんどない。視界を邪魔することもない。


 わたしは確実に、ベルは豪快に、屍の山を築いていく。

 戦って戦って、ライトグリーンの海を広げていく。ヴァスィリウスの死は緑色だ。


 そして人類の死は、白だ。


 ライトグリーンの世界が揺らめいた。肉片と体液の混じったものがそよいだ。

 生臭いもやを掻き分けて、白い塊が飛び出した。

 弾幕を運良く突破した一体のヴァスィリウス。その顔は古代魚そっくり。巨大さも、凶暴な歯も、意外に小さな目も。緑色の濃淡だけで描画された映像でも、こんなにくっきりと表情が読み取れる。鱗の輪郭までもが見える。


 この一体はわたしに襲い掛かる。大きな顎を開け、並び立つ歯列を見せつける。距離はほんの数メートル。色は、ほとんど真っ白。わたしの視界を覆い尽くした。

 レーザーを放つ。喉を焼かれ内臓を焼かれ、串刺しにされるヴァスィリウス。


 それだけではなかった。


〈全部、やっつけたよ〉


 視界の上部から伸びた光の波が、ヴァスィリウスを縦に両断していた。慣性で泳ぎ続ける二つの半身が、ちょうどわたしを避けるように掠めていった。


「ありがと、ベル。……痛っ――」


 両の肩に抉られるような痛み。掠めたといっても、元が大きいから機体の損傷は免れない。この痛みだと、バルカンくらいはもげているかもしれない。


 わたしはホログラフィックパネルを確認した。戦闘に参加したパイロット全員の名前。九つは血のように鮮やかな赤色で、わたしの名前だけがわずかに淡い。肩の痛みはあるけれどほっとした。わたしを除けば、戦死者どころか損傷もない。あれだけ大立ち回りをしていたベルですらまったく無傷だった。


 当の本人は目の前でブレードを燦然と輝かせていた。


〈どういたしまして。大丈夫?〉


 怒ったようなベルの声。


「うん、大丈夫。――状況確認。何か見える?」

〈いや。わたしが見る限りじゃあもういなさそうだな。ベルはどうだ〉

〈レグルスといっしょ〉


 敵影なし。確認できない。そんな言葉が立て続けに聞こえてくる。


「ふぅ……。アステリズムαよりアルマへ。戦闘終了」


 内臓を引きずり出すようなプレッシャーと共に、戦闘終了を告げる。

 ベルに脱走の気配はなかった。

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