Thirty seconds and counting.

30

「ねぇ、シリウス。太陽ってやつ、見に行かない?」


 驚きに視線を上げると、ベルは壁にもたれかかっていた。

 彼女のすぐ隣には窓があって、その向こうをチョウチンアンコウが泳いでいる。

 とてもゆったりとした泳ぎ。発光器の灯りだけが真っ暗な室内を照らす。

 あまりにも穏やかで、わたしのなかにあった驚きはすうっと薄れそうになる。


 けれどもベルは逆光のなかに隠れてしまった。

 チョウチンアンコウがつくる逆光。

 きれいな水色の髪も瞳も、いまは真っ黒だった。


 落ち着かない。

 わたしはずれた眼鏡を戻しながら訊ねる。聞き間違いの可能性を信じて。


「えっと、ベル……。もういちど言ってくれないかな」

「だから、太陽を見に行かない? いっしょに、うえに。

 脱走するんだよ。アルマから」


 人類最後の根城たるアルマからの脱走。

 聞き間違いじゃなかった。

 ベルの口ぶりはよそよそしくて、緊張しているんだろう。

 口に出すには覚悟のいる言葉だから。

 その覚悟が、わたしの不安を駆り立てる。


「本気で言ってるの……」

「うん、本気。じゃないとシリウスには言わないよ」

「だめだよ、脱走なんて。禁止されてるの、知らないわけじゃないでしょ?」

「シリウスは行ってみたくないの? うえは明るくてあたたかくて広いんでしょ?」

「行きたくないわけじゃないよ。それが人類の目的なんだから。でも個人で勝手にやっていいことじゃない。還ってこれる保証なんてないんだし、だから禁止されてる」


 語気が強くなる。それだけとんでもないことをベルは言っている。

 とんでもなく危険で、それでいて希望に満ちていて、だからこそ許されない行為。

 絶対にベルを行かせてはいけない。ここでとめなくちゃいけない。


 ベルは答えない。徹底抗戦の構えらしかった。

 こんなときこそ落ち着け、わたし。呼吸をひとつ。


「ここから海面まで、どれくらいの距離があると思ってるの」

「……八千メートル」


 そう。約八千メートル。精確な水深は誰にもわからない。

 深海に引きこもっている人類にとっては、ただでさえ面倒な計測もさらに不可能に近づいてしまう。わたしたちに与えられた数値は、八〇四バールという水圧と、周囲の水の密度だけ。そこからおよそ八千という水深が導き出されるけど、それだってどこまで信用していいか難しい。


 どちらにせよここは、八〇四バールの水圧に閉じ込められた牢獄みたいなもの。

 牢獄っていうのは逃げちゃいけないから牢獄だ。

 ここから海上に行くことはまさに脱走だ。


「八千メートル上昇する間に何が起こるかわからない。海流で自分の位置を見失うかもしれないし、メカトラブルだってあるかもしれない。海面にたどり着けても、そこからどうやって還ってくるの。もういちど戻ってこないと死んじゃうんだよ。海中に目印なんてない。命綱だってないし、通信も三千メートルしか届かないんだよ」


 根拠と数字を挙げていく。

 冷静なつもりなのに、滑るように言葉が出てきてしまう。

 思うようにコントロールできない。


「脱走すると還ってこれないっていうのは、海が危険なのもあるけど、ちゃんとしたやりかたがないからなの」

「カンでなんとかするよ」

「カンって……」

「どれくらい流されてるのか、感覚でわかるよ。流されてもちょっとずつ方向を修正していけば、ルートからはそんなにずれないよ」

「八千メートルを往復する間に、三千メートル……」


「簡単だよ」


 言い切るベルは力強くてかっこいい。ベルなら本当にできるかもしれない。

 だから、困り果てる。喉の痙攣を何とか飲み込む。


「簡単じゃない。通信もなしで、海をカンだけで進むってことは、目を閉じて歩くのと同じなんだよ。しかも何十分も。どれだけ難しいかわかってるの」

「で、できるよ」

「本当に? 絶対って、言い切れる?」

「……絶対」


 ベルは少し苦しげだった。

 ムキになっている。ベルも、わたしも。顔が熱い、視界がかすむ。


「ベルのこと、信じてないわけじゃない。でも、いままで何十人っていう人が脱走を試みて、還ってきたのはたったひとりだった」


 だめだ、我慢できない。


「死んじゃうよ、いくらベルでも……」


 目じりのあたりを何かが流れた気がした。頭が、割れそうに痛い。


「わたしは死んでもいいよ。

 わたしが死んでも、シリウスだけは絶対に還して見せるから」

「そ、そんなの、だめだよ!」


 わたしのためにベルが死ぬなんて、馬鹿げている。

 そう、馬鹿げてる。ベルが死んだら、ベルはあんな姿になってしまう。

 あんな、あんな姿……?


「あ――ッ!」


 目の裏を抉るような痛み。思わず額を抑え目を閉じる。瞼の裏の暗闇。何かが見えた。これは痛みじゃない。強烈なフラッシュバック。昔、啓発のために魅せられた金属の破片。


「シ、シリウス……?」

「だ、大丈夫だから……」


 近づいてくるベルの気配を、手で制する。


「ベル、覚えてる? 小さいころ、いっしょに見たよね。うえに行った人がどうなったか。還ってきたのがなんだったか」

「あ……」


 ベルだって覚えていないはずはない。でもわたしは、ベルよりもその光景を覚えている。傷だらけの金属片。熱で融けた跡。水圧に潰されて原型は残っていない。そして、隙間から覗く、明らかに金属ではない白いもの。これは水を吸った死体だと言われたときのベルの反応。


 全部覚えている。その光景自体は何でもない。けれども――


「ベルがそうなっちゃうのは、わたし、耐えられない……」

「ご、ごめん。変なこと思い出させて」

「ベルが死んじゃったらダメなの。一パーセントでもベルが死んじゃう可能性が残っているのなら、それこそ、死んでも引き留めるから」


 わたしの命でベルが死を免れるのなら本望だ。


「そんなの……」


 頭痛が少し収まって、顔を上げる。

 ベルは項垂れていた。表情は見えないけれど、シルエットからそれがわかる。

 少し、言い過ぎたかもしれない。


 体力を振り絞ってベンチから立ち上がる。手にしていたタブレット端末を置いて、羽織っていた毛布も脱ぎ捨てる。ひんやりした空気を押しのけて、ベルの前に立つ。ベルの鼻とわたしの眼鏡がぶつかりそうに近い。

 ふわっと、良い匂いがした。わたしの好きな匂い。

 ベルの命が感じられて、頭痛が消えていくような気がした。


 同時にチョウチンアンコウの灯りが消えて、代わりに赤銅色のフットライトがベルの表情を照らし出してくれる。ライトブルーの瞳は潤んでいるように見えた。


 彼女の両肘を、そっと抱き寄せる。


「命を捨てるような危ないことはやめてよ。わたしのためだと思って」

「それは、シリウスが指揮官だから? それともわたしのツーマンセルだから?」

「両方に決まってる」


 ベルは壁から体を離して、わたしのほうに体重を預けてくる。

 ちょっといじけた息が耳元にくすぐったい。そうして観念したように、


「……ごめんね、変なこと言って」

「ううん。わたしのほうこそ、ムキになって言い過ぎちゃった」


 冷静になってみれば、恥ずかしくなるくらい幼稚な喧嘩だった。絶対、とか、言い切れる、とか、十八歳の乙女が使う言葉じゃない。いくらなんでも熱くなりすぎた。

 火照りを鎮めながら、ふと考えてみる。うえに行くことは規則違反で、画策していることがバレたらすぐにとめられる。だから、本当に脱走したいのなら秘密にしなきゃいけない。わたしにとめられることを、ベルだって予想できるはず。


 この場で誘ってきたことには何か理由がある。わたしを誘った理由。そもそも、ベルがうえに行きたがっている理由は何。手掛かりになりそうなものはいろいろとあるけれど、たぶんいまはそんなことを考えていられる場合じゃないだろう。


「ベル。ここで約束して。ひとりで勝手にうえに行かない、って」


 今度はわたしが、ベルに体重を預ける。ベルの肩に額をのせて壁側に押す。こうやってベルの体を感じていたかった。ふとした瞬間にベルがいなくなってしまいそうだったから。いっしょに行こう、と誘ってくれたけど、断られた以上ひとりで行ってしまう可能性だってある。

 しな垂れた青い髪から、またベルの匂いがした。


「……勝手じゃなかったらいいの?」

「とめるよ、死んでも」

「だよね」


 歯切れが悪い。きっとまだ、どこか解せないところがあるんだろう。

 念を入れるように力を込めて、ベルにわたしを押し付ける。


「お願いだから、ちゃんと返事をして」

「……うん、わかった」


 ひとまずはこれでいい。

 ベルが諦めきれていないのは明らかだけど、今日をしのげば時間ができる。

 その間になんとかできるはず。いや、なんとかしないといけない。


 と、部屋中にブザーが鳴り響いた。鼓膜をひっかくような不快な音。

 でもそのおかげで、わたしたちの会話にもとりあえずの区切りがつく。

 わたしは運がよかったんだろうか。いや、違う。ベルはわかってやっている。

 このタイミングでブザーが鳴ることを。数少ない脱走のチャンスが訪れることを。

 もしわたしがベルの誘いに頷いていたら、このままうえを目指していただろう。


「来たね、シリウス」


 ベルの声が少しだけ朗らかに聞こえた。さっきまでの歯切れの悪さは一変して、いつも通りの真っ直ぐさが戻っている。かえって心配になる。


「……ベル、変なこと考えちゃだめだよ」

「うん」


 ちょっとくどいけれど、いくら釘を刺しても不安は薄れない。

 すぐにとめられるよう、ベルのことをしっかり見張っておかないといけない。

 仕事が増える。上等だ。わたしはベルの手を引いて走り出す。頭痛は消えていた。


「シリウス、毛布たたまないとしわになるよ」

「時間がないんだから仕方ないって」

「もう、あとでちゃんとたたむんだよ」

「はいはい。急ごう」


 わたしたちには時間がなかった。あと二十分もすれば、戦闘が始まる。

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