第6話☆ 取り調べ
☆
末島は、平野茜の自宅へと、車を走らせていた。
操から飛び出た衝撃的な言葉。――平野茜が堕胎した子供の父親は、平野茜の父親、平野元康である。
その事実を本人に確認するため、末島はただ一人で、都内にパトカーを走らせていた。
和正は、病院に残り、操に操自身と黒沢腎の関係について聞いている。お世辞にも社交的とはいえない和正は、元康を挑発するかもしれない。元康を激昂させ、口を閉ざさせてしまうかもしれない。だから、和正と比べて、どちらかと言えばコミュニケーション能力のある末島が、こうして一人パトカーを走らせているのである。
幸いにも、病院から平野茜の自宅、及び平野元康の自宅はさほど離れてはいない。数十分もすれば、そこには容易に辿り着くことができた。
末島は、車から降り、おずおずとチャイムを押した。途端、前回この家に来た時の記憶が蘇る。
――突如として暴れだす女性、自分にのしかかり、首を絞め、何かを叫ぶ……。末島は、吐き気を催した、だが、「これも仕事」そう割り切って、彼はせり上がってきた胃液を飲み込む。
丁度その時である。ドアが開き、中からひょっこりと元康が顔を出したのは。
末島は、胸の内ポケットから警察手帳を取り出し、元康の顔にそれを突き付けた。
強張る舌と、唇を懸命に動かし、自ら名乗る。
「……もっ、森継警察署刑事部、末島……
元康は苦笑したのち、「知ってますよ」と手を横にひらひらと振った。
「それで……、本日はどんな御用で? 茜の件で何か、分かったことでもあったんですか?」
末島は首をぎこちない動きで横に振ると、視線を伏せた。何と――一体何と切り出せば、良いのだろうか。
あなたは、娘さんを妊娠させましたよね? ……違う。失礼にもほどがある。こんなことを言って、激昂されては元も子もない。
あなたは、娘さんが妊娠していたのを知っていますか? ……違う。これで「知らない」と言われればそれまでだ。
そわそわとする末島。その様子を見兼ねてか、元康はドアを大きく開き「どうぞ」と声を掛けてやる。
一歩踏み出そうとした、その一瞬――ほんの一瞬ではあるが、末島の脳裏に、あの日のあの光景が過った。女性の鬼のような表情。魑魅魍魎を思い起こさせる奇々怪々な動き。
その場で硬直してしまった末島のことを、数歩先にいる元康が振り返る。末島ははっとして、慌てて元康のその広い背を追う。
何故だろうか。一見平均的に、一般的に見えるその家の内部からは、肉の腐ったような、不快感のある臭いが漂っている。元康の背中を追うそのさなか、鼻を摩り、末島はぐるりと周囲を見回した。壁の随所には穴が開き、その先からはぴゅー、ぴゅー、と音を立てて風が吹き抜けている。それを見たとき、一瞬末島は、その穴ができた経緯を推測したが、それとこの香りには関係はない。そう判断し、凝り固まった脳をリセットするために、首を横に振った。
そして――ダイニングキッチンと一部屋に纏められたリビングに足を踏み入れた時、末島はその異臭の正体に気が付いた。
リビングの床のいたるところにぶちまけられた、嘔吐物。――それらは、かろうじて新聞紙やビニール袋などで隠されては居た。だが、そのビニール袋の、新聞紙の……わずかな隙間から、その容姿が、その匂いが滲み出ているのだ。
数日前、この家に来た時……果たして、こんなにこの家は荒れ果てていただろうか? 肩をすくめたのち、そんなことを考えた。
「では、お座りください」
元康に言われるままに、末島はあの日と同じ席に座る。それを視認したのち、元康も前回と同じ席に腰を下ろすと、椅子の上で手を組んだ。挑発的な笑みを浮かべながら。
「それで? 今回は何の御用でここへ? ……茜の件、では無さそうですが」
いえ、茜さんの件です。喉元まで出かかった言葉を、慌てて末島は飲み込む。単刀直入に問題を提示したところで、突っ
少しばかり頭を巡らせたのち、末島はおずおずと口を開けた。
「……あの、娘さんの事件、実に痛ましいこと、でしたね」
えぇ、と元康はうなずく。
「……その、奥様も……大変なようで」
ちらり、と一瞬。末島は、嘔吐物の広がる床を見た。元康がこんな、誰に見られるとも解らぬ場所で嘔吐するとは思えない。これはきっと、末島の首を絞めたあの女性――平野茜の母親のものだ。末島は瞬間的にそう推理し、また元康に視線を戻す。
「……それで、その、私は――茜さんがかつて、通院していた、という病院を訪ね……あるお話を伺いました」
今まで一ミリも動くことのなかった元康の眉が、僅かに寄せられたのが分かった。
「その――ご存知でしたか――平野茜さんが妊娠していた、というのを……」
さっきと同じように余裕の笑みを顔に張り付け、元康は「えぇ」とうなずいた。そして、前のめりになると、薄汚れた壁をぼんやりと見つめ、末島の問いに答えた。
「なんてったって、あの子は『ふしだら』でしたからね。彼氏が何人いたかも分からない……そんな状態だったのですから、妊娠していたとしても――」
そんな元康の言葉が終わらないうちに、末島は手を挙げる。元康は不思議そうに顔を顰め、生徒を指す教師のような動作で、末島のことをそっと見た。
「いえ……それがですね、茜さんを見た――という医師によると、茜さんの子供の父親……それが、元康さんだ、と言っているんですよ」
だんだん、元康の表情が強張っていった。まさか末島がこんなことを問いかけてくるとは、努々思わなかったのだろう。
「その……まさか、本当……じゃあ、ないですよね……ね?」
わざとらしい動作で、末島は首を右に傾げる。元康は、唇が渇いたのか、その赤い舌で唇を舐めまわしている。
静寂。図書館や美術館で感じる、心地の良い静寂とは正反対の、何処か不気味で、何処か気味の悪い、不穏な静寂が、その場にいる三人の肌を貫き、肉をなでた。
末島は笑いたい気持ちを必死に抑える。元康は、次、一体何を言えばこの状況を打破できるかを必死に考えている。
もう一人目……平野茜の母、基『
――それから和正と操は、ガラス製のテーブルを挟んで睨みあっていた。
お世辞にも社交的とは言えない和正――そして、さっきの末島の一言で気分を害したのであろう操。その両者が、常識人の末島を挟まずに正常に会話を行えるか? 答えはノー。二人は、末島が去ってからかれこれ一時間。まったく言葉を交わらせていない。
このままでは、この取り調べは無為に終わってしまうことだろう。
そう和正も感じたのか、和正は今にも消え行ってしまいそうな声で、操に話し掛ける。
「……平野茜とは、どんな……関係だったんだ」
操は眼で和正を見たのち、うんざりとしたように答える。
「さっきも言いましたわ。患者と主治医。ただそれだけ――ただそれだけ、なんです……」
和正は体を前に倒すと、その黒曜石のような瞳で操のことを見た。蛇に睨まれた蛙のように、びくりと体を震わす。
「では、茜ちゃん、というのはなんです? 患者と主治医、それだけの関係なら……そんな呼び方はしないでしょう」
操が、気まずそうに顔を顰めた。そして目を伏せると、上目遣いに和正のことを睨む。
「えぇ、えぇ、えぇ……私たちは確かに、主治医と患者、それ以上の関係でした……だから、なんだというのです?! 私たちは、子供を失った母親同士……通じるところもあって……」
ちょっと、ちょっと、待ってください。そんな和正の声が、半狂乱な操の声を遮った。
半狂乱になる操を宥める様に手を前に押し出しながら、純粋な疑問を、和正は投げかける。
「子供を失った母親同士……って、貴方にもお子さんがいらっしゃったのですか」
は? という声とともに、操は大きく目を見開き、あきれた、とでも言いたげにこちらを見ていた。和正は、何も知らなかった。何しろ……基本的にメモを取るのは末島の仕事だった。あいつは、速く、かつ丁寧な字で手帳に物事をまとめる。だから和正は、自分は僅かな資料を持ち、末島に事件に関するメモを持たせ、此処へ挑んできた。
だが、末島は今いない。即ち――、事件に関するメモ、すべてが、一時的に確認不可能な状態に陥った、ということである。
操は、狼狽する和正のことを鼻で笑うと、足を組んだ。
「――本当に、ご存知ないんです? 刑事さぁん」
さっきまでのヒステリックな姿とは打って変わっ妖艶な声だった。が、和正は全く動じずに、首を横に振る。
「……ははっ」
そんな、操の自嘲じみた笑い声ののち、彼女の手が天を仰ぐ。
「あのですねぇ、刑事さん……私は、子供を交通事故で失ってるんですよ」
「それも……あの……死んだ、黒沢腎、とやらが起こした交通事故でね」
それを始めとして、操は、とくとくとその事件の細部を語り始めた。
――操は、自分の子供が轢かれたその瞬間を、目撃してしまった。
小さな顔が、小さな体が、小さな腕が倒れこみ、爆音を掻き鳴らしながら突っ込んでくるバイクに、潰される光景を目撃して、しまったのだ。
その日は、都内でも有数なバイクの祭典で、操は買い物の帰り際……、乗り物好きな息子のために、その祭典を見守っていた。
祭典の見所はただ一つ。プロバイクレーサーによる、高台からのジャンプを間近で見れる、というところ。
バイカーたちが着地するところには立ち入り禁止の黄色いテープが張られていて、入る人は一人としていない。何よりすごいのは、バイクレーサーたち、一人たりとも、その黄色いテープで囲まれた範囲(半径数十メートルほどの円を象っていた)に着地するのを失敗しなかった、ということである。
操と操の息子は、高台から平行な位置……テープと範囲ぎりぎりの場所に立ち、着地の光景を目の前で見ていた。操は、バイカー達の技術に驚いたし、息子は、バイカー達が失敗しないかとひやひやしている様子だった。
そんな息子を安心させるため、操が抱き抱えてやろうと、今まで握っていたした、ちょうどその時だった。有象無象の悲鳴と、喧しいバイクのエンジン音が、ジャンプ台の上から響いてきたのは。
驚いて操はジャンプ台の上を見る。そこには、金髪の男が、今、まさにジャンプ台の上から飛び降りようとしている。その瞬間だった。
人々が悲鳴を上げて逃れようとする。勿論、操も息子を連れて逃れようと、息子の手を取った。だが、息子は、これもパフォーマンスの余興だと思ったのか、目を輝かせ、操のもとから離れ、ロープと立ち入り禁止区域ぎりぎりの所まで近づいて行っている。
操は息子の手を取ろうと、手を伸ばした。その時、息子のその顔が、体が、腕が、脚が、上から降ってきたバイクによって、潰された。
息子のために延ばされた手が、息子だけに向けられていた視線が、行き場をなくし、そのバイクの元へ向けられる。
バイクの運転手は、今、自分の身に何が起きたのか、なぜこの女が愕然としてこちらを見ているのか、まったくわからないようで、あんぐりと口を開け、操のことを見下している。
それから――あれよあれよという間に、バイクの運転手は押さえ付けられ、警察がこの場に現れた。だが――どれだけ操が待とうとも、待とうとも、救急車だけは、誰一人として呼ばなかった。恐らく、傍観者達は、バイクに踏み潰された子供――すなわち、操の息子が、もう生きてはいない、ということを、傍観者なりに理解していたのだろう。
バイクの運転手、
勿論、その判決に、操は不服だった。腎の弁護士に直訴したが、たった一人の遺族の言い分なんて聞いてくれるほど弁護士は暇ではない。
操はこの二十年間、苦しみ続けてきた。
世間から向けられる、好奇の目に。
もう離婚した夫から掛けられる、罵詈雑言の数々に。
夢に現れる、息子の悲痛な声に。
それでも、操は、この病院を経営し、ここで今暮らしている。
――操の話は、そこで終わった。
和正は伏し目になると、静かに謝罪の言葉を口にする。
「……すいません。何か――辛いこと、思い出させちゃって」
操は、返事をしない。
何か言おうと和正が口を開いたとき、ドアが開き、スーツ姿の男性が、室内に踏み込んできた。
「院長――お時間です」
操は顔にぎこちない笑顔を張り付け「えぇ」と、そのスーツの男性に返事をする。
そして、和正に小声で「出て行ってください」と告げる。
――和正は、拒むことなく、その場から出た。
病院を出て、携帯電話を取り出す。十四時、三十五分。和正と末島がこの病院を訪れてから、かれこれ三時間。
随分と時間が掛かってしまったな。和正はそう考えると同時に、今、平野茜の実家に行っているであろう末島のことを思い出した。末島が病院を去ってからおよそ二時間。
事実確認ならば、一時間ほどで終わるだろうに、全く彼は何をしているのだろうか。和正は連絡帳から末島の名前を選ぶと、電話を掛けた。
プルルルル……プルルルル……。そんな電子音が数秒、和正の耳の中を通り抜けた。
「大変申し訳ございませんが、現在この携帯電話は――」
そんな女性のアナウンス音声が耳内に聞こえてきて、和正は無意識に舌打ちをする。そして、携帯電話を折り畳むと、付近に駐車しているタクシーに乗り込んだ。
年配のタクシー運転手はよほど退屈だったのか、丸渕の眼鏡をかけ、競馬新聞に見入っている。
「おい」
和正がそう言うと、タクシー運転手はゆっくりと振り返る。そして、手に持っていた競馬新聞を小さく畳んで、空っぽの助手席に置く。
そして、椅子と椅子の隙間から顔をひょっこりと覗かせ、「何処にします?」そう和正に問いた。和正は暫し考えたのち、平野茜の家の住所を口にした。あそこの家は印象深い。だからか、住所も自然と覚えることができた。
タクシー運転手は鈍い動きでカーナビを操ると、車を走りださせる。
和正はいつものように、窓ガラス越しの外を見つめる。車は、はやりのアーティストの音楽を鳴らしながら、走っている。
そんな中――和正の脳裏には、あの日――平野茜の母親が、末島の首を絞めたその日の光景が――やけに耳に、張り付いていた。
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