第2話☆ 遺体

 ☆

 ――二〇十八年、二月二十日。新宿三丁目、某所にて。

 パトカーのけたたましいサイレン。野次馬の騒ぐ声。それらを聞きながら、刑事、本堂和正ほんどうかずまさは、死体と睨みあっていた。

 繰り抜かれた目玉、削がれた鼻と唇、抜かれたのであろう歯。切られた腕、ぽっかりと穴の開いた胸部。その死体は、人間本来の姿とは、大きくかけ離れていた。極めつけは、腹部に掘られていた文字だろう。『空っぽのがらんとう』。彼女の腹部には、刃物でそう書かれていた。

「うおえっ――おえッ――」

 新任の刑事がえずく。それもそうだろう。和正自体、刑事をやってもう十年になる。だが、こんなにも悲惨で、やった人間の狂気が滲み出る死体は、そう見たことが無い。

 和正は顔を歪めると、屈みこみ、死体のことをまじまじと見つめた。

 腹部に縫い目が一か所、鎖骨と鎖骨の間にも一か所。計、縫い跡が二箇所。その上に彫られし『空っぽのがらんとう』。これは一体どういう意味なのだろうか。和正は考える。

 ――が、どんなに考えても、どんなに考えても、答えは出なかった。

 ふと、さっきまで地面に這いつくばり、えずいていたはずの新人刑事が、自分の横に居る、ということに和正は気が付いた。彼は警察手帳片手に、呆然と死体を見つめている。

「……ガイシャ、誰だか分かったか」

 和正のことに気付いていなかったのだろうか。びくり、と反応し、大量に文字の書き連ねてある警察手帳をぱらぱらと捲ると、あるページで手を止めた。そして、怯えたように声を出す。

「ガイシャは……平野茜ひらのあかねさん、二十四歳――数日前から行方不明が出ており、婚約者から捜索届が出ています」

「やっと見つかったと思ったらこれか――……その婚約者、っつーのも報われねぇなぁ」

 遺体の元へ屈みこみ、悲しげに眉を顰め、和正はそう独り言のように呟いた。新人刑事は、何を言うでもなく、ただ目を伏せている。

「おい、新人。お前――名前は?」

 立ち上がり、和正は新人刑事のことを振り返った。新人刑事は眉間に皺を寄せながら「末島すえじまです」と和正に答える。

 和正は末島の容姿を今一度目で捉えた。短い前髪、首の後ろで切られている後ろ髪、円形のぱっちりとした目と、それを飾る眼鏡に、整った口鼻。

「よし、末島。署まで戻ろう。そろそろ捜査会議、とかいう糞みたいな行事が始まるだろうし」

 末島はゆっくりと頷くと、踵を返し、自分の数歩先を行く和正のせをじっ、と見た。くたびれたスーツ。二メートルはあるであろう背、がっちりとした体つき。

 末島にとって和正は、ドラマや映画に出てくる孤高の刑事その人だった。群れを嫌い、ワンマンプレイを好み、事件を解決していく。なんでも、彼が一人で解決した事件は、五十件を超えるらしい。まるで映画やドラマの中から出てきたような男。末島は肩を顰めると、パトカーに乗り込んだ。どうやら、和正が運転してくれるらしい。

 運転する和正のごつごつとした、石のような手を見る。

「――なぁ、末島」

 不意に、和正が声を上げた。末島は顔を挙げると「どうしたんです」と和正に問いかけた。和正は、視線を前に固定したまま続ける。

「どうして身元が判明した? 顔もあんな有様じゃあ、顔で見分けた――って訳でもねぇだろう」

 末島は、あわてて警察手帳を取り出すと、さっき開いたページをまた開いた。そして、其処に書かれている文章を一文ずつ目で追う。そして、ある一文で目を止めた。ㇱ

 『身元=手に握られていたスマホ』

「――スマートフォンから判明したらしいです。発見当時、スマートフォンが性器に突っ込まれてたらしくて……」

 見ました? と末島は付け足す。和正は、否定も肯定もせず、ただ何も言わず、車を走らせている。車に備え付けられているピーポ君マスコットが、静かに揺れた。


 ――捜査会議は、和正の予想した通り、二人が署に当直してすぐ行われた。

 参加しているのは、捜査一課の刑事たち、各係の係長、それから捜査一課長。凄惨な事件、ということもあるだろうか。空気が全体的に張りつめている、と和正は感じた。


「起立!」

 そんな声が、室内に響く。途端に、その場に居る捜査員が皆立ち上がり、視線を捜査一課長にやった。その捜査員達、というのは、もちろん和正、末島のことも含まれている。

「礼!!」

 捜査員たちが礼をした。特に言及するべきことはない。捜査員たち皆、まるで吸い込まれるようにさっきまで座っていた椅子へ腰を下ろした。ただ一人、捜査指揮官を除いて。

 捜査指揮官は、長机の上に置かれている紙に一瞬視界をやると、またすぐ視線を正面に戻した。

 ホワイトボート、及びそこに貼られた遺体の写真を、指揮官は指でたたく。

「本日早朝、新宿三丁目にて死体が発見された。現場げんじょうに行った人間は、その悲惨さを知っているだろう――被害者は、平野茜さんだ。死亡推定時刻は昨日、またはそれより前と見られる」

 「まだ二十四歳……若い命を散らせた犯人を許さず、捜査にしっかり取り組んでほしい」

 捜査指揮官はそう感情の押し殺した声で言うと、さきほどまで腰掛けていた椅子に座った。途端、鑑識の男から手が上がる。指揮官は、他に手を挙げている人間は居ないか、ということを確認したのち、笑顔を張り付け、彼のことをを手で指した。

 鑑識の男は立ち上がる。

「検死の結果――、体内から在るものが発見されました」

 鑑識の男はある物の入ったジップロックを取り出し、それを周囲の人間は見せた。和正はその男から席が離れていたが、そのジップロックに入ったものが『髪の毛』だ、と視認することは、実に容易だった。

 髪の毛と言っても、一、二センチほどしかない、とても小さな髪の毛だった。が、サイズは小さくても、数が多い、何十本、何百本、下手したら何千本とあるかもしれない。

 ごくり、と和正は口に沸いた生唾を飲み込んだ。

 鑑識の男は話を続ける。

「鑑定は無理そうです。短すぎる、というものありますし、何よりこれは毛先でして……」

 鑑識の男は申し訳なさそうに顔を歪めると「以上です」と言葉を付け足し、腰を下ろした。しん、とその場が静まり返る。

 髪の毛によるDNA鑑定の成功率は、毛先で〇点一パーセント。直上根ですら二点八パーセント程しか判らないのだ。毛先――それもあんなに短いものなのだから、鑑定が不可能だ、というのも仕方がないだろう。

 指揮官は他に言うことのある捜査員は居ないだろうか、と辺りを見回し、誰もいないことを確認すると、また声を出した。

「――では、振り分けを行う」

 次々と刑事の名が呼ばれ、それぞれペアを作って部屋から出ていく。最終的に、部屋に居るのは、捜査指揮官と末島、そして和正、その三人のみとなった。

「じゃあ、末島と本堂――お前らは、被害者の関係者に聞き込みして来てくれ」

 和正は気だるげに「了解です」と返事をし、立ち上がる。末島も、どもりながら返事をすると、和正につられるようにして立ち上がった。

「任せたぞ」

 捜査指揮官の乾いた声が空っぽの部屋に響く。返事もせずに、和正はそのまま部屋を出た。こちらを見る捜査指揮官を横目で見た後、末島もその後を追った。

 

 ――署の外は、今の状況とはそぐわない、晴れやかでさわやかな青空が広がっていた。末島は車を運転しながら目を細め、そんな青空を睨みつける。

 春は嫌いだった。温かい陽気のせいか、居眠り運転の件数が増える、頭の悪いカップルが性行為に及び中絶率が増える。春の季語である『猫の恋』という一見お洒落な言葉も、末島は嫌いだった。

 和正に目をやる。和正は助手席で、窓の外をぼんやりと見つめ、何かを考えているようだった。

 何か声を掛けようか。そうも考えたが、思考を邪魔するのも何処か悪い。末島は出しかけた言葉を飲み込んだ。


 目的地、即ち『平野茜』の実家までたどりつくのに、そう時間は掛からなかった。


 クリーム色の煉瓦で造られた壁、青い空色の屋根。何処か西洋の家を思い起こさせる家で、平野茜は育ったのか。家を見上げながら、末島は物憂げな息を吐いた。

 玄関まで向かい、その横に並んだ表札とそこに書いてある文字を今一度確認した。

 ――『平野』何度見ても、其処に書いてある文字は変わらない。末島はそっ、と指の先でチャイムを押す。ピンポーン、という軽快な音が二回。

 後「はい」という、女性の声が、機械から響いてきた。

「――すいません、警察です。お嬢さん――茜さんの件で、少しお話うかがっても良いでしょうか」

 わかりました、と、機械の向こうから嬉々とした声が漏れる。ああ、この何も知らない母親は、きっと娘が発見された、とでも考えているのだろう。今からそんな女性に、自分は、辛いことを告げなくてはいけない。そう考えると、末島の躰は自然と重くなった。

 玄関が開き、中から女性が出てくる。華やかさや鮮やかさという言葉よりかは地味や、つつましい、という言葉の良く似合う、中年の女性だ。

「捜査一課の――末島です」

 今まで自分の半歩後ろに居た和正が「同じく、本堂です」と言う。

 母親はドアを大きく開けると、「どうぞ」と二人を招き入れた。その年齢を感じさせない顔には、幼女の如き笑みが携えられている。

 それを見た末島は少し躊躇したが、和正は無表情に家に入っていくので、末島はその背を追う形で入っていくことになった。


 そしてそのまま二人は、リビングの中へ案内された。

 木製の古めかしいテーブルをはさんで、女性と刑事二人は座った。嬉々とした笑顔を浮かべる女性。気まずそうに顔を顰める末島、無表情に視線を伏せる和正。静寂が、場を包んだ。


 ――その静寂を切り裂いたのは、意外にも和正だった。

「――娘さんの件ですが……」

「見つかったんですか?!」

 そんな女性の声が、和正の言葉をさえぎった。和正は表情を微塵も変えることなく、何事もなかったかのように続ける。

「見つかりました――遺体で、ですが」

 そう、和正が告げたその瞬間、女性の顔が硬直した。だんだんと表情が強張り、眉を顰めていく。

「新宿三丁目の――路地裏で。それで――その……」

 何か、心当たりはありませんか。和正のその問いかけを、また、女性の声が遮った。さっきの嬉々とした声とは違う――ヒステリックな声だった。

「なんでッ?!」

 何で。女性のその問も、真っ当なものだ。自分が腹を痛めて生んだ子供が失踪し――挙句の果てには殺された。もしこの女性の立場だったら、自分だってそう叫んだだろう。

「なんで茜が!? 茜が何したっていうのよ! なんで?! 誰が?! どうして」

 末島は立ち上がり、獣の如き咆哮の声をあげて狂乱する女性の体を、テーブルに抑えつけた。抑えつけられても尚、女性は手足をばたばたとし、もがいている。

「奥さん――落ち着いて、落ち着いてください――」

 そう和正が声を掛けるも、女性は一向に落ち着く様子を見せない。どうしたものか、と末島は油断からか、手の力を緩めた。途端、彼の頭を、女性の手が打つ。凄い力だ。

 ふらふら、とよろめいた末島の首に、女性は手を掛ける。

「お前かぁッ! お前がやったのかぁ!?」

 ぐいぐいと、女性は末島の首に掛けた手の力を強めていく。和正が彼女を引きはがそうとした、ちょうどその時だった。

「離れて!!」

 そんな、低い男性の声が、二人の耳を貫いたのは。

 

 其処に颯爽と現れたのは、『平野茜』の父親、その人であった。色黒な肌、年齢を全く感じさせない顔彫りの深い鼻筋の通った顔。

 彼は末島を麻し倒そうとする女性の体を末島から引きはがすと、ポケットから注射器を取り出した。そして、躊躇せずに、彼女の首筋にそれを打ち込んだ。

 暫しの静寂。女性の体がぱたり、と音を立てて横に倒れる。死んだのではないだろうか。どきりとした和正がそれを確かめたが、女性はすやすやと柔らかい寝息を立てて眠っているだけのようだった。

 男性はそんな女性の体を小脇に抱えると、別の部屋に移した。その様子をただ、和正と末島の二人は、呆然と見つめている。末島に至っては、突然首を絞められたパニックで、この家に来てからの記憶が飛んでいる様だった。 


「――妻が、ご迷惑をおかけしました」

 男性は戻って来るや否や、自らの妻の非礼を詫びた。その整った顔に浮かべられた爽やかな笑顔には、何処か疲労の色が見える。和正は「こちらこそ」というと、床に倒れた椅子を起こし、末島の様子を見た。

 末島は地面に座り込み、間抜けな表情を浮かべ、男性のことを見つめている。椅子を起こしたのち、和正は末島の元まで近付くと、その手を掴み、彼を引き起こした。彼は酔っ払いのような千鳥足で、和正の治した椅子へ腰掛ける。


「病気――なんですよ、妻は」

 さっきと同じようにテーブルをはさんで、刑事と遺族は会話を再開した。遺族、といっても、あの女性はさっきまで座っていたはずの席にはいない。代わりに、『平野茜』の父親、『平野太康ひらのもとやす』が、女性の代わりにその席に座っていた。

 彼は、

「――一旦怒り出すと、なかなか気分を落ち着けることが出来なくて――なんでしたっけ、神経症性障害?」

 あぁ、と和正は声を上げた。

 『神経症性障害しんけいしょうせいしょうがい』。ノイローゼの正式名称で、ストレス関連障害、パニック障害などもここに含まれる。その症状の中に、『いらいらして仕方がなくなる』というものがあったな。和正は思い出す。

 おそらく、あの女性もそれなのだろう。確信したのち、和正は声を出す。

「それは――ご災難なことで」

 太康はえぇ、と返事をすると、自嘲交じりの笑い声をあげた。

「――それで、今日は、お嬢様の件でお話があり、訪ねて来た次第なのですが――」

「知ってますよ」

 そんな太康の言葉。和正は耳を疑った。あの時――茜の遺体が発見された、と告知されたとき、果たしてこの男はこの場に居ただろうか? 和正は頭を巡らせるも、答えは出ない。

「――キッチンでお茶、淹れてたんですよ……お気付きになりませんでしたか?」

 キッチン。そう言えば、自分の背後にそんなものもあったかもしれない。

「すみません、気付きませんでした」

 和正はそう軽く詫びると、椅子の背もたれに寄りかけていた体を前に乗り出させた。

「では……早速、本題に入らせていただきます」


「娘さんは――お父さんから見て、どんなお嬢さんでしたか」

 ――一瞬、太康が困惑したのが分かった。

 流石に、この質問は不味かっただろうか。和正がそう口を噤んだ時、太康の表情に浮かんでいた困惑の色が消えた。代わりに、先ほどまで浮かべられていたのと同じ笑みが顔に貼り付けられている。

「――はは……、茜は……何と言いますか――ふしだらな娘、でしたよ」

 ふしだらな娘? 太康の口から飛び出たそんな言葉を、自然と和正は反復していた。普通、親というのは、自分の娘を『明るい娘』『元気な娘』などと、出来る限りポジティブな意味合いの言葉を使って評するはずだ。だというのにこの男は、自分の実の娘を『ふしだらな娘』と評した。そのことに、和正は膨大なまでの違和感を覚えていた。

 太康は困ったように笑うと、首筋を、自らの骨ばった手で撫でる。

「――可笑しな人だ、と思ったでしょう? でもね、あの子にはその言葉が一番似合うんですよ」

 うんざりとして太康は嘆息を上げる。そしてそのまま、額を指の先で撫でると、椅子の背もたれに寄り掛かった。

「高校生になって――彼氏を作って――外泊して――覚醒剤に手を出して」

 確かに、遺体の腕には注射器の痕があったような気もする。悲しげに表情を歪める太康に、和正はそっと「ご愁傷様です」とつぶやいた。気まずい空気が、三人を包む。


「――娘さんが失踪したのは、いつから?」

 だが、そんな末島の質問が気まずい空気を切り裂くまで、そう時間は掛からなかった。

 和正は横目で末島を見る。末島は、今ようやく状況を理解したのか、さっきの間抜け面とは正反対の締りある表情を顔に貼り付け、太康のことを見つめている。

 太康は突然な、突拍子のない末島の言葉に戸惑ったようだが、少し考えた後、「二十日ほど前です」とにこやかに答えた。その表情が変化する速さに、和正は少し引いた。

 

 その後、聞くべきことを聞いて、二人はその家を後にした。

 ――太康は茜が昔仲良くしていた、という人物数人の連絡先を教えてくれた。

  

「――先に、高校の同級生とかいうやつら当たろう。しょっちゅう連絡とっていたらしいしな」

 そんな和正の言葉に「了解です」と返事をすると、末島は車へ乗り込んだ。




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