時間と認識・思考
言葉と時間
時の流れ、というようなメタファーに象徴されるように、僕たちは時間にある種の"流れる"を感じている。現在を起点として過去は過ぎ去り、未来は到来するというように。しかし、時間は本当に流れているものなのだろうか。
アメリカインディアンのホピ語には、「時」を表す表現が存在しないという。正確には僕らと同じような時間を表す表現がないということだ。彼らは時間を流れるような何かではなく、前後する二つの出来事の関連として捉えている。
時が流れるにせよ、流れないにせよ、僕らは時間を「集合」として捉えることが可能である。これは英語の複数形を想像すると分かりやすい。
例えばリンゴ10個の集合は「10 apples」という複数形として記述されるが、10日間という時間も「10 days」という複数形として記述が可能だ。僕らは過去や未来に存在しうるこの10日間という時間集合を、違和感なく理解することができるだろう。
しかし、よくくよく考えてみると、同じ複数形で示される言葉でもリンゴと時間の性質はかなり異なっている。10個のリンゴは全て経験的に知覚できる、つまり実際に手に取って眺めることができるのに対して、10日間を全て経験することは不可能である。時間はその都度、一瞬しか経験できないし、控えめに言っても1日づつ経験されるものであろう。
つまり、複数形で示されるような「集合」は直接的に経験できるものと、想像的に認識されるものの二つがあるということだ。そして、この世界に存在する、どんな要素を集合として認識していくかについての絶対的なルールなどは存在せず、それは詰まるところ、言語の問題ということになる。
ホピ語では時間を集合として捉えるという概念はなく、10日間というような表現は使われない。これに相当する表現は、ある日付にいくつ数えれば達するかという操作的なものである。(※) 例えば10日間滞在したというのは、10日目の後に去ったというようなニュアンスになる。僕らが直観的に思考している「時間の長さ」は、ホピ語では長さではなく「前後する二つの出来事の関連」として捉えられている。
(※) L・ベンジャミン・ウォーフ. 言語・思考・現実 p105
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