11 マリアンヌという女性
俺は昨日と同じように廊下のソファーに座っていた。
ただし場所は同じではなく、俺の視線の先には空中庭園が広がっている。
すでに朝日が昇ってはいるものの、庭には濃い霧が立ち込めている。それでもかすかに見える緑を見ていると、心が和んだ。
今考えているのはマリアンヌの事であって、昨晩のことは取りあえず「保留」してある。「保留」とは言っても俺にっとっては体の良い思考停止、または放棄に近い。言葉を悪くすれば何も考えていないのだ。
昨晩の取引は悪いものではないと思えた。しかし見返りとして与えられた知識は、所詮知った所で今どうこうできる話ではない。
ここから逃げてもメリットはない。仮に逃げたとしてもすぐに捕まってしまうだろう。
谷風や鈴村と違い俺はこの世界に期待はあまりしていない。期待していたからこそ二人は怒りに身を震わせたのだ、そう思える。
元々諦めの方が多い人生である。夢など持てる身ではないことぐらい承知している。だからこそ俺はヒルデガルドの話を聞いて特に思うことはなかったのだろう。
それどころか俺は既に一度死んだ身である。「生」への執着も当に捨ててしまったのかもしれない。
俺は鏡を見れないが、今の俺の瞳は相当濁っているだろう。
「あら、おはよう」
そんな時であった。廊下の向こうから歩いてきて挨拶したのは鈴村だった。鈴村とこうして朝会うのは二度目である。
「正義ももしかして昨日はよく眠れなかったの?」
俺は昨夜意外にもぐっすり快眠である。誰かさんのおかげとはいわないが。
そう言う鈴村の血色はわずかに悪い。目に隈を作っているほどではないが体調は少し悪そうだ。
俺が心配して席を勧めると鈴村は素直にお礼を言って隣に掛けた。
「正義、貴方マリアンヌさんとはどうなの?」
唐突に鈴村は俺にそう聞いてきた。
「別に、いつも通り」
俺の言葉を聞いて鈴村は軽く驚いていた。
「昨日のことがあったのに?」
鈴村はかなり気にしているらしい。
「私は正義みたいにはいかないわ」
鈴村のお世話係、確か昨日エイデンと名乗ったのを覚えている。ただマリアンヌやヒルデガルドのように洗礼名も父の名も家の名前さえ言わなかった。話の中で終始無表情を貫いた男だ。
鈴村とエイデンは元々仲が良くないらしい。初日こそエイデンの中々の顔つきに彼女が興奮しているのを覚えているが、それ以来である。彼女の話によると話しかけても自分のことは一切語らずこちらのことを聞いてくるばかりだと言う。彼女にとっては非常につまらないらしい。
そうして昨日の一件以来一切口を聞いていないのだという。俺とマリアンヌの仲とは大違いである。
俺は人によってこうも違いがあるのかと鈴村の話を聞いて驚いていた。いや、マリアンヌが特別なのかもしれない、そう思えた。
「異世界って意外とつまらないのね、結局王子様にも会えなかったし」
そう言って彼女は立ち上がった。以前の鈴村の口ぶりではてっきり会えたものだと思っていたが、本当はそうではなかったらしい。
「散歩の途中だから私行くわ」
鈴村はそう言って立ち去って行った。
しばらく俺はソファーに座っていたが鈴村の他に誰とも会わなかった。
「おかえりなさい、正義様」
部屋に戻ると既に着替えを済ませた彼女が丁度食事の準備を済ませた後だった。
「ありがとう、マリアンヌ」
俺はお礼を言って席に着き、フォークを持ったところで手が止まった。
隣に座ったマリアンヌの顔が悪戯に笑っている。
「わざと?」
サラダの中にはカットされたトマトが入っていた。俺がトマトを食べられないことは彼女は既に承知のはずである。それにもかかわらずこうしてサラダに入れてくるとはひどい悪ふざけである。
「貴方様はいずれは王に剣つるぎをささげるお方、好き嫌いをしていてはいずれ恥をかきますよ?」
マリアンヌはくすくすと笑う。しかし俺の好き嫌いはどちらかと言うとアレルギーに近い。仮に口に入ったとしても反射的に戻してしまう。一昨日の朝に起こったのがそれである。
「別にまだ俺は騎士になるとは言ってない」
俺はマリアンヌの言葉を無視してトマトを避けて朝食を食べ始めた。
「おいしいですか?」
そう聞かれて俺はこくりと頷いた。
朝食を食べ終えるのにさして時間はかからなかったがやはりトマトだけが残った。もちろん罪悪感はある。しかし無理なものは無理なのだ。子供の理論だということは分かっている。
俺は話題を変えるようにマリアンヌに話しかけていた。
「マリアンヌは昨日の話を聞いてどうして俺に、変わらず好意を向けてくれるんだ?」
彼女は俺の問いに聞いているのかいないのか、俺の置いたフォークを取ってトマトの一かけらを刺して口に含んだ。
「私が貴方を慕っているのは私の親、両親の命に従っているわけでもありますからね」
異世界人はより多くの財を築く才覚がある。それは歴史によって証明されているらしく、家の繁栄のためにも王族や貴族、商家の者ならば是が非でも血族に取り入れたいという思惑があるらしい。マリアンヌもそれが理由で俺のお世話係を買って出ているらしい。他のお世話係も同じ理由なのだそうだ。
「でも私が貴方様を好きならそれで良いではありませんか?」
その答えに俺は納得はできなかった。
「納得できませんか?」
マリアンヌは少し困った顔でまたフォークにトマトを刺した。
「少し恥ずかしいお話ですけど、正義様はけっこう私の好みなんです。だから今の私は割と幸せなんですよ」
そう言って自分の口にトマトを放り込んだ。
「私は貴族の娘である以上自由に恋愛はできません」
マリアンヌはそう言って「隠れてする分には問題はないんですけど」とも付け加えた。
「それでも中々いないんですよ、私と合う人が」
それは性格が、という意味だと思った。
「私は自分でもわがままな人間だとは自覚しています。だからそれ以上に私はあまり人の言うことは聞きたくないんです」
だから自分の好きなように振舞わせてくれる貴方が良い、そう言われた。
「私、貴方様との出会いは運命だと思ってるんですよ」
マリアンヌの頬は桜色に染まっていた。俺は言葉を失って、思わずその頬に触れていた。一瞬でもう言葉はいらない、そう思えた。
俺は彼女の口に顔を近づけた。
「ただ、私。結構変態なんです」
俺は彼女にキスをしようととしたがそれは叶わなかった。
俺の口にはフォークが入り込んでいる。もちろんトマトが刺さったまま。
俺はたまらず吐き出そうとしたが彼女はそれを許してくれない。まして彼女はさらにフォークを喉の奥へと差し込もうとする。
彼女の手をつかもうとしてその手は空を掴んだ。
ようやく抜かれたフォークにはもうトマトは刺さっていない。
内臓が一気に揺さぶられ、俺はたまらなくなって胃の中のものを彼女の前でぶちまけた。
「私、貴方様のその姿を見るとたまらなくなるんです」
彼女は悪魔のような笑みを浮かべてそう言った。
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