現代は『ストーリー不要の時代』であるのだろうか
少し前に、ストーリー不要の時代、と題された匿名はてなダイアリー(通称・増田)に投稿された記事が、大きな話題となりました。
その中では、先述の「なろう系」Web小説やバーチャルYouTuber、マンガも一発ネタのものばかりが話題になるばかりでストーリーテリングの分野は死んでいくばかりだ――というような趣旨の内容が書かれていました。
今のシナリオライター仕事を考える上で重要な指摘があったことは見逃すことはできないと思います。
ですがあの場でなされていた指摘は正確ではなく、『物語』という枠に収まり完結したパッケージモデルが現代の消費モデルに対応しきれていない、というのが本当のところではないかと見ています。むしろストーリーそのものは昔よりもはるかに求められてるように、私には思えてならないのです。
冒頭に挙げた大塚先生ならば、物語が必要でない人生ならばそれに越したことはない――とうそぶいてみせるのかもしれませんが、それはさておき。
あるコンテンツを多くの人と分かち合い体験する、というコンテクスト(文脈)を抜いた時、まったくそのコンテンツに縁のない人からすれば、有り体に言って意味不明であることでしょう。
このような同時的な体験は外部から正しく観測することは難しい。まあえてしてブームなんてそんなもん、と言われればそれまでかもしれませんが……
「ストーリー不要の時代」と揶揄されたのはおそらくこのような、同時間的な体験という文脈を抜きにしたことでコンテンツの魅力がある他者から読み取れないように感じられる、という事象なのでしょう。
現代のコンテンツはいかにユーザーと楽しさをリアルタイムで共有できるか、という、物語消費から物語共有へと嗜好のあり方が変わってきた。
そのような物語のシェアの枠外にいる人たちからすればその需要形態は、ある種異質なもののように映るのだと思います。
ならば多くのユーザーに消費される物語が、バーチャルYouTuberのように、現実の時間軸と接点と持ってなければならないかと言われれば決してそんなことはないでしょう。
スマートフォン向けアプリ『Fate/Grand Order』のヒットや、先に見た異世界転生ファンタジーの受容を見れば、大事なのは物語の大枠がユーザー間で共有されていることこそが重要で、物語の舞台そのものは異世界だろうが「特異点」と呼ばれる歴史上の「if」であっても構わない。
それらの物語を同時間的に共有することが現代の多くのユーザーにとって喜びにつながるのです。
現在のコンテンツ供給元であるストーリー制作側に求められているのは、ユーザーとの間に「同時間性」を提供できるか否かという点であり、その課題を乗り越えたコンテンツがヒットしていくのだと思います。
これまでの「いい物語さえ作っていれば受け入れられるはずだ」という、職人肌とも古き良きオタク的ともいうべき創作スタイルも私は好きですし、個人的にはどこまでもそうであってほしいと思っているのですが――
だからこそ、消費者に「同じ時間を共有している」という快感を与えることにちょっと目を向けていただければ、必ずや現在日の目を見ていないものであっても受け入れられていくのではないか――とこれからの日本コンテンツの展望に希望を持っているのです。
「ストーリーが不要な時代になってしまった」と冷笑してみせるのは、もう少しあがいてからでも遅くないのではないでしょうか。
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