ハロワールド 灰色の男の家
ピィちゃんか、クラガリか、それが問題だ
わたしは、ピィちゃんが大好きだ。
そのピィちゃんが大好きなタム・リンは、思っているほど嫌な奴じゃないはずだ。たぶん。
ガシガシ頭を掻いた彼は、小テーブルの上にあった水差しをコップに注いで一気に飲み干す。
「アルゴのやつ、直接教えられないからって、ヒントでも与えたか。くっそ。……あー、死にたい。死にた過ぎて、やってられん」
割れるんじゃないかって勢いでコップを置いた彼は、鬱陶しそうな前髪をかきあげる。
「小娘、クラガリは、俺を拒んだ。卵から孵ってすぐに、その
「ピ、ピィ」
ピィちゃんの抗議の声も、タム・リンは不機嫌全開で鼻を鳴らしただけだ。
というか、めっちゃヤバいんですけど。
イケメンの不機嫌顔、癖になっちゃいそうなレベルでヤバいんですけど。
できることなら、空気になって拝んでいたい。でも、そういうわけにはいかないんだ。
ハロー、ワールド。
「あの、タタ、タム・リンさん、ピィちゃんひゃっ……」
思いっきり噛んだ。舌噛んだ。
「ピィ……」
ピィちゃんとタム・リンの呆れたようなため息が聞こえてきた。
だって、しかたないじゃん。
どストライクなイケメンに話しかけなきゃいけないってだけで緊張するのに、名前が似てるんだもん。噛んだって、しかたないじゃん。呆れなくてもいいじゃん。
ハロー、ワールド。もう一回。
「ピィちゃんは、あなたに人間と仲良くしてほしいんです」
すぐに何か言い返されるかと思っていたけど、そうじゃなかった。
タム・リンが、すっと細めた鈍く光る銀色の
でも、どこまで踏みこめばいいのかわからない。
ピィちゃんが見せてくれた夢やアルゴとのやり取りから、妖精界を滅ぼした原因が人間にあるっていうのは、想像できる。でも、あくまでも想像だ。
少なくとも、話は聞いてくれるみたいだし、彼の口から人間をどう思っているのか聞かせてもらおう。
ハロー、ワールド。あーでもないこーでもないって、考えてばかりじゃしかたないよ。
「ピィちゃんは、あなたが人間を許してないって、教えてくれたんです。本当に、そう、なん、ですか?」
言いながら、そうじゃない気がしてきた。
人間が嫌いなら、わたしを押し倒したりしないで、強引にピィちゃんを奪えばよかったはずなんだ。ピィちゃんが懐いているからって、わたしを押し倒すのは、やっぱり矛盾している気がする。
ダルを一瞬でどこか遠くに移動させていたじゃないか。わたしだって、一瞬で海の中に放りこめたはずなんだ。
もしかしたら、ピィちゃんの勘違いじゃないかってな。
タム・リンは開きかけた口を閉じて、一気に老けたようなため息をついた。
「……許せるわけがない」
でも、その声には憎しみとかそういうのは少しもなくて、ひどく疲れているように聞こえた。
「許せるわけがない、そう考えていた」
あれ、これってもしかして、わたしのリンゴ嫌いだったのとよく似ているんじゃないかな。
もう一度ため息をついたタム・リンは、別の小テーブルの上にあったティーセットでお茶を淹れ始める。
「許したつもりもないが、憎み続けるには、……
ふんわりと優しい匂いが、魔法使いの薄暗い部屋を満たしていく。
「クラガリは、そんなことを気にかけていたのか」
「ピィ」
困惑しているピィちゃんの鳴き声に、タム・リンの背中が笑ったような気がした。
「世界は無数にある。重なり合い、影響し合う世界もいくつもある中で、弱い世界が淘汰されることは、珍しいことではない。女王さまも、人間たちが不思議を信じなくなり、いつか妖精界が虚無に飲まれることは知っていたんだよ、クラガリ」
「ピィ?」
「受け入れられなかったのは、俺くらいだった。当たり前だ。俺は妖精じゃないからな」
「ピィ」
「今でも、ふとあの虚無を夢に見る。そんな時くらいだ、人間が憎くなるのは」
彼がティーポットを傾けると、優しい匂いにすがすがしさが混ざる。
振り返った彼の両手には、ソーサーの上に乗ったティーカップが一つずつの合わせて二つ。
もしかして、もしかしなくても、だよね。
「小娘も、飲むだろう?」
「え、あー」
近づいてきた彼に、わたしは嫌そうな顔をしてしまったんだ。
「ただのハーブティーだ」
「あ、はい」
ほらと差し出されたハーブティーを、美味しそうな匂いの誘惑に負けて受け取ると、タム・リンはしれっと私の隣に座った。
ソーサーを持ったまま固まるくらい、近くに座りやがった。
押し倒されたソファーじゃないけど、シチュエーションがヤバい。
というか、また胸が高鳴っちゃったよ。でも、なんだろう、不自然じゃな高鳴りじゃないし、頭もパニックになっていない。なにこれ。
きれいな琥珀色の温かいハーブティーに映っているわたしの顔が赤くなっていることなんか、彼は気にもとめていなかった。
「変な心配しなくてもいい。純潔を奪うのは、口説き落とした後と決めている。それに、無理やりだったら
「ゆう、べ?」
ってことは、わたしは一晩中眠っていたんじゃないか。
ひと口すすった彼が、吐き出した息と一緒に吐き出された思いは、どんなものだったんだろう。
言葉には、力がある。
少なくとも、人の気分を変えるだけの力はある。
「ため息をつくと幸せが逃げる」って言うより、「ため息をついて、胸にたまった不幸を吐き出す」って言ったほうがいい。
「
「ま、まぁ」
「ピッ」
すました顔して鳴いたピィちゃんが、吐き出したってことは、上からってこと。ダメダメ、考えちゃだめだ。
軽く頭を振って、ティーカップに口をつける。
「……美味しい」
語彙力なさすぎてツラい。食レポの芸能人って、バカっぽいって思ってたけど、実はすごいんだ。
優しい味としかいいようのないハーブティーには、何種類かブレンドされているみたいだけど、全然わからない。
顔が緩んでいると、タム・リンはちらりとわたしのそばにいるピィちゃんを見やる。けど、わたしがその視線に気がつくと視線をずらしてしまった。
「人間などどうでもいい。今さら、仲良くするつもりもない」
「ピィピ」
いやいやとピィちゃんは首を横に振って、わたしにすがるような目で見つめてくる。
もうひと口飲んで、眼鏡の位置を直してティーカップの中のわたしに、どうすればいいのか相談する。
どうでもいいなら、好きにもなれるんじゃないか。
わたしだって、今でもあの頃を思い出すだけで嫌な気分になる。どうでもよくなってしまった自分が、一番許せなくなるときもある。
でも、リンゴは美味しい。アップルジュースも、アップルパイも、大好きだ。
「ピィピ」
うん、ピィちゃん、大丈夫だよ。
優しい匂いの琥珀色の液体から目をそらす。
「あの、わたし、ピィちゃんを連れ帰ります」
返事はない。
「それで、ピィちゃんに会いに来てください」
「……は?」
口にしてみると、いい考えだとわかった。
「ついでに、地球で遊んでいってください」
「……は?」
「
「……は?」
「ピィピィ」
ピィちゃんも、わたしの考えに賛成してくれているみたいで、何度も首を縦に振っている。
自己満足ってやつかもしれないし、時間の流れが違うんだったら、意味がないかもしれない。
「もし、もしも、ですけど、わたしがピィちゃんと一緒にいられなくなったら、やっぱりピィちゃんは、あなたと一緒にいたいだろうし……」
これはあまり考えたくないけど、ピィちゃんが
「…………それも、悪くないかもな」
「ピィピィピッ」
ピィちゃんが、嬉しそうな鳴き声を上げながら、タム・リンに擦り寄っていく。
ティーカップをソーサーから落とさないように、器用に右手で持ちながら、彼も嬉しそうにピィちゃんを左手で撫でる。
アルゴからは、彼を死にたがりから救ってやってほしいってお願いされた。でも、そのお願いまでは、まだ解決できていない。
でも、それでもいい気がする。
地球で息抜きしてくれるうちに、生きがいを見つけるかもしれない。それか、この
絶対なんて無い。
絶対的な世界だって、滅びるんだ。
これから先、絶対に解決策が無いなんてありえない。
例えば、ダルのように――。
ピィちゃんと戯れるタム・リンを横で眺めながら、いろいろ考えていると、彼は緩んでいた口元を引き締めた。
「小娘、クラガリを連れ帰ればいい。それが、クラガリの望みなら、しかたない。ご機嫌を損ねては、俺に死を与えてくれないからな」
「ピィ」
こいつまだ言うかと、不機嫌そうに鳴くけど、ピィちゃんは彼のそばを離れない。
わたしも、彼がそこまで本気じゃないのが、なんとなくわかる。
「小娘、一つだけ言っておく」
「は、はい」
真剣な声音に、ドキッとしてしまった。やっぱり、ハーブティーに変なものが入ってたんじゃないよね。
わたしの脳内が一気にヒートアップしているのをよそに、彼は真剣な目つきで続ける。
「ピィちゃんではない、クラガリだ」
カッチーン。
せっかく、わたしもクラガリとか、ネクラみたいなネガティブな名前だからやめてほしいのを我慢してあげているのに。
カッチーン、だ。
「ピィちゃんです」
「クラガリが産まれてすぐに、俺が名付けたんだ。その情けない名前で呼ぶな」
カッチーンが止まらない。
ヒートアップしていた脳内が、別の意味でヒートアップが止まらない。
「そっちこそ、癒し系モフモフのピィちゃんに……」
「癒し系?
「癒し系ですぅ。
ドッカーン。
「きゃっ」
ピィちゃんをそっちのけで、わたしたちが言い争っていると、まさにドッカーンって擬音語ぴったりな破壊音とともに部屋がギシギシ揺れた。
破壊された壁の一部と、部屋中にあった魔法使いの道具ぽいもの、蜘蛛の巣とかが降り注ごうとしたけど、わたしたちの周りに被害はなかった。たぶん、タム・リンのおかげだ。
目の前でモクモク舞い上がるホコリの中に、人影がある。
「あぁあああ、やっと着いたぜ!」
『あわわわわ……。ばかダル、もっと穏便にお邪魔することはできなかったんですかぁあああ』
ダルと
そういえば、わたしがタム・リンの名前を唱えた時、一緒にいたんだった。
ホコリが落ち着くと、目を輝かせたダルが勢い良く頭を下げる。
「俺、
わたしの肩にさり気なく回していたタム・リンの手が震えている。
「あー、死にたい」
凍てついたタム・リンの声に隠れた本音が聞こえた気がした。
――面倒くさい。
そう聞こえて、やっぱり彼は悪いやつじゃないんだって、それどころか好きになれそうな気がしたんだ。
あくまで、好きになれそうな気がしただけ、だけど。
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