夢の中
ピィちゃんの気持ち
わたしは、自分の名前がずっと嫌いだった。
リンゴもずっと嫌いだった。
今ならわかる。
――リンゴじゃないもん。リンコだもん。リンコだもん。
ムキになって怒るわたしが、おかしくてしかたなかったんだろうな。
絶対に許さないって決めていたのに、男子たちの名前も顔も忘れている。
引っ越す前のことだから、しかたないのかもしれない。
絶対に許さないって決めていたのに。
――転校してきた、田村凜子です。リンって呼んでください。
リンゴも大嫌いだったはずなのに。
――リンは、なんでリンゴ食べないの?
男子もリンゴも許さないって決めていたのに。
許した覚えはない。
でも、引っ越ししてから、ピィちゃんがやって来て、友だちもできた。小学校を卒業する頃には、リンゴが好きになっていたんだ。
忘れたわけじゃない。
今でもふとした時に、名前も覚えていた男子たちの楽しそうな声がよみがえるんだ。
許した覚えはない。
忘れたわけじゃない。
怒りを継続させるのが、難しかっただけかもしれない。
時間がたつというのはそういうことかもしれない。
でも確かに、あの頃のわたしは一生許さないって怒っていたんだ。
――許さない。
えっ、今、誰かの声が聞こえた。
――許せるものか。
そもそも、ここはどこ。
目を開けたくても、重たいまぶたはピクリとも動かない。
まぶたすら動かないんだから、体が動くわけがない。
――ねぇ、許してあげなさいよ。貴方だって人間じゃない。
とても愛らしい女の子の声が聞こえてきた。
――女王さま、俺はっ……
あ、これは
そういえばあの物語は、タム・リンを勝ち取ったジャネットに女王さまが悔しがって、めでたしめでたしだった。
続きが、あるんだろうか。
優しい温もりに包まれながら、彼らの会話に耳を傾ける。
――
――俺も残ります。裏切り者の俺に、女王さまはもったいないほどの祝福を与えてくれました。俺も妖精界と運命をともにします。
鈴を転がすような笑い声って、本当にあるんだ。
聞いているだけで、癒やされるというか気持ちよくなって眠ってしまう――まるで子守歌みたい。
どこにでもいるような標準的な高校生のわたしには、できない笑い声。
女王さまの姿を見ることはできないけど、とても愛らしい姿をしているに違いない。
――だめよ。リンには、この卵を守ってもらいたいの。
――卵? 女王さまっ、女王さまぁあああああ!!
何も見えない暗がりの中で、タム・リンの慟哭を聞いた。
胸がしめつけられた。
彼にとって、妖精の女王さまは大切な存在だったんだ。
わたしを包みこむ暗がりが、揺りかごのように優しく揺れる。
揺れる。
揺れる。
ふいに、まぶたの向こうに光を感じた。
――やっと、産まれたか。
えっ、産まれた?
あれほど重かったまぶたが、一気に軽くなった。
まばたきを繰り返すわたしが見たものは、
――目が赤くないな。だが、女王さまと同じ夜明け前の瞳だ。
え、ええぇぇぇえ!
わたし、ピィちゃんになってるぅううううう。
――よしよし、いい子だ。
やだ。わたし、モフられてる。気持ちいい。
しばらくタム・リンにモフられて気持ちよくなってきたところで、彼は満面の王子さまスマイルでとんでもないことを言ってきた。
――いい子だ、クラガリ。さぁ、俺に死を与えてくれ。
はい?
――どうした、クラガリ? 遠慮することはない。死の前触れのお前なら、俺に死を与えられるだろう。さぁ、クラガリ。
戸惑いはあっという間に、パニックに変わった。
なんで、なんで、なんでなんでなんでなんで……。
――クラガリ、暴れるな。どうした、何があったんだ。
なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで……。
――落ち着け、クラガリ。落ち着くんだ。
なんで、人間が一緒じゃないんだ。なんで故郷の地球じゃないんだ。女王さまは、人間と仲良しになってって望んでたじゃないかぁあああ。
パニックのせいか、目の前がどんどん暗くなる。
――クラガリ、駄目だ。よせ!
なんで、なんで、なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで……。
頭だけじゃなく、体までぐるぐると回りだす。
なんでなんでなんでなんでなんで、女王さまの望みを……。
ぐるぐる。
なんで、タム・リンは人間と一緒じゃないのか。
ぐるぐる。
女王さまは、人間と一緒笑っていてほしいって願っていたのに。
ぐる。
ぐるぐる。
ぐるぐるぐる。
死なんか、絶対にあげない。
女王さまが願った通りにするんだ。
ぐるぐるぐるぐる。
ぐるぐるぐる。
ぐるぐる。
ぐる。
冷たい。
寒い。
産まれたての体には、過酷すぎる寒さが襲ってきた。
死ぬ、かも。
体の輪郭を崩すような雨と風にさらされて、ただ震えるしかない。
タム・リンは、人間を許さなきゃだめなのに。
このままじゃ、だめなのに。
どんどん犬の姿が崩れていく。
――ピィ
鳴き声もこんなに情けなくなって。
――ピィ
タム・リン、早く来てよ。
タム・リンは、人間と仲良くしなきゃ。
女王さまは、そう望んだんだから。
だから、へんてこりんな空気の世界にいちゃだめだ。
――ィ
死んじゃう。
死の
命の気配を間近で感じた。
――犬、なの?
力を振りしぼって目を開けると、黒い髪に黒い瞳の女の子がいた。
――ピ、ピィ
――あたし、田村凜子っていうの。ピィちゃんって呼んでもいい? 風強いから、お
決めた。
タム・リンとよく似た響きの名前の女の子と一緒に、彼が迎えに来るのを待つんだ。
女の子は、彼が口説きたくなるような乙女になるかもしれない。
そしたら、タム・リンはまた人間が大好きになるはず。死にたいなんて言わせない。
――ピィ
待ってるからね、女王さまが愛した人。
ピィちゃんは、タム・リンのことが大好きなんだ。それから、卵の中にいた頃から、女王さまのことが大好きなんだ。
わかったよ、ピィちゃん。
わたしは、ピィちゃんにたくさん癒やしてもらったし、元気ももらった。
だから、今度はわたしがピィちゃんのために頑張るよ。
あの
目が覚めた。
「ここ……」
木の梁がむき出しの天井には、そこかしこに蜘蛛の巣があった。
なんか高そうだけど、ちょっと汚いソファーで上体を起こすと、下で丸くなっていたピィちゃんがのっそり起き出した。黒モップのピィちゃんじゃなくて、ご近所のイタリアングレーハウンドにそっくりな姿だった。
「ピィ」
「ピィちゃんが連れてきてくれたんだね。すっかり男らしくなっちゃって……」
「ピィピィ」
頭を撫で撫でしたかったのに、ピィちゃんは激しく頭を振ってイヤイヤする。
「ピィちゃん、どうしたの?」
初めて拒否られて、ショックを受けていると、薄暗い部屋の奥で誰かが鼻で笑った。
酔っぱらいのようなひどい足どりでやってきたのは、もちろんタム・リンだ。
「クラガリは、メスだ」
「へ?」
初めて知った。
「ピィ」
すました顔で、首を縦に振る
いや、確かにおちんちんらしきもの見たことなかったけど、手足と同じようにわからないだけだと思いこんでいた。
「ピィちゃん、ごめんね」
「ピィピィピッ」
今度はピィちゃんの方から撫でてと言わんばかりに、すり寄ってくる。
モジャモジャしてないけど、サラサラなモフモフ感も新鮮でいい。
モフモフに夢中になっていると、タム・リンのわざとらしい咳払いが聞こえてきた。
「それで、好きにしろと言ったはずだ」
今さら何をと言わんばかりだ。
正直、彼が死のうとか、妖精の女王さまの願いとか、どうでもいい。
異世界の他人だから。
でも、ピィちゃんは大切な家族だ。
ハロー、ワールド。勇気出して、顔を上げて。
「ピィちゃんの望みを叶えに来た」
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