第40話 8月6日(金)ノンビリいこう②

 僕は先頭に立つ形で道を上って行き、一番先に細岡展望台へ着いた。

 展望台から眺める湿原は・・・とても言葉では表現出来ないくらいだ。とにかく人工的な建物が視界の端にちょっと見えるだけで、蛇行した釧路川の周辺に湿原が広がり、まさに「これが日本の風景かあ?」と疑いたくなるような雄大な眺めだ。この時期はカヌーで釧路川を下っている人もいるのだが、さすがにここからでは確認する事が難しい。まさに無人の湿原を眺めている感じだ。

 元々釧路湿原は1万年ほど前には陸地だった。その後の気候変動で海水面が上昇した事で大きな湾になり、その後に気温の低下によって海水面も低下し、4千年前には現在の海岸線が形作られた。湾口部に砂洲が発達し、内陸部は水はけの悪い沼沢地になり生い茂ったヨシやスゲが冷涼多湿な気候のもとに泥炭化して湿原が形成され、約3千年前に現在のような湿原になったと言われている。ここは日本最大の湿原であり、同時に日本最大のラムサール条約登録地でもある。

 釧路の冷涼な気候は「北海道だから」という理由だけではない。目の前の太平洋を寒流の親潮(千島海流)が流れている影響もあって気温が低いが、それ以上に夏の釧路は霧が発生しやすくて夏場でも気温がグッと下がる時があるのだ。最高気温が20℃を切る事も珍しくなく、元々寒流の影響を受けているから気温があまり上がらない所へ霧が発生するから、7月で最高気温の平均が18℃ほど、8月でも21℃ほどだ。夜は上着が無いと辛い。もっと凄いのは、30℃を超えたのが1910年の記録開始から9回しかない事で、過去最高が32.4℃だ。でも、これはあくまで僕個人の感想だが、20世紀では2回しか記録しなかった30℃以上が21世紀になってからは増えている。やはり地球温暖化の影響を受けているのかもしれないなあ。

 今日の予想最高気温は23℃だ。猛暑日が当たり前のようにある内地の人から見れば「羨ましい」限りだろうな。美紀も摩周町出身だから釧路ほどではないが夏は気温があまり上がらない事も珍しくなくて「あたしは25℃以上になると生きていけない」というのは大袈裟な表現ではないのかもしれない。

 そんな事を考えながら僕はさっきからずっとカメラのレンズ越しに湿原を見ている。これだけの雄大な景色を撮るなら望遠レンズは不要だ。広角レンズを目一杯引いて、とにかく横に広く撮るのが一番だ。

 でも、そんな僕を現実世界に引き戻すのは、相変わらず姉さんと美紀の二人だ。

「おーい、たーけーしー、写真は撮らないのかあ?」

「そうよー、折角三脚を持って来ているのに、何も撮らずに終わりなの?」

「はいはい、ちょっと待って下さいよお」

 やれやれ、相変わらずうちの女性陣は人使いが荒いなあ。折角僕が気持ちよく感傷に浸っているというのに、それを考えてくれないのかなあ。まあ、仕方ない。とにかく今は美紀と姉さんの要望通り・・・おい、ちょっと待て、一体、どこでどうやって記念撮影するつもりだ?記念撮影しろと言ってたはずなのに、お互いに双眼鏡を覗き込みながら湿原の方を指さして二人で喋っているってどういう事だあ?母さんと慶子伯母さんは二人でベンチに座って何か笑顔で話し込んで・・・いや、僕から言わせればどーでもいいような話で盛り上がっているし、それに城太郎おじさんはおじさんで何かボケーっと湿原を眺めていて自分の世界に入り込んでるし、こっちはこっちで不気味だ。

 まあ、二人にその気が無いなら僕も無理しなくてもいいのかなあ、って思ったからしばらくはおじさんの真似をして広い釧路湿原をボケーっと眺めていただけだ。その間に幾人もの観光客が僕の横に立って湿原を眺め、写真を撮って展望台を後にしていたが、多分僕は10分以上、いや、20分くらい湿原を眺めていたはずだ。何も考えずボケーっと立っているのも悪くないかもしれない。この細岡展望台は沈む夕日を背景にして湿原の写真を撮ることが出来る事で有名なスポットなので夕方の遅い時間にカメラを構える事が出来ればいいのだが、さすがにそこまでここにいる訳にはいかない。それにこの周辺には外灯が無い。でも、今日の本当の目的の時間まではかなりの時間があるから、まだボケーっと見ていても大丈夫そうだ。

「おーい、猛、もう撮ったか?」

「はあ?美紀があっち側を見てるから何も撮ってないぞ」

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