第13話 8月3日(火)今日はジンギスカン③

 僕は不意に声を掛けられたのでびっくりしてそちらを向いた。そこには50歳前後の無精ひげを生やし、半分以上白髪頭の男性が立っていた。

「あー、ゲンさんですかあ、お久しぶりです」

「うーん、いつの間にかオレよりも大きくなってしまったなあ。昔はこーんな小さい子だったのに、月日が経つのは早いなあ。何年ぶりになるかなあ?」

「ちょうど5年ぶりですよ。この前きた時は小学5年生の夏休みでしたから」

「そうかあ、もう5年も経ったのかあ。美紀ちゃんと同じ高校に行ってるんだろ?やっぱり学校は楽しいか?」

「はい、楽しいですよ」

「まあ、一度しかない高校生活だ。今しか出来ない事もあるから、貴重な経験だと思って楽しく過ごせよー」

「はい」

「じゃあ、肉は猛君に任せたぞ」

「それ分かりました。肉は任せて下さい」

 そう言うと僕は軽く左手を上げて、その人も軽く右手を上げた後、姉さんの所へ行った。

 この人の名前はゲンさん。正直に言うけど、本当の名前はずーっと以前に教えて貰ったのだが、とうに忘れている。美紀の父さんや母さん、お爺ちゃんまでもが『ゲンさん、ゲンさん』と言ってるほどの人物で、肩書は坪井牧場の場長で牧場の現場責任者に当たる人物だ。

 そう、この人が坪井牧場を支えているもう一人の人物だ。美紀の父さんが経営の達人ともいうべき人なら、ゲンさんは牛を扱う達人だ。

 たしか年齢は美紀の父さんより少しだけ上になる筈だが、正確な年齢は僕も覚えてない。昔から坪井牧場で働いているが、『牛の事はゲンさんに聞け』とまで言われている程の人物であり、ある意味、獣医さんよりも牛を見る目は正しいとまで言われている。まあ、元は獣医師を目指していたという話をゲンさん自身から聞いた事があるが、大学受験に失敗してそのまま坪井牧場に就職したと言っていた。でも、牛の調子が悪くなると、その歩き方や呼吸の具合、食事の仕方などで状態がだいたい分かってしまう程の人物であり、本職の獣医師さんがゲンさんに病状を確認する位の人物だ。ゲンさんの奥さんは慶子伯母さんと同じく坪井牧場の事務を長いことやっているし、ゲンさんの二人の息子のうち、長男は独立して釧路で獣医師をやっているが、次男の方は坪井牧場の社員として働いている。ちなみにその奥さんは摩周町の役場の職員でもあるが、今日は残念ながら平日なので、仕事の為参加していない。保育園に通う娘さんは、おばあちゃんであるゲンさんの奥さんと共に宴会に参加している。

 美紀の爺ちゃんが町議会議員を長くやっていられたのも、美紀の父さんが若くして坪井牧場の社長になっても牧場が安定していたのも、全てはゲンさんがいたからであり、ゲンさんがいなければここまで坪井牧場が大きくなれたかは分からない。まさに坪井牧場の影の立役者ともいうべき人物なのだ。

 そのゲンさんも孫の前では普通のお爺ちゃんだ。今は孫をあやしつつ、自分もラム肉を頬張っている。

「いいよなあ、子供は無邪気だし、それを見ていると、こっちも心が洗われたような気になってくる」

 そう美紀がポツンと言った。

「へえ、美紀にしてはいい事を言うなあ」

「猛、『美紀にしては』という部分は余計だぞ。あたしだって馬鹿じゃあないし、それに、あたしにもああいう時代があったのも事実だ。ゲンさんにはホントに生まれた時からお世話になっているから、もう一人の父親とでもいうべき存在だ」

「そういうモンなんですかねえ」

「まあ、兄貴も兄ちゃんもゲンさんには生まれた時から世話になってるし、今でも困った時にはゲンさん頼みなのは変わらないからなあ」

 そう、美紀の両親が結婚した時には、既にゲンさんは坪井牧場にとってなくてはならない程の人物になっていて、二人の兄、雄一さんも健二さんも、生まれた時からゲンさんの世話になっているのだ。『兄貴』とは上の兄であり次期社長の雄一さん、『兄ちゃん』とは下の兄である健二さんの事を指す。兄が二人もいるので、美紀は『兄貴』『兄ちゃん』と普段は使い分けているが、まとめて表現する時は『兄貴たち』と言っている。

 その雄一さんも健二さんも、ゲンさんの隣で談笑している。ゲンさんはコップを手に持っているが、その傍に一升瓶があるという事は冷酒を飲んでいるから、多分、今日の午後はゲンさんは牛舎に入る事はないだろう。そうなると、雄一さんか美紀のお爺ちゃんのどちらかがゲンさんの代わりをやる事になるだろうな。

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