第11話 8月3日(火)今日はジンギスカン①
牧場の朝は早い。
午前3時台から作業は始まり、朝の搾乳が行われる。冬場と違い、この時期は朝から牛を放牧地に出し、その間に牛舎の掃除も行われる。いくら搾乳作業や給餌作業が機械化されたとはいえ、完全なオートメーション化にはなっておらず、どうしても人の力でやらざるを得ない物も多い。だから朝早くから作業は始まる。
と書けば、僕も早起きして牛舎の様子を見に行ったように思えるけど、本当は、僕は美紀や姉さんよりも起きる時間が遅かったのだ。昨夜の睡眠時間は何と12時間!午後8時に寝て翌朝8時に起きたのだから、完全に爆睡していたとしか表現できない。
姉さんと美紀でさえ午前6時には起きていたのだから、いかに僕が爆睡していたかが分かる。
僕は起きてから1階に降りて、そこで姉さんたちと会うと早速姉さんと美紀から『口撃』された。
「あー、姉さん、おはようございます」
「遅いわよ。一体、どれだけ寝れば気が済むのよ!」
「そうだそうだ、一番先に寝て、一番最後に起きるとは牧場に寝泊まりしている人のする事じゃあないぞ」
「だってー、あんな長旅させられたら疲れるでしょ?」
「あんたが体力ゼロのもやしモンだからでしょ?」
「そうそう、もう少し体力つけないと、どうしようもないぞ」
「すみませんね!どうせ僕はトキコーで断トツの最下位ですよ」
「あー、そんな事より、早くご飯食べてよ。あんたには朝から仕事をやってもらうんだから」
「へ?」
「あれー、もう忘れてるの?今日のお昼は事務所前でジンギスカンだから、それは猛にやってもらうわよ」
「あー、そういえば伯母さんが言ってたなあ」
「母さんだって、昨日のうちに準備していたんだからさあ。男のあんたが何もやらないのはおかしいわよ」
「はあい、ちゃんとやりますから」
「4時前から仕事している人もいるんだから、早くお昼ご飯が食べられるよう、準備も急ぎなさいよ」
「そういう事だ。じゃあ、さっさと食べて仕事に取り掛かれ」
「へいへい、頑張らせてもらいます」
やれやれ、ホントに姉さんも美紀も人使いが荒いなあ。でも、さすがに一週間もお世話になるのに何もやらないというのは酷すぎるから、何か手伝いをするのは当たり前か。
今日の朝食は、出来たての食パンに自家製のカスタードクリーム、スクランブルエッグ、ウィンナー、チーズオムレツ、それと今朝搾った牛乳だ。
搾り取った牛乳をヤカンで沸騰させただけの牛乳であり、まさに新鮮そのものの牛乳を朝から自由に飲めるのは、牧場ならではの特権でもある。
でも、当然ではあるが、この牛乳は『ノンホモ(作者注)』であるから、このまま放っておくと脂肪が浮いてきてしまう。姉さんや母さんは昔からこの浮いた脂肪分を紅茶やコーヒーに入れて飲むのが好きだが、僕はそこまでの拘りはないので単に搾りたての牛乳として飲む方が好きだ。コーヒーにもこの牛乳を入れるが、わざわざスプーンで浮いた脂肪を集めるなどという事はしていない。
それに、この周辺は摩周湖の伏流水が豊富で、坪井牧場の牛たちはその摩周湖の伏流水を飲んでいる。ここの牧場の牛乳を飲むという事は、間接的に摩周湖の伏流水を飲んでいると言っても過言でないのだ。つまり、生活している上でも、酪農をやっている上でも、摩周の人々と摩周湖は切っても切れない縁で結ばれているとも言える。
食パンだって、美紀の家のホームベーカリーを使って焼き上げた、まさに焼き立てである。実際には姉さんたちが起きる時間に合わせてタイマーがセットされていたので、厳密な意味で焼き立てパンではない。でも、スーパーで売っている食パンと違い添加物は一切入ってない、まさに無添加のパンである。
因みに、僕と姉さん、美紀の三人は、小学生の頃に牛乳を使って手作りバターに挑戦した事がある。浮いてきた牛乳の脂肪を使い、機械を一切使わず、全て手作業でバターを作る作業は結構大変であったが、出来上がった時の感動は言葉では表現できない程だった。その自作のバターを使って出来立てのパンに塗って食べた時の感動は今でも忘れる事ができない、まさに貴重な経験である。
さすがに今朝のホームベーカリーの材料として使ったバターは自家製ではないが、パンに塗るカスタードクリームは、美紀のお婆ちゃんのお手製であり、そのお手製のカスタードクリームをパンに塗って食べるのは、坪井家の昔からの風物詩でもある。
美紀のお爺ちゃんと父さんはパン食よりお米のご飯なのでパンを焼かない日も当然あるが、その時には『バター醤油』で食べるのが当たり前の光景になっている。
今朝のおかずは、スクランブルエッグとウィンナー、それとチーズオムレツであるが、どれも美紀のお母さんが朝の忙しい時間の合間に作ってくれた物である。
え?美紀のお母さんは「暇じゃあないのか」という疑問がある?あー、それはですね、完全に従業員数に余裕がある訳ではなく、重複して休みを入れたり、あるいは体調不良などで休んだりすると、美紀の母さんやお婆ちゃんが牛舎の作業に入る事があるのだ。それと、早朝から夕方までぶっ通しで作業をするとどうしても過重労働になってしまうので、一時的な交代要員として牛舎の作業に入る事もあるのだ。もちろん、社長である美紀の父さんが入る事もある。
形の上では、美紀の家は3世代7人家族であり、会長である美紀のお爺ちゃんも名前だけの会長であり、毎月の半分近くは一般従業員と同じような作業もしているし、自分でトラクターを運転して牧草の収穫や牧草ロール作りの作業もやっている。社長である美紀の父さんも、牛舎の作業をしたり繁忙期は自分でトラクターを運転する事があるが、さすがに爺ちゃんほど現場に出る事はない。やはり社長としてあちこち出掛けたりする事も多いのだ。
美紀のおばあちゃんである坪井梅子ばあちゃんも、毎月の3分の1くらいは他の従業員に交じって牧場の作業をしているし、美紀の二人の兄のうち、次期社長である長男の雄一さんは他の従業員と一緒になって働いている。次男の健二さんは森崎乳業の社員であり、この家には住んでないが実際には根釧工場勤務で、ここからは車で1時間もすれば行く事ができ、ほぼ地元と言っても間違いない。美紀は札幌の高校に進学したので当然ここには住んでない。つまり、7人家族のうち成人は6人いて、そのうち実際にここに住んでいる5人は坪井牧場の社員なのだ。そして今日は久しぶりに7人全員が揃う日でもある。
作者注
牛から搾り取った牛乳を静置しておくと脂肪分が浮いてきてしまうので、市販されている一般的な牛乳は脂肪球を粉々に壊し成分を均一にするホモジナイズ処理をしてあり、これにより脂肪が浮いてくることがなくなります。
脂肪球が粉々になっているので消化吸収がよくなる反面、脂肪の膜に保護されていたタンパク質などが急速に体内に取り込まれるため、お腹を壊したりアレルギーの原因になったりします。
ノンホモジナイズ(ノンホモ)は、ホモジナイズしていない、つまり脂肪球を均一化していない牛乳のことで、時間がたつと脂肪が浮いてきます。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます