第7話 8月2日(月)KYな奴①

 母さんが帯広から摩周へ抜けるルートとして選んだのは国道241号線、通称阿寒超えだ。十勝平野を斜めに横断する形で足寄町から阿寒湖畔へ抜け、そこから摩周へ抜ける。このルートの最大の特徴は、とにかく信号が少ない。だから渋滞はあまり気にしなくてもいいが、途中、十勝側から摩周へ抜ける際、かなり急な下り勾配と急カーブが続く区間がある。冬場は非情に危険なルートであるが、路面が凍結する恐れのないこの時期には『とある物』に気を付ければ問題ない。

 ただし、この『とある物』は非情にKYな奴で、同時に非常に厄介な奴なのだ。

 現在、僕たちは阿寒湖に向けて走行中だ。もうこの辺りは森林地帯であり、ほぼ一方的な上り坂だ。

「あ、美紀ちゃん、あそこにキタキツネが歩いてるわよ」

「おー、ホントだ」

「あー、やっぱりこれを見ると北海道らしいと言えるわよね。恵南の市街地では見られないからね」

「まあ、うちの牧場の近くでは当たり前にみられるけどな。ただし、みっきー、素手で触るなよ」

「ええ、分かってるわよ」

「じゃあみっきー、何故ダメなのか知ってるか?」

「エキノコックス症に感染している恐れがあるからでしょ?」

「そういう事。だよね、叔母さん」

「そうよ、でもねえ、キタキツネはドライバー泣かせなのよー」

「え?母さん、どういう意味?」

「キタキツネは夜行性で、それが夜になると道路を歩いていたり横断したりするから、よく車と接触するのよー。だから、急に飛び出してきてくるから急ブレーキをかけても間に合わなくて跳ねる事がよくあるのよ」

「へえ、母さん、よく知ってるわね」

「そりゃあそうでしょ、高校卒業まで摩周に住んでいたんだから。亡くなったお爺ちゃんもお婆ちゃんもキタキツネを車で跳ねた事が何度かあるし、母さんが中学生の頃は凍った路面でキタキツネが飛び出して来たからお婆ちゃんが慌てブレーキを踏んで、こっちがスリップして心臓が止まるかと思ったわよ」

「へえ、そんな事があったんだあ」

「たしかに急に何かが飛び出して来たら、反射的にブレーキを踏むのは責められないわよ。しかもABSが車についてない時代よ。タイヤがロックするのは日常茶飯事だったからねえ」

「そう考えると便利な世の中になりましたねえ」

「だけどねえ、キタキツネより危険で、キタキツネよりKY(空気読めない)な奴がこの辺りはウヨウヨしてるわよー。昼でも危険だけど、夜はもっと怖いわよー」

「きゃー、母さん、お願いだから怪談はやめてー!」

「みっきー、幽霊じゃあないぞ。アホか?」

「そういう事ですよ、姉さん、もっと大型で危険な生き物が道路に出てくるんですよ。特に道東方面は農作物への被害も深刻ですからね」

「あー、『あれ』?私も実物は見た事がないけど、車をあっという間に廃車にしたり、列車と衝突して遅れが発生したり故障の原因になったりしてる『あれ』のこと?」

「おー、みっきーも猛も知ってたかあ。こいつもうちの牧場の周りに・・・」


“キーーー!!”


「うわー!」

「何だ?事故かあ?急に止まらないでくれよ、びっくりしたぞ」

「!!!!!」

「か、母さん、どうしたんですか?」

「あ、危なかったあ・・・カーブだったから、あと少し気付くのが遅れたら事故ってた・・・」

 そう、母さんは危険を察知してとっさに急ブレーキを踏んだのだ。

 でも、対向車がはみ出して来たとか、キタキツネが飛び出してきた訳でもなかった。が道路に我が物顔で立っていたからだ。たしかにこんな物がカーブした先に立っていたら反射的に急ブレーキを踏んだ事を責められない。

「って、うわっ、デカい!」

「え?これって、エゾシカよね・・・私もこんな近くで見るのは初めてだけど」

「でもさあ、こいつら、道路からなかなか動かないんだぜ。動いてもノンビリだし、まさにKYな生き物だから厄介なんだぜ。なあ、猛」

「あー、じゃあ美紀に質問だけど、なぜ道路ではノンビリなのか知ってる?」

「そ、それは・・・みっきー、スイッチ!」

「はいはい。それはね、鹿の爪がアスファルトでは食い込む場所がないから、どうしても動きが鈍いのよ。人間が氷の上で歩きにくいのと理屈は同じよ」

「そ、そういう事だ。分かったか、猛!」

「美紀ちゃん、地元の事なんだから基礎知識くらいは持ってなさいよ」

「はーい、すみませんでした!」

「でも、舗装された場所以外では結構俊敏に動き回るよ。それは爪が地面にスパイクのように・・・」

「だー!あたしの頭じゃあ整理できないからやめてくれえ!!」


 そう、道路に我が物顔で立っていたのはエゾシカだ。

 エゾシカの被害が右肩上がりに増えているのは事実だが、こうなったのは皮肉にも人間が原因だ。

 理由は簡単、天敵がいなくなったからだ。その天敵とは・・・かつてアイヌの人たちに「狩する神(ホロケウカムイ)」「吠える神(ウォセカムイ)」、「鹿を獲る神(ユクコイキカムイ)」と崇められたオオカミ(エゾオオカミ)だ・・・明治に入り北海道の開拓が進むにつれ、家畜を襲うという理由でオオカミは次々と害獣扱いされて駆除された結果、19世紀末に絶滅してしまった。

 天敵がいなくなった事で一時は激減した筈のエゾシカが増え続け、農作物、林業への被害は増え続けている。また、最大で180キロにもなるエゾシカに車が衝突すると死亡事故にもつながり、また、シカを避けようとして対向車線に飛び出して正面衝突したり路外逸脱や転落したりする事故も数多く発生している。JRでもシカと列車が衝突して車両故障の原因になったりダイヤが乱れたりと、交通機関にも影響を与えている。

 生態系の頂点に君臨していたオオカミを人間自身がお金、つまり懸賞金をかけてもまで排除した事で全体のバランスが崩れてしまい、それを人間が再びお金を掛けて、罠をしかけたりハンターが駆除したりして増えすぎたエゾシカを減らそうとしているのだから、ある意味、皮肉な物である。

 エゾシカは基本的に夜行性であるが、昼間にも出没する。日没直後と日の出前が一番活動が盛んであるが、だからといって昼間は絶対安心とは言い切れないのだ。非情に厄介な、まさにKYな奴である。


「それにしても、早くどいてくれないかしら?ガソリンが無駄になるからなんまらムカツクわよー」

「叔母さん、鹿に文句を言っても仕方ないですよ」

「あー、美紀ちゃんに座布団1枚」

「姉さん、そんなアホな事を言わなくてもいいです。美紀に座布団をあげても意味ないですから」

「そうよー。叔母さんから言わせたら『座布団全部持って行け』に決まってるでしょ」

「叔母さんまでー。あたしはそんなつもりで言った訳じゃあないですよー」

「あー、母さん、鹿が向こうへ行きましたよ」

「叔母さん、しゅっぱーつ!」

「ちょっと待ってよ。鹿は群れで行動するから、他にも出てくる可能性もあるからゆっくり行くわよ」

 そう言って母さんはノロノロと車を動かし始めた。

 幸いにして他にエゾシカが出てくる事は無かったので、しばらくしてから母さんは車の速度を上げた。

 因みにこの後、鹿が道路に出てくる事はなかったが、道路脇から顔をのぞかせていたり、牧草地周辺で群れで行動しているところは度々見かけた。エゾシカも見るだけならいいけど、道路に出てきたら厄介者扱いですから。

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