君がいるから

ぜろ

君がいるから

 湖恵こえが事故に遭ったのは一週間前のことだ。


 何がどういう事故だったのかは解らない。というか知らされていない。他人の俺にそこまで詳しく教える義理もないんだろう。泣きはらした湖恵の母さんや拳を震わせている湖恵の父さんは、やりきれなさそうでいっぱいだった。だから詳しくは聞けなかった、というのもある。

 解っているのは湖恵がその眼球を両方摘出する大手術を行ったという事だけだ。

 いつも二人で来ていた喫茶店、すっかり慣れたカウンター席の一脚に腰かけながら、俺はカフェラテを見詰め十分はその泡を眺めている。


 佐名木湖恵さなぎ・こえと俺――上月由生こうづき・ゆいは、いわゆる恋人関係だった。小さな頃から幼馴染で、中一の時に告白をして、そろそろ付き合い始めて一年になる。何かプレゼントでも送った方が良いのかな、女の子はそう言う記念日を気にすると言うし――思いながらショッピングモールの中をぶらついていた所で携帯端末に連絡が入った。湖恵の母さんは幼馴染だけあって十年以上の付き合いがあり、お互いの携帯番号の交換はしていたのだ。そして震える声で告げられた。湖恵が事故に遭った、と。命に別状はないが、と言った所でその声が震え、わあああと泣き出してしまった。どうしたんですか、もしかして後遺症が残るんですか。思わず荒げた声に歩いていた人々がちらちらとこちらを見る。でもそんなのどうでも良かった。

 眼が。

 眼球が、なくなっちゃったの。

 ――俺は急いで病院の名前を聞き、駆け付けた。


 扉を開けると、そこにいた湖恵は見た感じ元気そうだった。腕を骨折しているからそこにはギプスがはめられていたが、その目を隠す包帯のちょっと異常な凹み具合に、ああ本当に湖恵の眼はなくなってしまったんだと絶望的な気分になった。もう一緒に喫茶店に行って、ラテアートを楽しむ事も出来なければ、多分目指していたピアニストの夢も捨てなきゃならなくなっただろう。だけど湖恵は明るかった。由生君、来てくれたんだ。ごめんね、ちょっと見えなくて。

 ちょっとじゃないだろう。一生だ。一生お前の眼は見えないんだぞと言いかけて、ぐっと手のひらに爪を立てて握り込むことで抑える。元気そうだな、震える声でそう言うと、骨折直すのが痛かったよ、解放骨折って言うやつだったんだって。でもあとはギプス付けてれば平気らしいよ。

 平気じゃないだろ。ピアノ、どうすんだよ。高校も音楽学校って決めてたじゃないか。眼も腕も。どうしようもなくなってるじゃないか。

 不意にぼろぼろ涙がこぼれて来て、ついでに鼻水も出て来て、何も言えなくなった。由生君? と呼ばれて、うん、と返事をする。どうしたの、泣いてるの。気配で解ったんだろう。湖恵は泣けるのだろうか。涙腺があれば大丈夫なのだろうが、ぐるぐる巻きの包帯の下じゃそれも解らない。湖恵。どうして。どうして、お前がこんな目に。


 長居出来ないって看護師さんに言われてるから、そろそろ行くよ。明日も来るから。言うと声は、じゃあタフィ作って来てよ、と笑った。料理好きの母親に教わった俺のアーモンドタフィは湖恵の大好物だった。解った、と言って病室を出る。そしてそのまま廊下にしゃがみ込む。湖恵。なんてお前は笑っていられる? それともこのドア一枚の向こうで、本当は泣いている? 考えながら俺はふらふらと立ち上がって歩く。

 毎日の放課後の見舞いは苦痛じゃなかったけれど、いつもより大き目に切ったタフィさえ指からこぼす湖恵を見ていると、やっぱり泣きそうなった。見えないんだ。もう、俺の顔も。食事は看護師さんが手伝ってくれるし、手洗いも車椅子に乗せられて連れて行って貰えるらしいが、湖恵が一人で出来る事も何もなかった。携帯端末をいじることも、本を――楽譜を読むことも。唯一MP3プレーヤーの音楽を聴いて昼寝している時だけが幸せそうで、俺はまた泣いた。


 そして今、俺は一人、いつもの喫茶店にいる。

 ラテアートは簡単なハートだったが、もう見えなくなってしまっていた。


「湖恵さんは」

 ちょっと高めのアンティークなカップを拭きながら、すっかり馴染みになったマスターの柔らかい声を聴く。

「最近、見ませんね。風邪でも引かれたんでしょうか」

 ぐっと俺は手を握る。

 中年と言うにはちょっと若い、年齢を感じさせない顔立ちのマスターは、俺が答えるまで黙ってカップを拭き続ける。いつかあれで飲んでみたいね、と言っていたのは、そのカップ達がアンティークにつき別途料金が掛かるからだ、でももう湖恵にはその繊細な柄は見えないし、ともすれば零したり落としたりして割ってしまうだろう。俺はぐしっと鼻をすすりながら、自分の両目を両手で押さえる。悲しいのも苦しいのも俺じゃないのに。大好きだったピアノの道を捨てなきゃならなくなった、湖恵なのに。

「事故に、遭って」

「それは――」

「眼球摘出して――まだ入院、してるんです」

 マスターは何も言わない。何を言っても俺には薄っぺらな言葉になってしまう事が解っているからだろう。マスターは頭の回転の速い人だ。猫舌の客にはミルクを勧め、甘いものが苦手な客には砂糖を極力使っていないおからのクッキーを出したりする。勿論常連に限った話だけど、俺達もこの店の常連で、いつも二人で頼むのはカフェラテだった。器用なマスターはラテアートなんか書いてくれる。それは楽譜だったり、音楽家だったりする。楽譜の時は消えてしまう前に何の曲か当てるのが湖恵の挑戦だった。当たるとクッキーをサービスして貰えた。

 それももう、遠い昔のようだった。湖恵にはもう、楽譜が読めない。絶対音感ってのはあるらしいが――三歳からピアノは始めていたから――それだけじゃ鍵盤を正しく弾くことはできないだろう。ズレても解らない。湖恵には、見えないから。ペールギュントの朝! と元気に答えていた湖恵はもういない。でも湖恵は俺が行くと嬉しそうに笑ってくれる。学校では寄せ書きを書こう、なんて案が上がったが、眼が見えないのにそんなことしてどうするんだよ、と俺が否定した。それもそうかとみんなが納得するのが、自分が言い出したことなのに無性にイラついた。

 そして今朝渡されたUSBメモリ。みんなの励ましの声が入ってるから、上月君届けてね。絶対だよ。励まし。夢も希望も絶たれた人間に、そんなものがどの程度効く物なんだろう。

 思いながら俺は何だか病院で湖恵の顔を見るのが怖くて、久し振りに喫茶店に来ている。マスターは余計な事は言わない。ただカップを拭いて、給仕をする。冷めきったカフェラテを一気にぐいっと飲むと、慣れた味がした。湖恵はこの店が好きだった。ちょっとだけ暗めの店内は飴色のライトに照らされて、綺麗なカップが並べてあって、肝心の軽食も美味しくて。でも湖恵がこの店の風景を見る事はもうない。レポート書いてる常連の大学生も、新聞読んでるお爺さんも、みんな。みんな。

 なんで。

 なんで湖恵なんだよ。

「湖恵、ピアニスト志望だったんです。でも腕も折れて、眼もなくなって、これからどうするのか解らなくて、どうしてやったらいいのか解らなくて」

「そうですか」

「俺が湖恵に代わってやれたら良かったのに。俺だったら、まだ進路も何も決めてない俺だったら、良かったのに」

「由生君。それは湖恵さんの前で言ってはいけない言葉ですよ」

「解ってます。だからマスターに愚痴ってる。情けないけど、許してください」

「はい」

「湖恵、どうするんだろう。これからどうやって生きていくんだろう。思ったら俺の方が不安で、たまらなくなるんです。俺には何をしてやれるのか解らない。怖くて、苦しい。本当に苦しいのは湖恵なのに」

「由生君」

 マスターが俺の声を優しく割る。それから手を伸ばしたのは棚だ。古いそれは救急箱、そこから一本の瓶を出して、マスターは俺にそれを渡す。ありきたりな風邪薬の錠剤の瓶に見えた。きょとんっとしながら涙がまだ止まってない両目を腕で拭って、俺はマスターを見上げる。

「何年か前に副作用の関係で販売中止になった薬です。一瓶も飲めば十分でしょう」

「マスター?」

「湖恵さんの所に行っておあげなさい。きっと待っていますよ。そして、その瓶の中身を飲み干せばいい。あなたは何一つ欠けていない湖恵さんの夢を見て、いられます」

 ぞっとすると同時に、身体中に歓喜の鳥肌が立つ。

 湖恵。湖恵。湖恵!

 俺はラテの料金を払ってから、店を飛び出した。


「由生君! 今日は遅かったね、宿題でも忘れたの?」

 扉を開けると笑いながら俺を迎える湖恵に、ああ、と俺は何だか安堵する。湖恵はここにいる。湖恵がいれば、俺は何もいらなかった。大事な幼馴染。大切な恋人。湖恵。お前が俺を見れなくなるなら、俺も。

 俺はマスターに貰った瓶の、キャップを外す。薬同士が擦れないように入れられているビニールも出して、ゴミ箱に入れた。

「由生君?」

 何をしているのか解らない気配を訝ってか、湖恵が俺に怪訝そうな声を掛ける。

 湖恵。

「湖恵」

「由生君?」

「愛してるよ」

 俺は瓶を傾けて一気に錠剤を飲みほした。

 水も何もないからちょっとのどに引っかかって吐きそうになるけれど、我慢した。

 湖恵のいるところへ。少しすると、強烈な眠気が襲ってくる。

 倒れた俺を、湖恵が呼ぶ声がした。


「君は馬鹿かい?」

 ベッドに横たわって目を開けた俺にずばっと言ったのは、よく湖恵をトイレなんかに連れて行ってくれている看護師さんだった。

「この薬の副作用は眠気だよ。運転する人間には向かない、ってことで廃番になったんだ。良かったね、ただ寝込んだだけで。胃洗浄にでもなっていたら地獄の苦しみだったと思うよ」

「すみません……」

 マスターにまんまと担がれた俺は、言葉もない。

 あの人、こうなる事解ってたな。俺が湖恵の前で薬飲むだろうこと。そして湖恵がナースコールで迅速な対応をしてくれる看護師さんたちを呼ぶことも。

[ナースコール連打して、大変だったのは佐名木さんの方よ。錯乱してあなたの名前ばかり叫んでたわ。鎮静剤でちょっと眠って貰ったけれど、そろそろ切れる頃じゃないかしら」

「何から何まですみません……」

「それは、私に言うセリフじゃあないね?」

 じろりと睨まれて、はい、と俺は答える。まだちょっとふらふらしているけれど、立てないほどじゃない。歩けないほどじゃない。

「佐名木さんの義眼は今業者さんが作ってるところだから、包帯が取れるのももうすぐだよ。勿論見えないけれど、それでも包帯は取れる。いつもの佐名木さんと変わらなくなる。君は佐名木さんの顔が好きなのかな?」

「違います」

「じゃあ、どうする?」

「……謝ります。夢でも元気な湖恵が見たかった事、事故って言う現実を受け止められなかった事、全部」

「よろしい」

 看護師さんが笑う。

「では行きたまえ、青少年」

「はいっ」

 俺は仮眠室を出て、いつもよりちょっと遠回りになりながら湖恵の病室に向かう。ドアを開けてベッドに横たわっているその顔を覗き込むと、寝ているのか起きているのかも解らなかった。目覚まし時計とかどうするんだろう、なんてどうでも良いことを考える。携帯端末のアラーム機能? スヌーズさえ切ってれば、勝手に止まるだろう。ならそれで良いのか。

「由生君?」

 ドアを開けると、湖恵が不意に俺を呼ぶ。起きてたのか。うん、と返事をすると、湖恵は長く長く息を吐いた。

 手を伸ばされて、ぺたぺた顔を確認するように触られる。ちょっとくすぐったいなと思った瞬間――

 両手でビンタをされた。

「由生君何考えてるの!? 何にも見えなくて倒れた音がして、本当にびっくりしたんだよ!? 由生君が死んじゃうかもしれないって、本当に、本当にッ!」

「ごめん、湖恵」

「見えないんだよ!? 私もう由生君のこと見えない、高校生とか大人になった姿も全部見れない、なのに今こんなところで自殺未遂とかしないで!」

「だって――湖恵が、何もできなくなると思ったら、俺」

「盲目でもピアニストはいるからピアノだって弾けるし、楽譜は読めないけれど音源聞けば覚えられるよ! 由生君は私がそんなに薄っぺらいと思ってたの!? ひどいよ! ひどいよ……!」

 鼻にかかる声。

 ああ泣いてるんだなと、俺は何だか納得してしまう。

 湖恵は変わってない。

 湖恵は、湖恵のままだ。

 マスターはそれを解らせるために、ちょっと強引な方法を取ったのかもしれない。

「湖恵」

「由生君のバカ。知らないっ」

「ごめんなさい」

「知らないったら知らないっ」

「どうすれば許してくれる?」

 そっぽを向いていた声が、びしっと指さす。その方向には何もない。ああ、見えないもんな。俺の位置なんか解るはずもない。

「由生君のタフィと、『紫陽花』のクッキーがなきゃ許せないっ!」

「……太るぞ」

「女の子には食べて消化しなきゃいけない時もあるんです、だっ!」

 『紫陽花』はマスターの店の名前だ。あそこのチョコチップクッキーは美味い。そうか、行ってなかったから恋しくなって来たか。

「ついでに水筒にコーヒーも貰ってくるか?」

「良いの!?」

 ぱあっとその声が明るくなる。

 なんだ、眼が見えなくても、解るじゃないか。

 自分に脱力しながら俺は、良いよ、と答える。ラテアートはもう頼まない。それでもコーヒーは美味しいから。エスプレッソにミルクと砂糖をたっぷり入れたのにしよう。甘いものに甘いものに甘いもの。でも湖恵が喜ぶなら。事故の後も泣かなかったって言う湖恵が、泣くほど俺を心配してくれたのなら、湖恵は何にも変わってない。ギプスが取れたらすぐにピアノに向かうだろう。そして猛特訓だ。その前に学校の勉強もあるが、それは俺が家庭教師として教えよう。多分すぐに学校は変わってしまうと思うけれど。盲学校、って言うのに行ってしまうと思うけれど。それまで湖恵は、俺の独り占めだ。湖恵、と俺は恋人になって一年目の幼馴染を呼ぶ。

「愛してるよ」

「どこまで?」

「どこまでも」

「よろしいっ」

 頬を赤らめて笑う湖恵。

 俺はせめて、湖恵をずっと好きなままでいよう。湖恵の好きな自分でいよう。

 いつか義眼が発達して、眼が見えるようになるまでは、太ったりしないようにしないとな。だからカフェラテはお預けなのだ。見えなくても湖恵が自慢に出来る恋人で、いたいから。

「とりあえず点字の勉強からか? 俺達」

「あ、そうだね、覚えるの大変そうだなあ……オルゴールみたいで面白いなって思ってたけど、字なんだもんね、あれ」

「一緒に頑張ろうや」

「うん、由生君っ」

 点字タイプライターも買わないとな、と、俺は湖恵の額にキスをした。

「由生君?」

「頑張るのおまじない」

「由生君って時々ロマンチストだよね」

「う、うるせ」

「あ、今絶対顔赤くなってる」

「なってて悪いか!」

「全然悪くないよ。嬉しい」

 湖恵は笑って、手を伸ばす。俺はその手を取って、ぎゅっと握る。

「私も由生君のこと、愛しちゃってるからね」

 中学生の青臭い告白は、だけど心地良く耳に響いた。

 扉を開ければそこには、いつも同じ笑顔の湖恵がいる。

 見えないのに見えている、不思議な世界だった。

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