第7話 脅威
ミツとヒルの記憶に、父親の顔は無い。
しかし、母の表情は眼に焼き付いている。姉弟を見下ろし、別れを告げた母の顔。その哀しげな表情の意味を悟ったのは、それから何年も経った後だった。
母は別れを悲しんだのではない。母はただ、それ以外に知らなかったのだ。自身の子との今生の別れに際して、その生母が浮かべるべき表情を。
父は戦で死んだらしい。そして、母は私たちを捨てた。恨む気持ちなどない。以来、ミツはヒルの姉であり、母である。
オケ王暗殺の騒ぎはすぐに収まり、姉弟は住居に戻って休んでいた。しかし、興奮はまだふたりの胸を高ぶらせ、しばらく眠りにつかせてはくれないようだった。
「モモソ様、王様になったね。何かご褒美あるかな」
炉の中央でちろちろと揺れる小火に照らされたヒルが、無邪気な顔で尋ねる。この子はいつもそうだ。いつまでも子供のように、純真に生きている。
事実、ヒルはまだまだ子供なのだ。身長はミツに並んだし、もうミツは力では弟に勝てない。なにより、この少年はモモソの片腕として働く近臣である。しかし、まだ齢十四であった。
逆に、ミツの方が大人びているのである。弟の母親役も務める彼女もまた十四である。彼女たちは双子の姉弟であった。
「モモソ様はこの島の王になられる。私たちはそれをお手伝いするのよ。ご褒美は、そのあとね」
それを聞いたヒルは一瞬むくれたが、すぐに笑顔を取り戻した。モモソが敵をすべて平らげた後のことでも想像したのだろう。
「そうなったら、姉ちゃんはきっと偉くなるね」
誇らしげな弟に微笑みかけると、彼は嬉しそうにその頭を姉にもたれさせた。
この子はいつも姉を想ってくれる。だが、ミツは地位も名誉も望んでいない。ただモモソの傍に仕えて、その偉業を間近で見ていたいだけだ。
「私は偉くなんてならなくて良いの。だから、そのときには、代わりにあなたが偉い将軍様になりなさい」
ヒルは嬉しそうに頷いて、ミツに抱擁を求めた。
「仕方ないわね」
ミツはそう言って応じると、弟の髪を撫でる。
その手は温かく、柔らかい。
* * *
かの國で新たな王が即位したという情報は、瞬く間に周辺國に広がった。そしてそれを追うように、モモソ王からの使者が周辺の國々に駆けた。彼らは皆、各地の王に対して、モモソ王への服属を求めた。
そしてある日の夕暮れ時、カヤナにもモモソの使者が訪れた。
「伍科の巫女、ミツと申します。ホトビ様に、我らが王モモソの言葉をお伝えに参りました」
夕陽に照らされた祭殿で居並ぶホトビと近臣たちを前にそう告げるのは、髪も肌も幻想的なほどに白い少女である。タタラよりも幼く見えるが、冷たい声からも翠色の瞳からも感情を読みとることは出来ず、固く閉じた蕾のような印象を受ける。
「して、モモソ王はなんと?」
「『余は天神の命に従い、この地を治めるため王として立った。即ち、余に背くは天意に背くことである。
表情を崩さないまま、ミツと名乗る少女はすらすらと述べた。対してホトビはしばらく考え込み、どうしたものかと同席するカゴサカに視線を向ける。しかし彼は怒りに身を震わせて、今にもミツに掴み掛かろうかという体勢である。
「カゴサカ、落ち着いてくれよ」
忠臣に声をかけると、次いでヤスナに視線を移す。しかし、彼は案の定難しい顔をしているばかりで、助け船を出してくれる様子はなかった。
「いくつか尋ねても良いだろうか」
ホトビは使者に向き直ると尋ねた。少女の視線が自身を捉えたのを了承と受け止めて、言葉を継ぐ。
「まず、天神とはどのような神霊で在らせられるのだろうか。カヤナではもっぱら大地を祀っているもので、よく知らんのだが」
ホトビの質問に少女は一瞬怪訝な目をしたが、すぐに口を開き、すらすらと答えて見せた。
「天にも神はおわします。日輪も月輪も天神の御姿、雨風も天神の御業にございます」
これで満足したかと言うがごとく、ミツはその目をホトビに向けた。
「では二つ目だが、『この地』とは何処のことか」
今度こそ少女は訝しげな表情を目の前の男に向けた。そんなことわかりきっているではないか、と言わんばかりである。
「もしや、伍科や茅那、熊木や他の國々すべてをも含めた、大陸の東に浮かんでいるというこの大地すべてのことか」
少女が黙っているのを肯定と見て取ったか、ホトビは大きく笑い、その大きな手で額を打った。
「いや、ミツ殿、誠に申し訳ない。俺は茅那から出たこともない故、知らぬことばかりでな。お恥ずかしいことだ」
しばらく考えたいので今日は泊まってゆかれよ、むっとした表情のミツにホトビは一方的に言い添えた。そして少女をイサチに預けてしまうと、彼はカゴサカを誘って館に戻った。
* * *
巫女の務めは多岐にわたる。
祭殿の管理清掃はもちろん、日常的に里のけがれを祓い、民に請われれば様々な占いも行う。年二回の祭りにおいては歌舞によって神霊を慰める。加えて医療にも携わり、赤子を取り上げ、果ては親を亡くした子供の面倒も見る。
彼女らの出自は様々であるが、多くは親なしの遺児とその子たちである。病や戦で親を失った子たちは巫女に育てられる。男の多くは成人すると独り立ちし、女は夫を持つまで巫女となるが、子を持った後にも巫女として過ごすことを選ぶ者も一部にはいる。
イサチの母もそうであった。そして彼女は、イサチという子をもちながらも、その資質ゆえに、先王の即位と共にヒメミコに選ばれた。
イサチの母は名をヒモロギといった。彼女にはふたりの娘がいた。姉はヒヨミといい、現在はホトビ王の妻である。そして、その妹がイサチである。
本当はホトビのヒメミコには姉のヒヨミがなるはずだったのだ。そしてヒモロギもイサチも、ヒヨミ本人でさえも、そのつもりでいたはずだった。
次にヒメミコとなる者の選定は、その前代のヒメミコが行う。資質に優れた者や神霊に「好かれた」者が巫女たちの中から選ばれ、ヒメミコとなるための教育が施される。
その点、ヒヨミは幼いときから巫女としての素質の高さを示していた。昔から彼女の占いはよく当たったし、歌も舞も見事なものであった。彼女が手当をした患者は不思議と早く回復したし、里の人々たちにも慕われていた。
ヒモロギが、そんなヒヨミをヒメミコにしようと考えたのは当然だったろう。ところが、あるときヒヨミは突然に次期ヒメミコの立場を妹に譲って、当時は太子であったホトビの妻となった。
ヒヨミはなぜヒメミコにならなかったのか。それは、ヒメミコとなる者には、その資質の他にもっと重要な条件があったためである。それは、ヒメミコである間、夫を持たぬことである。ヒモロギの娘たちも、彼女がヒメミコとなる以前に生まれた子であった。そしてヒメミコとなったヒモロギは、夫との関係を絶ってその務めを果たした。
ヒヨミは、ヒメミコとしてではなく、妻として王を支えることを選んだのである。
かくして、イサチは半ば成り行き的にヒメミコとなった。
「先日までの長雨に続いて今度は他國の侵略、どうしてこうも悪いことばかり起こるのでしょう……」
白髪の少女を宿に案内した帰りに、誰に言うでもなくイサチはつぶやいた。半歩後ろを歩くのは、ヒメミコの付き人を務めるアツキという若い巫女である。
「そう気を落とさないでください。ヒメミコ様にだってどうにも出来ぬことはございますよ。それに、長雨の害は小さかったではありませんか。これもヒメミコ様のご尽力ゆえのこと」
「ですが民は大きな不安を抱えています。伍科の件で、不安はまた大きくなるでしょう。私は不安を取り除くべきなのに、どうして良いかわからぬのです……」
神霊たちの気まぐれや、人々の思惑にいちいち振り回されることはないだろうに。アツキはそう思うのだが、こればかりはイサチの気質である。彼女にできるのは、ヒメミコの愚痴を聞くことくらいだった。
陽が沈み、急速に空が暗くなってゆく。松明の光を頼りにヒメミコの館に帰るまで、アツキはイサチを励まし続けた。
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