第6話 暴君の死
タタラたちが暮らすカヤナの北には
そして、この盆地から北西の山を越えた先には、
伍科は海を挟んで大陸に面した位置にあり、擁する民も多く、その力は強大である。大陸との交易によって道具や衣服、装飾品から制度・文化に至るまで多くのものを輸入しており、國を治める王は、茅那や熊木の王とは比べものにならない権威を有している。
この國を強大ならしめた要因はいくつかある。一つは鉄の存在である。大陸との交易を盛んにすることで、伍科は鉄をはじめとする金属を豊富に輸入していた。加えて、渡来人の流入によって高い金属加工技術も有している。鉄製の武器は、青銅器とは比べ物にならない強度を持つ。
二つ目は、技術である。この地域では古くから石器の生産が盛んであり、それは現在にも脈々と伝わっている。武器としての石器の地位は下がったが、代わりに彼らは玉器の生産にその技を活かしている。玉器とは、霊力を持つ玉を加工して作られた祭具である。
伍科の支配者は長きにわたって武器の持つ威力を振るい、玉器に宿る神力を纏って版図を広げてきたのである。
しかし、歴史の歯車は少しずつ狂い始めていた。伍科の後ろ盾である大陸で、権勢を誇ったひとつの帝国が今まさに倒れようとしている。そして海を渡った乙科でも、ある夜、静かに、しかし大きな事件が起きていた。
伍科の王は、長らくオケという男が務めている。
オケ王の父は、他勢力に先駆けて周辺の里を併合し、交易権を独占して現在の伍科の繁栄の礎を築いた男である。そして若かりし頃のオケ自身も、父と共に戦場を駆け、その覇業の一端を担った。
しかし、先王と共に武勇で戦い抜いた巨魁も、老齢となってその支配力は衰え、いまや暴君とまで称されるようになっている。
事実、彼の行いは傍若無人そのものである。胎児が見たいと妊婦の腹を裂いたかと思えば、軽微な罪人を残虐な刑に処してその苦しんで死んでゆく様を眺める。高い税率によって民が困窮する中、王は多くの妾と共に美食を貪り、美酒に溺れた。民の間では、伍科の巫女は皆オケ王の妾であると噂されている。
王も巫女も、己の欲のためだけに民を使役している。不満の溜まった民は罪を犯し、伍科の治める里にはけがれが満ちていた。
昼の暑さが嘘のように冷え、しんと静まる満月の夜。オケ王は床に就こうとしていた。
オケは毎晩、閨には女を伴う。この日は、伍科中の里長を集めての合議が行われたのだが、そんな日も彼はひとりの女と共に館に入った。薄衣をまとったその女は、流れるような黒髪を形の良い腰まで伸ばしている。女の名はモモソ。オケの異母妹である彼女は、伍科のヒメミコである。
この日、モモソは兄であり王であるオケを暗殺せんとしていた。豊かな胸には、よく研いだ小型の短剣を忍ばせている。彼女がことを起こせば、目をかけてきたミツという巫女が祭殿をまとめ、里長どもと兵はミツの弟であるヒルと、フヨと呼ばれる男が抑えることになっている。
ミツとヒルは白銀の髪と透き通るような白い肌、翡翠の瞳を持った姉弟である。孤児であった彼らを引き取り、今まで育てたのはモモソであった。彼女らも労を惜しまずモモソのために働いている。
フヨは大陸の騒乱を逃れて、イツシナに流れ着いた渡来人である。祖国では官吏を務めていたというフヨは、相手を鋭く射抜く切れ長の目を持ち、大陸人らしい扁平な顔に、歳のわりに深く刻み込まれた眉間の皺が印象的である。
渡来したフヨは初めオケ王への近侍を申し出たが許されず、以降はモモソが匿っていた。なぜそんなことをしたのか、理由はモモソ自身にもよくわからない。彼に不思議な魅力を感じたからだろうか。それとも、日々の渇きを癒すような刺激を求めてのことだっただろうか。
それ以来、モモソは時間を見つけてフヨに会っていた。彼が大陸より持ち込んだ知識や物品の数々は、モモソを魅了するに十分だった。王を殺して女王として立つ計画も、この男との話の中で生まれ、共に練ったのである。
オケ王に子はない。民の間では、暴君に神霊の祟りが下ったのだともっぱらの噂である。もっとも、そのような不穏当な言葉を表立って口にする者はいなかったが。
なんにせよ、それゆえオケの後嗣に収まることが出来れば、あえて暗殺などしなくてもいずれ王となることは出来た。しかし、フヨはそれでは駄目だと言った。けがれの象徴たるあの暴君を自らの手で殺してこそ、伍科は真にモモソのものになるのだと。それに、早くこの男を亡き者とせねばならない理由がモモソにはあった。
暴君の世において国を一身に支えてきたヒメミコの決起である。事が成された後に、それに抗う者などいようはずがない。祭殿にも館を守る兵にも、王亡き後にモモソに抗うような者はない。問題は里長どもだが、彼らの多くはここ二代の強き王の下で腑抜けてしまっている。王を暗殺した後、直ちに従わぬ者は考える隙を与えず制圧する。その準備は長きにわたって重ねてきた。
後は、兄の胸をひと刺しにするだけ。それで、すべてが終わる。
「オケ様、本日もお疲れ様でございます」
「ああ。王の務めというのは、誠に骨が折れるものばかりだ」
罪なき民を裁き、美酒に浸ることを、こやつは王の務めという。なんと愚かしい。
大陸からの舶来品である絹の衣をまとった巨体には、余計な肉があちらこちらについている。これが英雄のなれの果てであった。
装飾品の数々も取り払った生身の男が王たることを示すものは、いまやその肉体でも英明さでもなく、首から下げられた小さな金色の物体ばかりである。これは、大陸を治めた「天子」から授けられたものだ。かの帝国から、この土地の支配を認められたことを示す印だという。この男は、この金印を肌身離さず身につけていた。
「肩が凝られたのではありませんか? 私で良ければお揉みしましょう」
「そうせよ」
素直に背を向ける兄の姿は、非常に無防備に見える。首の表面も贅肉で覆われ、頭と肩の境がわからなくなってしまっている。しかし、指に力を込めて肩を押すと、軟弱な脂肪の奥には硬く締まった筋肉が潜んでいる。衰えたりとはいえ、この男が戦場で勇名を轟かせた巨漢であることを示す数少ない名残であった。
少しでも怪しい素振りを見せれば、女の細腕など簡単に捻り上げられてしまうだろう。
しばらく黙って肩を揉んでいると、王は横になって、腰も揉めと催促してきた。それに従い、頑強さを残した肉体に乗りかかって腰をほぐすうち、男の鼻息が荒くなってゆく。命を奪われようという時に、呑気なものだ。モモソは前傾して、生まれ持った豊かな胸を兄の背に押し当てながら、懐の短剣に右手をやった。そして、男の耳元で囁く。
「気持ち良うございますか」
「ん、あぁ」
今が好機だろう。モモソはそう考えて、目を閉じている兄の広い背中をさすりながら起き上がる。そして、懐から細身の短剣をそっと取り出し、ゆっくりと持ち上げ――振り下ろす。
すんでのところで異変に気付いたオケ王が、咄嗟に身をよじった。急所は外したが、短剣は首に突き立った。しかし、硬い。彼の厚い背筋に阻まれて進まぬ刀身を、全体重をかけて押し込む。
「貴様、貴様もかぁぁあ!」
大音声が響き渡る。鉄の刃で首を突かれておきながら、なんという声量だ。暴れる巨体をなんとか抑え込み、短剣を肉に食い込ませるうちにも、館の外が騒がしくなってゆく。しかし、それに気を取られている余裕はない。兵どもはヒルとフヨが何とかするだろう。
咆哮を上げながら逃れようとする兄に乗りかかり、何度も払い除けられそうになりながら、短剣の柄を押し込む。
「くっ」
刀身が肉を裂き、ずるりと進む。刃の全てが首に食い込むと、伍科の王は大きく痙攣した後に、動かなくなった。
それでもモモソは、しばしの間は鉄剣を手放すことが出来なかった。
「モモソ様?」
背後からミツの抑えめな声がしたころには、体に敷いた死体は冷たくなり始めていた。ミツが現れたということは、祭殿は問題なく抑えたのだろう。外も騒がしい様子はない。
安堵からか、疲れがモモソの身体を襲った。兄を弑するだけで、彼女の身体は困憊していた。だが、まだ休むわけにはいかない。ここからが重要なのだ。
そこで初めてモモソは立ち上がり、振り返らぬままに、後ろで控える忠臣に告げた。
「ミツ、新しい衣を持ってきてはくれないか」
「こちらに」
すると、白髪の少女はすぐさま清潔な白衣と帯を差し出した。
「しかし、その前に御手をお清めください」
モモソがその言葉に促されて見ると、自身の両手は血で朱に染まっていた。兄の血であった。
ミツが足下まで進み出て、持参したらしい水差しから水を垂らす。水は清く、冷たかった。血を流し終えてミツが用意した白布で手を拭うと、モモソは血で染まった衣を脱ぎ、新たな白衣に袖を通す。
そして脱いだ衣を預かろうとするミツを制し、モモソはそれを物言わぬ肉塊に被せた。
そこへフヨが無表情に踏み入ってきた。彼はまずモモソに大陸式の礼をし、頭を上げた彼の視線がミツを捉えるとその瞳を訝しげに細めた。
「ミツ殿には、祭殿をお任せしていたはずですが」
「祭殿には、モモソ様に仇なす者などおりませぬゆえ、すぐに参ることが出来ました」
ミツは澄ました顔で答える。それでも何か言おうとしたフヨを、モモソが制する。
「良い。ミツは私のために参ったのだ」
フヨが引き下がると、いつの間にか館の板戸をくぐっていたヒルが姉に並ぶ。
「準備はよいか」
モモソが尋ねると、フヨが答えた。
「里長どもは館の前に集めておりまする」
以降の手順も打ち合わせ済みである。今頃、外では多くの火が焚かれ、館を煌々と照らしているだろう。そしてまもなく、満月が南から館を照らしはじめる。
ミツはもう一つ大切な道具を祭殿から持参していた。白布に包まれたそれは少女の手にずっしりと重たく、包みを解くと鈍い輝きを放つ。その円盤状の物体は、裏面には細かな文様が刻まれ、表は滑らかに磨き上げられている。一つの巨大な霊石を削り、磨き上げた鏡である。伍科の王家に伝わる玉器であった。
少女から玉器を受け取ったモモソは、それを胸の前に下げた。準備が整ったのを見て、フヨが主に先んじて館を出る。
彼に続いて戸をくぐり、地面より一段高くなった戸口に立つと、眼下には伍科中の里長たちと、それを戸惑いながらも取り囲む兵等、そして祭殿の巫女たちが居並び、モモソの姿を見上げている。
「モモソ様。いや、伍科王、皆が待ちわびております。どうかお言葉を」
フヨがあえて声量を高めて述べる。モモソはこれに頷きで返すと、一歩進んで居並ぶ者たちを見回した。
「私は伍科のヒメミコ、モモソである。先日、天神が私のもとに神託を下されて、おっしゃった。曰く、世の乱れは男王の政が原因である。巫女が君として立ち國を治めれば、世は治まるだろうと。それ故、私は神言に従い立ち上がった」
どよめきが広がる。モモソは、それにかき消されぬよう、太く大きく声を張り上げる。
「横暴の限りを尽くしてきた暴君オケ王はもはやない。これよりは、私が伍科の王である」
そう宣言すると、胸に下げた玉鏡を持ち上げ、高くかかげる。それを合図に、モモソを照らしていた篝火がすべて消された。
どよめきがざわめきに変わる。しかし、そのとき人々の眼に光が映った。その光は瞬く間に強くなり、真っ直ぐに群衆の瞳を照らす。光の源を追って、彼らはみな一様に驚いた。女王の頭上に満月が浮かんでいる。
モモソが掲げた鏡が、ちょうど彼女の正面高くにやってきた満月を映しているのだった。
ざわめきが一部で歓声に代わる。すると、たちまち歓声の輪は広がり、全ての者がモモソを讃えた。
そう。私は天神に従い、王を討ったのだ。
霊威を纏った光で者照らされた群衆は、熱狂し叫んだ。
「我らが王、万歳。万歳。万歳!」
こうして、この地に女王が立った。
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