第5話 カゴサカとヤスナ
族長たちの住まいは、民と同じように広場の外側にある。ヤスナは祭殿を降りて広場の外へ向かいながら、ホトビの言葉を思い出していた。
茅那國で鉄が出るかもしれないと聞いたとき、ホトビはヤスナに鉄器の技術について尋ねた。この國では、銅器の製造技術はあっても、自前で鉄器を作る技術は確立していない。
そのとき、ホトビは武器の製造方法についても教えてくれないかと尋ねた。来るべきときに備える必要があるのだと。
王は、民を傷つけるためにヤスナの知恵を使うことはないと言った。
ホトビ王の代になってよりこの十六年間、カヤナの民は戦によって死活の道に迷うことなく、よってその國も存亡の道を誤ることなく、平和を謳歌している。
北方では時に隣國の里との間で食糧の奪い合いも起こるが、その頻度は少ない。手の届くところで異なる共同体が生活を営んでいる以上、虚しいことながらそれは仕方のないことである。そういうときには、カゴサカが出ていって一声吠えた。するとその迫力にたいていの敵は散っていった。
カヤナに従う里の間で諍いが生じることもあった。その多くは水争いの類である。こうした武器を取ってのぶつかり合いにもなりかねない揉め事も、しかしカヤナでは、ほとんどが深刻な衝突には到らない。ホトビ王の尽力の結果である。ホトビは、よく自ら國中の里を訪れて紛争を調停した。
彼は双方の言い分を最後まで聞き、公平に仲介した。あるとき、利水を巡って争う二つの里を、ホトビ王と共に訪れたことがある。水は稲作の要である。解決は難しかろうとヤスナは思っていたのだが、ホトビは三日で双方を納得させて、話をまとめてしまった。
彼は、初めの二日間はそれぞれの里長を訪ねて杯を交わし、三日目には今度は王自身の住居に彼らを揃って招き、三者での宴席を設けたのだった。
ヤスナもその場に臨席したのだが、初めは二人の里長はよそよそしく、場の空気はとても良いとは言えなかった。しかし、酒宴を終える頃には彼らは共に王に心酔した様子で盛んに酒を酌み交わし、肩を組んで気持ちよさそうに歌っていたのが印象に残っている。利水の件はというと、気がついたらまとまってしまっていた。
ホトビ自身は意識していないようだったが、彼にはこうした不思議な魅力がある。彼と一献傾けた者は例外なくその虜となった。
この國の王には、大陸の皇帝のような大権は無い。里長たちは王に絶対の忠誠を誓うわけでも、下僕のごとく跪くわけでもない。ただ、彼を自分たちの代表として認めているに過ぎないのである。
ゆえに、ホトビ王は相手を玉座の下に呼びつけるのではなく自ら里を訪れ、権威に訴えるのではなく自らの徳をもって里長たちに接しなければならない。もちろん、近くに仕える臣にも、田畑の民にも、ホトビはこうした態度を崩さなかった。
大陸からこの地にやって来たヤスナは、これまで数多の君主が奢り、滅びるのを目にしてきた。風土や従える臣民の数は異なれど、この島で出会ったホトビは彼にとって敬うべき君子に、従うべき君主に思えるようになっていた。
だから、この地に鉄が出たくらいのことで王が惑うことはない。それはヤスナにも分かっていた。しかし、族長たちはどうだろう。里長たちは。民たちは。
そもそも、カヤナでは長く大規模な戦は無いが、周囲を見渡せば戦は頻発している。國々を渡り歩く商人たちがもたらす情報は、この島も戦の時代の最中にあることを示していた。
カヤナに戦が起こる。その可能性に思いを巡らせると、ヤスナの心は沈んだ。
そのとき、ヤスナを呼び止める声があった。声の主はカゴサカである。気付けばヤスナは、広場を囲む建物の隙間を抜けて、民の住居が並ぶ区画まで来ていた。カゴサカは彼を狩りに誘うために、そこで待っていたようであった。
きっとこれは、ヤスナの気を紛らわせようというカゴサカなりの気遣いなのだろう。彼は不器用だが、優しい男である。ヤスナはカゴサカの申し出を了承し、二人で弓矢を担いで山に向かった。
里と外界とを隔てる門まで来ると、先を行くカゴサカは道の真ん中に建てられている膝丈ほどの塚の前で膝をつき、足元の砂をひと掴み塚に載せた。これは里を出るときの習わしである。この塚は境塚といって、里の四方に設けられた門すべてにひとつずつ建てられている。この塚の下には銅鐸がひとつ埋め込まれていて、里と外界とを隔てる境界として里を悪霊から守る役割を果たすのだという。
里のすぐそばの木々は大方伐採されていて日光が直接降り注ぐ。水田を越えてくる風は涼感を含んでいるが、それを上回る日差しの強さである。
しかし森に入ると、木々が日光を遮ってひんやりとした空気に包まれる。土壌から立ち上る湿気にもまとわりつくような不快感は無く、土の匂いと共に安らぎをもたらすようである。
「夜の森はあの世へ通じる、そうでしたかな、カゴサカ殿」
「ええ。その通りです。夜の森に入っても碌なことはありませぬ」
「あまりのんびりしている時間はありませんな」
昼過ぎに合議を終えて、日没までに残された時間は多くは無い。森の中にいると気付かぬうちに日は傾いてしまう。彼らは、今日は山奥には入らずに手近なところで鳥でも撃とうと決めた。
しかし、手強い獲物を見つければ挑戦したくなるのが男の性である。
収穫の無いまま獲物を探して歩いていると、どこからか鹿の声が聞こえた。すかさずカゴサカが方向を聞き定め、そちらに向かう。
「鹿は御山の使いと伺いましたが、なぜカヤナの方々は鹿を狩るのです。神に弓引くようなものではありませんか」
ヤスナに問われたカゴサカはしばし考え込んだが、結局的を射た答えは浮かばぬようだった。
「なぜでしょうなあ。まあ、鹿だって時には我らの作物を食いますゆえ、お互いさまじゃなかろうか」
「なるほど、それはもっともじゃ」
ヤスナは手を打ち、笑い声をあげた。
カヤナでは、鹿は地神の使いであるとされる。鹿といえば臆病で、人の気配を感じると途端に森に逃げ込む、近づくことさえ許されぬ生き物である。しかし、鹿は時として自ら人々の前に現れて、神の意志や天地の異常を民に伝えるという。
この地の民の感覚は、大陸の人々と似ているようで異なる。大陸では、天帝の使いに弓を引くなどということは到底考えられない。この地の人々による神々の崇め方は、父母や族長を敬う延長線上にあるように思える。
そのとき、カゴサカが谷底に動くものを見つけた。その様子を見て、ヤスナも息をひそめる。目を凝らすと、それは肉付きが良く、立派な角を備えた牡鹿である。谷川を挟んでいて距離も遠いが、彼らの身長を超える大きさだろう。どうやら、あれが先程の鳴き声の主のようだった。
二人は目配せすると、まずはカゴサカが一歩踏み出し、土手に足場を固めた。
彼は弓を引き絞り、水を飲む鹿の首を狙って撃つ。しかし、その軌道はわずかに逸れて、獲物のすぐ前の川辺に突き立った。それでも牡鹿は泰然として水を飲み続け、彼らに臆する様子はない。
代わってヤスナが弓を引く。ところが、その矢はまたしても外れ、標的のすぐ頭上を越えて行った。
そこでようやく牡鹿は面をもたげ、澄んだ瞳を二人の狩人に向けた。その眼差しは、カゴサカたちを取るに足りぬものと見ているようにも、もう満足したかと問うているかのようにも思える。
新たな矢をつがえるカゴサカを尻目に、牡鹿は彼らに背を向け、悠然と去って行った。諦め切れずにその背に矢を放とうとするカゴサカを、ヤスナが静かにたしなめる。
「あれには当たりますまい。あれこそ、皆の言う御山の使者なのではありませぬか」
カゴサカは無念そうに矢を収める。その姿を見ながらヤスナは続けた。
「大きな体に立派な角。あの牡鹿は、もしかするとホトビ王の守り神かもしれませんぞ」
そう言って笑うと、ヤスナは次なる獲物を探そうとカゴサカに促した。
結局、夕暮れ時になって山を降りる時には、彼らは一羽の雉を担いでいた。鹿とは比べ物にならないが、今晩の飯を贅沢にするには十分な獲物である。
彼らは狩りの成果を持ってカゴサカの家に向かった。カゴサカが、自宅で共に夕飯にしようと誘ったのである。
ヤスナには妻子がなく、大抵のことは一人でこなす。政務で長く留守にする際の畑の世話など、一人では何ともならない場合は近所の民に手伝ってもらって暮らしていた。その代りに、彼は手が空いた時に彼らを手伝う。
博識な彼と共に、世間話に花を咲かせながら作業をするのは、誰にとっても楽しいものであった。そんなヤスナであるから、カゴサカの妻とも顔見知りである。
カゴサカの妻はサホと言う。彼女は何かにつけて諸突猛進しがちな夫を見守り、夫を立てる奥ゆかしい妻である。しかし、時には頭に血が上りやすいカゴサカをたしなめる姿も見られ、妻に弱いカゴサカはすぐ丸め込まれる。家庭での実権を握っているのは、実はサホであるともっぱらの噂である。
「あなた、今日は遅かったですね」
カゴサカがヤスナと共に戻ると、待ちわびた様子のサホが戸口で出迎えた。カゴサカはそれだけで小さくなり、言い訳を探す顔になった。
「狩りにつき合っていただいたのです。それに、ほら、カゴサカ殿が雉をしとめましたぞ」
「ああそうじゃ。ほら、さばいておくれ」
ヤスナの助太刀でカゴサカも得物のことを思い出し、それを妻に手渡す。
サホが雉を手早くさばき、カゴサカが妻の脇で機嫌を伺う間、ヤスナは部屋の中央に備えられた炉の脇に座ってカゴサカの一人息子であるクガネと言葉を交わした。
聞くと、今日はタタラと手合わせしたらしい。少年は自慢げに語った。曰く、彼は初めてタタラに勝ったのだという。太子も散々ホトビ王に鍛えられているはずで、三つも年下のクガネが勝てたのはさすが猛将カゴサカの子と言ったところか。そう言って誉めると、目の前の少年は嬉しそうに笑った。
火に当たっていた二人のもとに、サホが切り身にした雉を持ってきた。他の野菜などと共に高坏に載せてある。
「お二人とも勝手に焼いて食べてくださいな」
カゴサカも席に着いたところで始まった宴は、日がすっかり沈んでも延々と続いたのであった。
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