アッツザクラのせい
~ 三月八日(木) 十三 ~
アッツザクラの花言葉 萌える心
「世間は怖いぞ」
「お兄さんの方が怖いの」
「俺は信用していい」
「そうはいかないの。あたしは騙されないの」
「ちっ。一筋縄ではいかない女だ」
もう定番となったこのやり取り。
ボケるお兄さんに、ガチで受け答えするのは
軽い色に染めたゆるふわロング髪を、一度編んでから結い上げて。
複雑に、ゴージャスに頭に巻いているのですが。
どんな構造になっているのか確認したいところなのですけど。
頭一面を埋め尽くすアッツザクラのおかげで、まったく分かりません。
ピンクの、独特な六枚の花びらが可愛いアッツザクラ。
その花言葉とは裏腹に。
鉢の方には、萌え要素など欠片もありません。
「泥棒さんは、おととい来るの。でも、教室の扉を直してくれたお礼は別なの」
そう言いながら、教授がお兄さんと俺、そして同席している渡さんに目玉焼きを配って歩くと。
「お、いつもの目玉焼きか。これは褒めてやる。店で出せるレベルだ」
お兄さんは調味料などつけずに、美味しそうに丸ごと口へ流し込むのです。
「ほんとなの!? そんなにおいしい?」
「ああ。駅前にある高級洋食店に推薦してやる。看板シェフとして働きながら、腕をさらに磨くといい。……もっとも、口利き料としていくらか必要なんだが」
「そういうことならバイトしてお金を準備するの!」
「……穂咲」
「なあに、香澄ちゃん? …………はっ!? 詐偽なの!」
教授がお兄さんをにらみつけて唸り声をあげるので。
俺と渡さんは、目を合わせて苦笑いです。
「……おい、兄ちゃん。スコップ女が怖くてたまらん。なんとかしろ」
「自分のせいじゃないですか。こいつが怖いなんてことありませんから」
「バカを言うな。こいつは怖い」
お兄さんが親指で教授を指差すと。
渡さんも承服しかねると言った表情で、お兄さんに問いかけます。
「穂咲のどこが怖いんです?」
「簡単だよ。目を閉じてみろ」
一瞬、眉をひそめた渡さんだったのですが。
軽いため息と共に目を閉じたので。
俺も何となく真似をしました。
「じゃあ、想像してみろ。……満席になったバスが山間部を行く。運転席の真後ろにお前が座っている」
うん。
「そして運転席にはスコップ女」
「「こわいっっっ!!!」」
思わず席を立って絶叫した俺たちは。
悪夢から現実へ無事に生還できたと知って、同時に胸を撫で下ろしたのです。
「ひどいの。バスの一つや二つ、簡単に運転できるの」
教授はそんなことを言いながら。
手のひらでくるくるハンドル回してますけど。
それはトラックの運転手さんのスキルなんじゃなかったかな。
「じゃあテストしてやる。右手がアクセル、左手がブレーキ。前に出してみろ」
「簡単なの。こう?」
教授が前へ倣えをすると。
渡さんが察して、その手の平を下に向けました。
その瞬間、急にお兄さんがあげた大きな声。
「目の前に近江牛!」
教授はびくっと反応して。
慌てて、右手を思いっきり踏み込みました。
「うわあ! やっちまいやがった!」
「……あたし達が責任をもって証拠隠滅するしかないわね」
「ああ。それがせめてもの供養だ」
俺たちが、網の上でじゅうと焼ける音を想像して鼻をひくつかせる横で。
牛をひいてしまった教授は、顔を両手で覆いながら震えていましたが。
「……ハラミは譲らないの」
「おい」
食べる気満々とか。
少しは反省しなさいよ。
「今の一件で分かったろう。運動神経の悪いやつにバスの運転はできねえ。それがどういうことか分かるか?」
「うう、分かるの。バスも転がせないようじゃ、一人前とは言えないの」
そうかなあ?
まあ、そういう事にしておきますか。
肩を落とした教授が目玉焼きにスイートチリソースをどぼどぼかけている間に。
お兄さんは、真面目な声音で続けます。
「そんな、運転も出来ないお前にいい方法を教えてやる」
「どうすればいいの?」
「運転できる男子に頼めばいいんだ」
「……おお、それなら簡単そうなの」
いやいや、教授。
俺を見つめられましても。
「いやですし」
あと。
そもそもできないからね、運転。
膨れて、なにやら理不尽なクレームをつけてくる教授に。
お兄さんは無表情のままでダメ出しをします。
「頼み方が良くない。お前には足りないものがある」
「なにが足りないの?」
「萌えだ」
…………おかしなこと言い出しましたね。
でも、いくら可愛くお願いされましても。
俺が無免許で運転してあげたいなんて思うことは、きっと無いでしょう。
ですが、お兄さんは。
呆れ顔で二人のやり取りを聞いていた渡さんに振り向くと。
無茶な事を言い始めました。
「ほら、お前が手本を見せてみろ」
「……え? ……………………ええっ!?」
渡さんは自分を指差した後。
イヤイヤと手を振りますが。
キラキラした目で見つめ続ける教授に根負けしたよう。
盛大に溜息をつくと、小さな声でつぶやくように言いました。
「…………一回しかやらないわよ?」
「分かったの。よく見てるの」
そして俺を、ひきつった笑顔で上目遣いに見つめると。
「く、車の運転……、して欲しいにゃん♪」
両手をグーにして、ネコのポーズで小首をかしげながら言いました。
「します。運転」
即答ですよこんなの。
ギャップも相まってすっごく可愛いのですけど。
教授が拍手など送っていますけど。
でも。
その直前に、君の後ろに立った人にはこの萌えが理解できなかったようで。
半歩ほど、後ずさってしまいました。
「香澄。……なにやってんの?」
もちろん、声の主は六本木君。
……そしてもちろん。
渡さんはフリーズです。
苦笑いのままカチンコチンに固まった渡さんが。
ぎぎぎと音が聞こえてくるような動きで振り返ると。
「こ、これは…………」
「おお。それは?」
「萌えの練習………………、だったのにゃん♪」
猫の手で、ひきつった笑顔のまま。
再び小首を可愛く傾げる渡さんに。
六本木君はばっさりと太刀を振り落としました。
「気持ち悪い」
――俺は今日も、お兄さんから大切な事を学びました。
男たるもの。
女性の一生懸命は汲んであげねばならないのです。
つまり。
大爆発した渡さんの命により。
本日は、六本木君が廊下に立たされました。
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